海外文学読書録

書評と感想

リチャード・パワーズ『オルフェオ』(2014)

★★★★

アメリ同時多発テロから10年後。70歳の音楽家ピーター・エルズは、仕事を引退して趣味で細菌の遺伝子操作をしていた。目的は、音楽ファイルを生きた細胞に入れること。ところが、飼い犬の死をきっかけにそれが捜査官の目に触れ、彼はテロリストの疑いをかけられてしまう。お尋ね者になったエルズは逃亡生活を送ることになる。

二十四年間。しかし語るべきことはほとんどなし。彼は前衛派に猛烈にあこがれ、作曲を学んだ。十曲ほど作品を作ったが、一つも注目を浴びなかった。結婚し、子供も生まれたが、それも捨てた。その結果、今手元にあるのは、高さ四フィート近くにもなる、ほとんどが演奏されたことのない作品の山。(p.258)

リチャード・パワーズはデビュー作【Amazon】が良すぎたので、それ以降の作品はどれも見劣りがするのだけど、本作は面白く読めたほうだった。テロ云々は小説を駆動させる誘引に過ぎず、物語はエルズと音楽にまつわる過去と現在、さらには20世紀音楽史の3つを絡ませている。といっても、わずかな誤解でテロと騒ぎ立てて社会がパニックになるところは、ポスト9.11小説と言えそう。作中では2011年に延長された愛国者法が影を落としている。ただ、本作は紙幅のほとんどが音楽――それもクラシック音楽や現代音楽――にまつわるエピソードで占められているので、個人的には音楽小説として捉えたほうがしっくりくる。

音楽がきっかけで結婚し、音楽が原因で離婚するところは、やはり芸術家の業といった感じだろう。現代音楽の作曲を手がけるエルズは、ご多分に漏れず売れない曲を作っていて、妻からはフルタイムの仕事に就くよう促されたり、誰も聴かない難解な曲を作ることに反対されたりする。そういったこともあって、エルズは娘を乗せたベビーカーを押している最中に気づくのである。「世界が本当に求めているのはごく単純な子守歌なのだ」(p.200)と。「激しい冒険を終えた二歳児を毎晩、八時間の眠りに就かせるための、シンプルな音楽」(p.200)なのだと。

ところが、そんな彼も30ページ後(5~6年後)には豹変していて、欲望の赴くまま作曲に勤しむことになる。

ピーターは自分の机に向かい、一握りの半分ほどの聴衆に聴かせるための曲を作りながら、今いる場所は最高の惑星だと悟った。音楽が体の中からあふれ出す。あらゆる異議を黙らせ、踊り、鼓動する音楽。作曲こそ、彼がやりたい唯一のこと、彼にできる唯一のことであり、今は他の全てを犠牲にしてでも作曲に打ち込みたい。(p.231)

結局はこれが原因で離婚してしまうのだから、円満な結婚生活と幸福な芸術活動は両立しないと言えそう。みんな一度は脳裏をよぎったことがあるのではなかろうか。人は何を優先して生きるべきなのか、と。答えは人それぞれとはいえ、何かを得るには別の何かを犠牲にしなければならないと考えると、なかなか難しい選択である。特に内なる衝動を抱えた人間にとっては悩ましさもひとしおだろう。どうあがいても型にはまった完璧な人生は送れない。僕は自分が凡人で良かったとしみじみ思う。

というわけで、本作は音楽を題材にした芸術家小説を読みたい人にお勧め。ディテールがしっかりしているところは流石リチャード・パワーズである。