海外文学読書録

書評と感想

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(2018)

★★★

芸術家のニコラス・ホーエルには、南北戦争前から四世代にわたって栗の木を育て、その様子を写真に収めてきた祖先がいた。そんな彼がオリヴィアという女子大生と出会う。彼女は感電して死の淵から蘇った女だった。ニコラスはオリヴィアに導かれるまま西へ向かい、原生林の保護活動に身を投じる。さらに、色々な出自の人たちが繋がっていき……。

アダムは後ろを振り返り、ビーバー通りというコンクリートの峡谷を見る。ビーバー。その毛皮の交換がこの街の土台を築いた。マンハッタンで最初の物々交換所。気が付くと彼はこう答えている。「昔からずっと、木は人間に語り掛けてきた。正常な人間にはそれが聞こえていた」。唯一の問題は、再び樹木が口をきいてくれるかどうかだ。すべてが終わる前に。(p.576)

ピュリッツァー賞受賞作。

本作は668ページにも及ぶ柄の大きい小説で、物語としてはたくさんの人物が交差する非常に充実した内容だった。環境問題について綿密な取材をしたところや、人々の繋がりを描いたところなど、問題意識がいかにも現代文学らしく、文学賞を受賞したのも納得である。特にアメリカ人はこういうのが好きだろう。ジョン・アーヴィングやジョナサン・フランゼンなど、この手の大長編はアメリカ文学のひとつの潮流になっている。

僕は環境問題については功利的な見解を持っていて、人間が住みやすいようにある程度自然が存在していたほうがいいと思っている。地球温暖化を防ぐためとか、レジャーのために残しておくとか。あくまで地球の主役は人間であって、自然ではない。環境を保護するのは自分たちのためである。自然と共生するのは当然として、問題はそれらをどこまで支配すべきなのか。人間のアメニティを壊さない程度に環境を保護すべきだと思っている。

とまあ、こういう考えの持ち主なので、環境活動家とはちょっと分かり合えない。僕にとって彼らは圧倒的他者である。人間以外の存在にも道徳的な権威を認めるなんて頭がおかしいと思う。21世紀にもなって神を信じている狂信者と同類なのではないか。しかし、環境活動家にとって自然は人間とは関係なしに存在する先住民であり、その権利は人間と同じくらいあるのだという。人間と自然を対等に見る。自分たちは地球の居候に過ぎないと謙虚になる。確かにこういう視点は重要だ。しかし、僕はどうしても人間中心の世界観から自由になれない。端的に言って、僕は俗物なのである。

ただ、そうは言っても割り切れない部分はあって、たとえば沖縄の自然が破壊されているだとか、アマゾンの森林が危機に瀕しているだとか、そういうニュースを聞くと心が疼いてしまう。このままではいけない、と柄にもなく正義感が頭をもたげてしまう。だから環境保護のマインドは多少は持っている。それが活動家に比べてごく小さいだけだ。本作を読み始めたときは彼らが圧倒的他者に見えたのに、読んでいくうちにまっとうに思え、気がつくとその主張に正当性があるのではと認めている。そんな風に印象が変わったのも内なる環境保護マインドのおかげなので、僕もまったくの人非人ではないのだと安心した。

本作では木の〈声〉というのが重要なテーマとしてあって、このスピリチュアルな要素がある種の説得力を持って読者に示されている。この〈声〉というのは、昨今のアメリカ文学で流行っている作者の〈声〉――ヴォイス――と呼応しているのだろう。作品には作者の〈声〉が内包されているのだという考え。最近出てきた考えだ。僕はそんなものはないと思っているのだけど、業界では一定の支持を受けているのだから切り捨てるわけにもいかない。僕の文学的課題はその〈声〉を探し出すことである。