海外文学読書録

書評と感想

中平康『月曜日のユカ』(1964/日)

★★★★

横浜。18歳のユカ(加賀まりこ)はナイトクラブで外国人相手にホステスをしていた。ユカは誰とでも寝るがキスだけはさせない。そんなユカにはパパと呼んで慕っている船荷会社の社長(加藤武)がおり、ユカは彼を喜ばせようと必死だった。さらに、ユカはボーイフレンドの修(中尾彬)とつるんでいる。修はユカに惚れていた。

戦後のモダンガールを扱った映画だが、ユカの人物像は現代人が見てもぶっ飛んでいる。ユカは性的に奔放で、誰とでも寝る一方、キスだけはさせない。彼女にとってキスは愛する男とするものなのだ。そして、ユカが考える女の生きがいとは男を喜ばせることであり、男に尽くすことが愛情表現だと思い込んでいる。そんな彼女は周囲から「男にとって理想の女性」と呼ばれていた。ユカは表面的にはビッチだが、誰にもキスをさせないところが貞淑のシンボルになっており、それゆえ観客にはビッチという印象を与えない。何を考えているのかよく分からない天然娘といった雰囲気を醸し出している。

ユカの悲劇は人との正常な関わり方を知らないところだろう。男の言いなりになることが愛情だと思っている彼女は、体では繋がることができる反面、心で繋がることはできない。いくら体を投げ出しても相手の心は永遠に手に入らないのだ。現にパパには可愛い妻子がいて、そちらが本命になっている。日曜日はパパが家族と過ごす日だから、愛人のユカは月曜日の女になろう。そう思って月曜日にパパに会いに行ったら、彼は商談の真っ最中だった。結局、愛人とは相手の都合のいい時間にしか構ってもらえないのである。金持ちのパトロンを抱えているユカは、一見すると華やかな女に見える。けれども、実際は孤独で虚しい人生を送っている。

随所に粋な演出が見られて面白かった。映像を止めたり、スキップしたり、早回ししたりはお手の物、他にもスラップスティックなシーンを取り入れている。特に良かったのが、ユカがカメラに向かって語りかけているシーン。ここはヌーヴェルヴァーグを意識した心象風景的モノローグかと思っていたら、実は対面していた警官への懺悔だった。そして、そこからぐるぐると追いかけっこをする喜劇になだれ込み、最終的にはそれが夢だったことが明かされる。本作はこういう人を食った演出が冴えていた。

終盤では埠頭でユカとパパが踊る。このシーンもなかなか粋だと思っていたら、直後に意外な展開が待っていた。この映画、思ったよりも捻くれていて一筋縄ではいかない。

主演の加賀まりこについて。僕が子供の頃、彼女は既におばさんでバラエティ番組で毒舌を振るっていた。当時も女優をしていたようだが、生憎その分野では見たことがない。そして、おばさんのイメージのまま現在に至るので、本作を見てその可愛さにびっくりした。上品で可憐で小悪魔である。偉そうにしている芸能人にも相応の過去があってちょっと感動した。古い映画も見てみるものである。

アニエス・ヴァルダ『5時から7時までのクレオ』(1961/仏=伊)

5時から7時までのクレオ

5時から7時までのクレオ

  • コリーヌ・マルシャン
Amazon

★★★★

パリ。シャンソン歌手のクレオ(コリーヌ・マルシャン)は、今日の午後7時に病院に行って診断結果を聞く予定になっていた。現在の時刻は午後5時。占い師によると、クレオは癌に罹っているという。恐怖と不安に駆られたクレオは、2時間の間パリを彷徨う。

分刻みのスケジュールを追った実験映画だが、今見るとそんな実験的に見えない。カメラはもっぱらクレオに焦点を当てており、彼女の動きに合わせて風景が移ろっていく。結果としてパリの町並みが魅力的に映されていた。

クレオは2時間の間に色々な場所を訪れていて、この時間の潰し方は都会人っぽいと思った。病院までの待ち時間、自分だったらこんなに移動しない。自宅でテレビでも見ながらくつろいでいるだろう。とはいえ、動かなかったら映画にならないわけで、クレオは歩いたりタクシーに乗ったり忙しなく移動する。本作は時間潰しの映画であると同時に、移動の映画でもあるわけだ。面白いのは移動そのものが絵になっているところで、たとえば、タクシーの後部座席からフロンドガラス越しに風景を映していくシーンなんかため息が出る。移動がシーンとシーンの繋ぎではなく、それ自体が目を釘づけにするシーンになっているのだ。固定された場所で何かやるのも面白ければ、移動して風景を映しているだけでも面白い。こういう映画はなかなかないと思う。

クレオの診断結果はどうなるのか。本作は宙吊り状態を軸にしていてかすかな緊張感が漂っている。クレオは冒頭で占い師に癌と宣告され、それが迷信家である彼女に不吉な予感を与えていた。不安と恐怖が蜘蛛の巣のようにつきまといながらも、クレオは様々な場所に赴き、様々な人たちと会話する。そして、その合間には名も知れぬ群衆がいて、彼らもめいめいお喋りしている。有名なシャンソン歌手も都会ではワンオブゼムなのだ。しかし、洗練された容姿の彼女はすれ違う人々から視線を投げかけられている。「見られる」存在としての女性性が強調されている。なぜこんなに見られるのかといったら、クレオを知っている人にとっては彼女が有名人だからだし、知らない人にとっては彼女が美しい女性だからで、どちらにせよ「見られる」宿命にあるのだ。群衆にあって群衆に溶け込めない。こういう視線の暴力性を捉えているところが本作の面白いところだろう。

見知らぬ軍人との出会いで慰めを得たクレオは、最終的に恐怖を克服する。宙吊り状態が解消されることで腹をくくる。状況は厳しいものの、映画としては後味のいいラストだった。

鈴木清順『河内カルメン』(1966/日)

★★★★

河内。百姓の娘・露子(野川由美子)は、工場の跡取り息子にして大学生の彰(和田浩治)に愛を告白される。ところが、その直後ならず者たちに拉致されて性的暴行を受けるのだった。帰宅すると今度は母親(宮城千賀子)が住職(桑山正一)に体を売っている。露子は逃げるようにして大阪へ。キャバレーでホステスをする。

原作は今東光の同名小説【Amazon】。

女の本質は「性」であり、女の「性」は金になる。そういう身も蓋もない事実をケレン味のある演出を交えて描いている。この映画、野川由美子の脚をやたらと映しているところが印象的だ。下手な濡れ場よりもよっぽどセクシーで目の保養になる。

のっけから輪姦を示唆するシーンをコメディ調で描いていて面食らう。この時点で映画がどういうトーンになるのか不安になったくらい。何せ、その前にあった露子と彰のやりとりが、まるで爽やかな青春ものみたいだったから。しかし、そこからはあまりブレず、風変わりな演出を交えながら露子の男遍歴を追っている。この男たちときたらみんな癖があって飽きさせない。

まず1人目。キャバレーの客は中年男らしいしぶとさを見せつつも、脂ギッシュな外見とは裏腹にやさしさを見せている。別れのシーンはせつなかった。2人目。美術家のメガネくんはまるで去勢された犬みたいで、いつぬいペニが発生するのか期待したほど。彼は露子のために何かと骨を折ってくれて最高だった*1。3人目。大学を中退した彰はすっかり山師になっており、資金繰りのために露子に体を売らせようとしている。これではせっかくの初恋も醒めてしまう。

その後も露子は別の男たちと出会うも、こいつらはまあ心身ともに小汚い爺さんで、出会う男のランクが下がっていってるような感じだった。基本的に本作は出てくる男が気持ち悪いので、それゆえに露子の美しさが際立っている。見ていて「こいつらとセックスするのは拷問だ」とため息をついたが、しかし自分もまあいいおっさんなので、若い娘からこう見られているのかと思うとぎょっとするのだった。汚い爺を前にすると自分の行く末を見せられているようでなかなかきつい。今後は女の子に対して性欲を剥き出しにするのをやめようと思う。

印象に残ってるのが、大阪に出てきた彰の住まいを外から映したショット。整備されてない小川が流れていて、その岸にボロ屋が建ち並んでいる。映ったのはほんの一瞬だったが、インパクトはかなり大きかった。当時の日本が開発途上国であったことをひと目で分からせている。

*1:露子から「恋人としては物足りなかったけど、友達としては満点だった」と言われている。

スティーブン・ソダーバーグ『コンテイジョン』(2011/米)

★★★

香港で未知の疫病が発生、世界中に広がる。その疫病は感染力が強く、また致死率も高かった。ミネアポリス郊外に住むミッチ・エムホフ(マット・デイモン)は、疫病で妻(グウィネス・パルトロー)と継子を亡くす。CDCのエリス・チーヴァー医師(ローレンス・フィッシュバーン)は、EISのエリン・ミアーズ医師(ケイト・ウィンスレット)をミネアポリスに派遣して調査に当たらせる。CDCではアリー・ヘクストール医師(ジェニファー・イーリー)がウイルスの遺伝物質を解析する。ブロガーのアラン・クラムウィディ(ジュード・ロウ)は、自身のブログで陰謀論を撒き散らす。香港ではWHOの疫学者レオノーラ・オランテス医師(マリオン・コティヤール)が地元の政府職員に拉致される。

疫病と真摯に向き合った映画で、よくあるパニック映画のように扇情的でないところが良かった。香港で疫学者が拉致されるところはスリラーっぽいものの、基本的には医療従事者の地道な活動を地味に描いている。

主な登場人物が川の上流にいる人たちなので、僕みたいな一般人にはいまいちピンとこないところがある。特にCOVID‑19が流行している現在だと、こんなに上手く物事は運ばないだろうと思うのだ。たとえば、疫病の発生からわずか133日でワクチン接種までこぎつけるのはあり得ない。現実の製薬会社はそこまで優秀ではないから。しかし、所々で垣間見える民衆の挙動は現在を予見している。陰謀論に走ったり、買い占めを行ったり、暴動を起こしたり。これらはアメリカ人の習性を見事に捉えている。アメリカって世界一の超大国のわりには民度が低く、非常時になると国民が簡単に暴徒化するから恐ろしい。行き過ぎたエゴイズムは共同体にとって脅威であることを再確認した。

本作はパンデミックを扱っているとはいえ、焦点を当てている地域が限定的なので、日本人にはあまり刺さらない。日本には日本固有の問題があり、そのことで国民は今も頭を痛めている。国会議員は利権確保に必死だし、ワクチン接種は諸外国に比べて遅れているし、緊急事態宣言の乱発で国民はフラストレーションを溜めている。そういった固有の問題を抜きにしても、本作はあまり下々の人たちにコミットしてないので、そこはもっと上手い見せ方があったと思う。

疫病が社会から奪うのは人と人との信頼関係だ。感染を防止するために人との接触を避ける。相手はウイルスを保持しているんじゃないかと疑心暗鬼になる。本作では描かれてないけれど、COVID‑19が流行している日本ではマスクをしない人間は白眼視されており、店舗によっては出入りを禁じられている。人を見たら泥棒と思えという精神が蔓延している。その結果、同調圧力によって人々は嫌々マスクを着用することになる。僕もマスクをしてない人との会話には抵抗があるので、客観的に見ると世間の同調圧力に加担する側だ。疫病とは人の意識を変え、社会を変えるものだと痛感する。

ロブ・レターマン『名探偵ピカチュウ』(2019/米)

★★★

保険会社に勤める青年ティム(ジャスティス・スミス)は、11歳のときから疎遠になっていた父ハリーが事故死したことを知らされる。ライムシティにあるハリーの事務所を訪れたティムは、一匹のピカチュウライアン・レイノルズ)と出会うのだった。そのピカチュウはハリーのパートナーであり、なぜか人語を話している。ティムとピカチュウは新米記者のルーシー(キャスリン・ニュートン)と協力し、ハリーが関わっていた事件を調査する。

最初から最後まで王道をやっていていまいち面白味に欠けるのだけど、しかしこれこそが家族向けのエンタメに求められていることで、商業映画としては正しいのだろう。ポケモンというコンテンツをハリウッドの王道にはめ込んで映像化する。本作はピカチュウがモフモフして可愛いところがポイントで、彼の一挙手一投足に目が離せなかった。

父と子の確執を人間とポケモンの関係に移し替え、そこから再生のストーリーに持っていったのは上手かった。通常、人間とポケモンは言葉が通じない。パートナーになっても両者はディスコミュニケーションの状態にあり、人間はよく訓練されたペットに接するような感覚でポケモンと生活することになる。言葉が通じないがゆえに、気持ちを通わせることが重要なのだ。このことはティムとハリーの状況と重なっていて、彼らも親子として長らくディスコミュニケーションの状態にあり、だからこそ気持ちを通わせて関係を修復しようという物語上の圧力が発生する。途中までピカチュウが父の代用みたいな立場でティムと行動するのだけど、特筆すべきはピカチュウが例外的にティムと会話できるところだ。2人は劇を通じて思う存分コミュニケートする。そして、終盤でちょっとした種明かしがされる(ピカチュウの声がおっさん臭いのにも理由があった)。一連の冒険が事件の解決を目指すと同時に親子の和解にも結びついていて、その安定感はさすが王道だと思う。

CGによる映像表現は思ったよりも地味で、ピカチュウの造形以外に心惹かれる部分はなかった。これに比べると、MCUは脳汁ドバドバの派手な映像をふんだんに流していて、あれはあれで価値があったのだと思い知らされる。MCUは脚本が稚拙で見るに堪えないけれど、映像におけるテーマパーク的なサービス精神だけは旺盛だった。商業映画とはかくあるべし、というお手本である。個人的な好き嫌いはともかくとして、あれこそが大衆に受ける映画なのだと理解した。

序盤で人語を話すピカチュウを見たティムが、「人間とポケモンで言葉が通じる。何か意味があるんだ」と独りごちる。奇跡に意味を見出すところがキリスト教的で、本作は良くも悪くもハリウッド映画なのだった。