海外文学読書録

書評と感想

W・S・ヴァン・ダイク『類猿人ターザン』(1932/米)

★★

アフリカ。イギリス人のジェームズ(C・オーブリー・スミス)は、象牙を求めて象の墓場を探していた。そこに母国から娘のジェーン(モーリン・オサリヴァン)が合流してくる。一行は象の墓場を見つけるべく探検するも、途中でジェーンが裸の白人男(ジョニー・ワイズミュラー)に攫われる。彼はターザンという名の野生児だった。

原作はエドガー・ライス・バローズの同名小説【Amazon】。

植民地主義が色濃く残るエキゾチックな雰囲気は良かったけれど、映画としてはB級テイストが強くてあまり面白くなかった。何というか、現代のサメ映画を観ているような感覚である。猛獣を意のままに操った撮影技術に驚く反面、見世物小屋的な映像以外に取り柄がなくていまいち興味が持続しない。これだったら奇形児を前面に出した『怪物團』のほうが面白かった。

ターザンは筋骨隆々で身体能力が高く、野性味と同時に紳士的な面も併せ持っている。まさに理想の男性像だ。むしろ、男性というよりはオスと言ったほうが実態に近いだろう。動物たちを従え、自然の中で自活する。文明から遠く離れた原始的な「生」が、当時の観客を惹きつけたのだと推察される。

しかし、普通アフリカでこんな生活を送っているのは黒人のはずである。ターザンが白人と設定されているのは、観客を感情移入させるためだろう。銀幕のヒーローが黒人だったら格好がつかない。ましてや、黒人男と白人女のロマンスなんて許されるわけがない。そこは当時の価値観を巡る複雑な思惑が感じられて、古典映画を観る醍醐味が味わえる。

白人が部下の黒人を鞭打つ光景は植民地主義全開で、こういうのを屈託もなく描くところは隔世の感がある。また、敵役で出てくるピグミー族の集団はインパクトがあった。みんな小人みたいに背が小さく、まるで見世物小屋のフリークスを見ているような気分である。彼らの出演シーンは画面に目が釘付けになった。人体の神秘にしばらく打ち震えたことをここに告白しておく。

ターザンとライオンの格闘シーンはどうやって撮ったのか見当もつかない。ラスボスの巨大猿は中に人が入っているのがありありだったけれど、ライオンはあの動きと大きさから察するに実物だと思われる。よく訓練された人懐っこいライオンなのだろうか。メイキング映像が見たいところである。

なお、ターザン役のジョニー・ワイズミュラーは水泳のオリンピック金メダル選手。ジェーン役のモーリン・オサリヴァンミア・ファローの母親。どちらもただの俳優ではなかった。

ウィリアム・K・ハワード『無敵艦隊』(1937/英)

★★★

フェリペ二世(レイモンド・マッセイ)が統治するスペインは、無敵艦隊を擁して新世界と旧世界を牛耳っていた。そんななか、エリザベス女王(フローラ・ロブソン)が統治するイギリスは、ドレイク提督を海賊にしてスペイン商船を襲わせている。これが両国の間で外交問題になっていた。一方、海戦に敗れて父を失ったマイケル(ローレンス・オリヴィエ)には許嫁のシンシア(ヴィヴィアン・リー)がおり、彼はスパイとして危険な任務に従事することになる。

エリザベス女王を演じるフローラ・ロブソンの貫禄がすごかった。スペイン大使と謁見するシーンでは内心の不安を隠しながら威厳のある対応をとっているし、無敵艦隊と決戦するシーンでは鎧を着用して兵士たちの前で堂々と演説している。本作では老いと若さが対比されていて、エリザベス女王が老い、マイケルが若さを象徴している。エリザベス女王は表舞台で老練さを発揮する一方、裏では鏡を見て老いた姿を嘆いていて、その光と影が魅力的である。エリザベス女王が威厳を保っていられるのも年の功なのだけど、しかし、その表情には疲れも見え隠れしている。彼女の人生に終幕が迫っているとき、若きマイケルはシンシアと結婚して人生の門出を迎えているわけで、こういった世代交代が重なって歴史が作られているのだと実感する。

イギリス映画だから当然ドラマもイギリス寄りなのだけど、そのわりにマイケルはスペイン人の温情に助けられすぎだと思う。序盤で海戦に負けて捕虜になったとき、敵の提督が父の親友だということで見逃してもらえる。しかし、父は逃してもらえず、異端審問にかけられて火刑に処されてしまう。その後、マイケルはスパイとしてスペイン王宮に潜入するのだけど、ここでも顔見知りの女に庇われ、命からがら脱出することになる。脱出後は小船を指揮して無敵艦隊を殲滅していて、これは恩を仇で返しているようなものである。もちろん、マイケルには父を殺された恨みがあるから、そういうつもりはないのだろう。けれども、スペイン人がマイケルを助けたせいで取り返しのつかない結果になったので、何とも言えない歯痒さがある。やはりどんな事情があっても敵に情けをかけてはいけないのだ。本作にはそういう教訓が込められている。

本作は炎のモチーフが面白かった。前述の通り、マイケルの父は火刑で殺されている。そして、終盤ではマイケルが燃えさかる小船を無敵艦隊に特攻させ、すべてを灰燼と化している。炎によって父を失ったマイケルは、炎によって仇討ちを完遂したのだった。こういうシンメトリーな構成は見ていて美しさを感じる。

ジョン・グリシャム『「グレート・ギャツビー」を追え』(2017)

★★★

プリンストン大学の図書館からフィッツジェラルドの直筆原稿が盗まれた。FBIは強盗団のうち2人を逮捕するも、原稿の行方が分からない。保険会社はカミーノ・アイランドで書店を経営するブルース・ケーブルが怪しいと睨み、新進作家のマーサー・マンに調査を依頼する。

「金銭的に行き詰まっているときに本を書くのはむずかしいことだよ、マーサー。僕はそれを知っている。僕はたくさんの作家を知っているが、フルタイムの作家でいられるほど売れる作家はきわめて少数だ」

「だから彼らは教える。どこかの大学に職を見つけて、定まった給料をもらう。私はそれを二度やってきたし、たぶんこれからもやることになるでしょうね。教えるか、あるいは不動産でも売るか」(p.265)

まさかジョン・グリシャムリーガル・サスペンス以外の小説を書いていたとは思わなかった。ミステリとしては事態の推移があっさりしていて物足りないものの、作家と書店主がメインキャラクターなので出版業界の内幕ネタが楽しめる。作家は作家で創作や売り上げに悩み、書店主は書店主で稀覯本や直筆原稿の売買をしている。この辺のマニアックなディテールは、ローレンス・ブロックの泥棒バーニイ・シリーズに通じる面白さがある。

僕はもう実店舗で本を買うことはなくなったから、ブルースの独立系書店が大儲けしていると言われても異世界の出来事にしか思えない*1紀伊國屋書店三省堂書店レベルの規模ならまだしも、おおまかな印象では町の本屋さんレベルである。ブルースはどうやら集客が上手いらしく、作家の新刊が出たら自分の店でサイン会を開いて売りまくっているようだ。アメリカの作家は新刊を出すと全米各地の書店をツアーして回るらしい。日本だとせいぜい都心部でしかサイン会を開かないので、こういう文化は尊いと思った。

作家の集まりで赤裸々に内幕ネタが語られていて興味深かった。大衆向けの作家たちが批評家の称賛を熱く求め、文芸ものの作家たちがより多くの印税を切望している。この現象って日本もアメリカも変わらないのだなと思った。僕の知っている例だと、ある大衆向けの作家は文芸ものに対するコンプレックスが強すぎるあまり、Twitterで出版業界や日本社会に対して呪詛を撒き散らしている。どうやら文芸ものの作家として国際的な評価を得たいらしい。自分は世界文学の作家なのだという自負があるようだ。率直に言って、彼女の作品が欧米で評価されるとは思えないのだけど、そこはそれ、批評家の称賛も多くの印税も望めない泡沫作家ゆえに認知が狂っている。引かれ者の小唄なのだった。

しかしまあ、文芸作品を書いてそれが批評家たちを唸らせ、同時に印税をたっぷり手にできるような作家って、世界中を探しても村上春樹くらいしかいないだろう。そんな彼が本作を訳しているのはなかなか皮肉で、これは面白い巡り合わせだと思う。

作家のマーサーがスパイみたいなことをするのが表のプロット。そして、強盗団の生き残りがブルースを狙うのが裏のプロットである。ブルースはFBIと強盗団の双方から追い詰められようとしているのだった。本作はその危機を解消する手並みが鮮やかである。ただ最初に述べた通り、事態の推移があっさりしているところが玉に瑕だ。

*1:最近はもっぱらAmazon電子書籍を買っている。

マーガレット・アトウッド『誓願』(2019)

★★★★

〈侍女〉のオブフレッドが赤ん坊を連れて逃亡してから15年後。権力の中枢にいる小母リディアは、危険を犯しながら図書館で手記を認めていた。ギレアデ共和国では、オブフレッドの連れ去った赤ん坊が〈幼子ニコール〉としてプロパガンダの対象になっている。同じ頃、カナダではデイジーという少女が暮らしていたが、ある日、彼女の両親が何者かに殺されてしまう。事件にはギレアデ共和国の諜報機関が関わっており……。

公園のひとつにはブランコがあったけれど、スカート姿で乗ったら、風で裾がめくれ、中が見えかねないから、ブランコに乗るなんて不埒なことは考えてもいけない。そういう自由を味わえるのは男の子だけだった。宙に舞いあがり、急降下できるのは、男の子だけ。空を飛べるのは男の子だけだった。(p.25)

ブッカー賞受賞作。『侍女の物語』の続編。

同じフェミニスト文学でも、『パワー』『声の物語』 に比べたら格段に面白く、さすがアトウッドは年季が違うと感心した。

ギレアデ共和国はキリスト教原理主義に基づいた全体主義国家であり、サウジアラビアやイランを過酷にしたような体制である。当然のことながら男尊女卑の社会で、〈侍女〉が「産む機械」、〈妻〉が男性の正式な配偶者、そして、〈小母〉が聖職者と宦官を兼ね備えた役職になっている。今回はこの〈小母〉がキーパーソンになっていて、ダムが決壊するきっかけを作るのだった。小母リディアは、権力闘争を勝ち抜いて体制の頂点にまでたどり着いている。そこに至るまでには鉄血にして冷血な決断を下しており、人の命を奪うことも厭わなかった。しかし、そんな彼女も最初からギレアデ共和国に染まっていたのではなく、旧アメリカ合衆国の時代は判事をしていたことが明かされる。そして、クーデターによって過酷な通過儀礼を迫られていたのだった。生き延びるために新しい体制に順応する姿勢は苛烈で、ここから権力の階段を登っていく気分はどうだったのか察するに余りある。元々持っていた価値観からしたら、ギレアデ共和国に協力するのは犯罪に加担しているようなものだから。けれども、体制内に自分の居場所を確保してもなお、初期衝動を忘れなかったところは感動的だ。ここで示された人の意思の強靭さは目をみはるものがある。端的に言って、小母リディアは英雄であり、彼女は『史記』【Amazon】に出てきそうな人物だ。たとえ私情から来るものとはいえ、命懸けで大義を成すその姿勢は読者に希望を与えるものである。一人の人間がいかにして全体主義国家に立ち向かうのか。不寛容が世界を覆うこの時代、『侍女の物語』にこういう形でケリをつけたのには納得がいった。

夫婦の間に子供がいるとして、それが〈侍女〉から産まれたのか、〈妻〉から産まれたのかで差別意識があるのはいかにも人間社会だと思う。ギレアデ共和国では放射能の影響で子供を産めない女がたくさんいる。だから、健康な女を「産む機械」として男に供している。それなのに〈侍女〉は身分が低く、不特定多数の男と寝ることから「ふしだらな女」と呼ばれている。しかも、普段は不可触民扱いなのに、妊娠すると一転して特別扱いになるのだから現金である。この辺は日本の穢多非人に通じるものがあって、人間社会の不条理は洋の東西を問わないと痛感する。

途中で血のモチーフを連鎖させていくところが面白かった。まずは針仕事での些細な出血から始まり、続いては初潮を迎え、その当日には〈侍女〉が出血多量で産褥死する。言うまでもなく、ここでの血のモチーフは女性性を表している。これが女性の宿命だと考えると、「自分は男性に生まれて良かった」と不覚にも安堵してしまう。

エリア・カザン『欲望という名の電車』(1951/米)

★★★★

ニューオーリンズ。「欲望」という名の電車に乗ってブランチ・デュボア(ヴィヴィアン・リー)が下町にやってくる。訳ありの彼女は、妹ステラ(キム・ハンター)とその夫スタンリー(マーロン・ブランド)の家に居候することになった。しかし、ブランチとスタンリーは反りが合わない。やがてブランチはスタンリーの親友ミッチ(カール・マルデン)と恋仲になり……。

原作はテネシー・ウィリアムズの同名戯曲【Amazon】。

俳優の演技が凄まじくて見応えがあったけれど、ストーリーは救いがなくて気が滅入ってしまった。しばらくは暗い映画を観たくない。底抜けに明るい映画を観て気を晴らしたい。そう思うくらい精神的に疲弊する映画だった。

ブランチの役柄は、おそらくこの年齢のヴィヴィアン・リーにしか演じられなかったのだろう。歳をとって容色が衰え、精神に失調をきたした女。そういう意味で、本作は時代と俳優が奇跡的に噛み合っている。舞台劇みたいなオーバーアクションも、この映画の悲劇性を鑑みれば当然の演出と言わざるを得ない。主要人物はみんないい演技をしていたけれど、それでもなおヴィヴィアン・リーだけ頭一つ飛び抜けていた。

裕福な農園主だったブランチは、零落して何もかも失ってしまった。夫は自殺で亡くし、財産は蕩尽し、本人は加齢によって容色が衰えている。彼女はもう何も持ってない。ここまで落ちぶれたら気が狂うのも当然で、ビッチになるのも仕方がないのだろう。「若さ」という女にとって最大の価値を失ったブランチは、体を求められることでしか心の空白を埋められなかった。男とセックスしている限り、まだ「女」でいることができる。本当の地獄は誰からも相手にされなくなってからだ。彼女は「死の反対は欲望」と述懐していて、つまり、生きるために肉欲を満たしている。ブランチは精神的に崖っぷちに立っているのであり、そんな女を主人公にした本作はえらい残酷だと思う。

スタンリーの暴力性も気が滅入る要素の一つだ。あんな汗臭いマッチョマンが目の前に現れ、怒鳴り散らしたり物を投げつけたりしたら、並の男だって小便をちびってしまう。ブランチにとってスタンリーがケダモノに見えるのも当然で、あんな粗野な人間は貧民街にしかいない。現代においてこの映画を観るのは、暴力とは無縁な中産階級なわけで、スタンリーとの関係においてはブランチに肩入れすることができる。

何も持ってないブランチが、「自分には精神の美がある」と他人に言い放つところがグロテスクで、そういうことは思っていても口に出さない、口に出したら負けだということをちゃんと理解してないところがぞっとする。何を言っていいかの分別がつかないあたり、ブランチは本当に気が狂っていたのだろう。金も若さも失った女は悲惨すぎると思った。