海外文学読書録

書評と感想

アルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』(1938/英)

バルカン超特急(字幕版)

バルカン超特急(字幕版)

  • マーガレット・ロックウッド
Amazon

★★★

富豪の娘アイリス(マーガレット・ロックウッド)は、イギリスに帰るべく大陸横断鉄道に乗っていた。ところが、列車は豪雪のためバルカン半島にある小国で立ち往生する。ホテルで一泊した後に列車は出発。アイリスは客車でミス・フロイ(メイ・ウイッティ)という老婦人と一緒になる。一眠りしてから目覚めると、ミス・フロイは姿を消していた。他の乗客に聞いてもそんな婦人は存在しなかったと言う。アイリスはクラリネット奏者のギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)と共にミス・フロイを捜索する。

原作はエセル・リナ・ホワイトの小説【Amazon】。

イギリスとドイツの緊張関係を背景にした映画で、翌年には第二次世界大戦が勃発している。敵は軍服から察するに明らかにドイツ人なのだけど、国際関係上の微妙な問題もあってか、国籍は伏せられている。観る人が観れば、大戦前夜の不穏な空気が読み取れるだろう。映画は時代を反映するから面白い。

オリエント急行の殺人』【Amazon】が1934年、エセル・リナ・ホワイトの原作が1936年に出版されている。主人公のアイリス以外はミス・フロイが存在していたことを否定しており、それどころかアイリスの記憶喪失が疑われている。アイリスの認知が狂っているのか? それとも、乗客乗員がグルになってアイリスを騙しているのか? こういう問いの立て方をしてしまうのも、やはりアガサ・クリスティの偉大なミステリがあればこそだろう。原作の出版年代を考えると、さすがにネタ被りはあり得ない。だから、どう辻褄を合わせるのか楽しみにしながら観た。

ところが、本作はそんな謎解きミステリもそこそこに、途中から敵の正体が明らかになってスリラーに移行する。謎はあっさり解かれたのだ。この辺はヒッチコックの哲学が如実に表れていると言えよう。

というのも、ヒッチコックは『映画術』【Amazon】の中で次のように述べている。

わたしにとっては、ミステリーがサスペンスであることはめったにない。たとえば、謎解きにはサスペンスなどまったくない。一種の知的パズル・ゲームにすぎない。謎解きはある種の好奇心を強く誘発するが、そこにはエモーションが欠けている。しかるに、エモーションこそサスペンスの基本的な要素だ。(p.60)

これを本作に当てはめると、エモーションを重視するがゆえに、謎解きミステリでは終わらせないということだ。物語の形式としては、「巻き込まれ方スリラー」を採用している。僕の知る限り、ヒッチコックの哲学は徹底していると思う。

列車の閉鎖性を活かした画面作りが良かった。客室も廊下もとにかく狭い。また、列車は高速で走っており、移動できる場所も限られている。逃げ場なんてどこにもない、ということが視覚的にひしひしと伝わってきた。

ルイジ・コメンチーニ『ブーベの恋人』(1963/仏=伊)

★★★★

1944年のイタリア。田舎町に住むマーラ(クラウディア・カルディナーレ)の家にブーベ(ジョージ・チャキリス)という青年がやってくる。彼はパルチザンの闘士で、マーラの父にある報告をしにやってきた。その後、マーラとブーベは婚約するも、ブーベが殺人を犯してお尋ね者になって行方をくらます。やがてマーラはステファーノ(マルク・ミシェル)と出会い、彼と恋仲になるのだった。

原作はカルロ・カッソーラの同名小説【Amazon】。

昔の日本映画みたいだった。本作のジョージ・チャキリスは、高倉健が演じてそうな役回りである。古いジェンダー観も含めて日本っぽいと思った。

戦後の混乱期を舞台にしたベタベタのロマンスだけど、マーラの揺れる女心がしっかり描かれていて、意外にも退屈しなかった。イタリアのパルチザンって日本だと任侠に相当すると思う。つまり、どちらも官憲から追われる日陰者。特に若いブーベは鉄砲玉みたいなポジションで、やはり高倉健を連想させる。で、そんなブーベは逮捕されて監獄に入ってしまうわけだ。その頃にはマーラも新しい恋人(ステファーノ)ができていて、彼から結婚を迫られる。マーラはブーベとステファーノ、どちらを選ぶのか? 本作はこの決定の過程で二転三転しているのだから面白い。ロマンスにあまり興味のない僕でも最後まで観れた。

傍から見るとマーラの選択は合理性を欠いてるのだけど、恋愛とはしばしば理屈を超えるものなのだろう。ブーベが出所する7年後、マーラは34歳になっている。それまで2人は一緒に過ごすことができない。2週間に一度、刑務所でわずかな時間面会するのみである。これだったらステファーノと結婚したほうが良かったのではなかろうか。娑婆と刑務所の恋愛とは究極の遠距離恋愛で、若い女がこれをこなすのは拷問だ。貴重な20代を無為に消費していいのか? と心配してしまう。実際、久しぶりに再会したステファーノは別の女と結婚していたわけで、マーラの非合理的な純粋さが際立つのだった。僕からしたら、マーラとブーベの関係はグロテスクである。しかし、本作はそれを純愛風に見せかけているのだから、随分と悪質ではないかと呆れた。

序盤でブーベにプレゼントされたヘビ皮のハイヒール。さらに、ブーベから貰ったシルクで作ったワンピース。これらが終盤で何らかの意味を持つのかと思ったら、特に何もなくて拍子抜けした。実のところ、ハイヒールもワンピースも伏線だろうと勘繰っていたのである。どうも僕は劇中でシンボリックな小道具が出てくると、それに過剰な意味を見出してしまうみたいだ。悪い癖なので直したい。

60年代にもなるとモノクロ映像も洗練されていて、本作はその映像美が心地よかった。主演のクラウディア・カルディナーレも美しく撮られている。

チャールズ・チャップリン『独裁者』(1940/米)

★★★★

第一次世界大戦。トメニアの兵隊として従軍したユダヤ人の床屋(チャールズ・チャップリン)が、負傷した士官のシュルツ(レジナルド・ガーディナー)を救うも、一緒に乗った飛行機が墜落する。20年後、トメニアでは政変が起きて独裁者ヒンケルチャールズ・チャップリン)がトップに立っていた。記憶喪失で入院していた床屋は病院を脱走し、ゲットーにある自分の店に帰ってくる。突撃隊に詰め寄られた床屋は近所のハンナ(ポーレット・ゴダード)に助けてもらい……。

トーキーになってからギャグのキレが鈍ったような気がするが、それを帳消しにするくらいラストの演説が素晴らしい。チャップリンヒューマニストと評される所以がよく分かった。

全体の雰囲気からすると、この演説だけ「マジ」になっていて浮いている。表情は真剣そのものだし、ユーモアの欠片すらない。しかしだからこそ、一つ一つのセンテンスが心に響くのだ。平和ボケした現代人は、こういうベタなメッセージに対してシニカルな態度をとりがちである。ノンポリこそが賢い大人の態度だと冷笑しがちである。ところが、当時はそんな余裕なんてない情勢だ。ナチス・ドイツが現在進行形で他国を侵略し、ユダヤ人を虐待している。誰かが声を上げなければならない。その役割を担ったのがコメディアンのチャップリンで、彼は自分の影響力をフル活用すべく映画を作った。この手の映画はややもするとプロパガンダに流れがちだが、しかし普遍的な道徳というのは確実に存在していて、本作はそれを体現していると言えよう。おそらく今から100年経っても色褪せないのではないか。単純な話、人が人を蹂躙していいわけないのだ。それが許されたのは野蛮な中世まで。人は歴史から学び、多くの血を流しながら権利を獲得してきた。今更それを失うわけにはいかないのである。

コメディアンとしてのチャップリンは、身長165cmという小柄な体型でだいぶ得をしている。本作の場合、この体型で独裁者(アドルフ・ヒトラーを連想させる人物)を演じているからこそ、強烈なアイロニーになっている。これが高身長のイケメンだと「笑い」を作りにくい。コメディアンとは自分の短所を長所に変える名人だと感心した。

ヒンケルが地球の形をした風船と戯れるシーン。ここで彼は世界と存分に戯れ、最後にはそれを破裂させてしまう。パントマイムによってアドルフ・ヒトラーの何たるかを雄弁に物語っていた。本作で一番好きなシーンかもしれない。

ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺のオペラ』(1970/伊)

暗殺のオペラ (字幕版)

暗殺のオペラ (字幕版)

  • ジュリオ・ブロージ
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★★★★

北イタリアの小さな町タラ。そこにアトス(ジュリオ・ブロージ)という男が汽車から降り立つ。彼の父はムッソリーニ政権下にこの地でファシストに暗殺されていた。父は英雄として町に記念碑が建てられている。ところが、父の愛人だったドライファ(アリダ・ヴァリ)は英雄の死に不審を抱いていた。アトスは彼女の勧めで、抵抗運動の闘士たちの元を訪れる。

原作はホルヘ・ルイス・ボルヘス「裏切り者と英雄のテーマ」【Amazon】。

よく出来たミステリであると同時に、くすんだ建物と植物の緑が混在した映像美がすごかった。およそテレビ映画とは思えない上質の絵作りである。惜しむらくは、テレビでの放送を前提に制作したせいか、画面がスタンダードサイズなのが残念だった。

ベルトルッチがカメラの水平移動を多用するのは、溝口健二の影響らしい。本作でもこの水平移動が目立っていた。冒頭では、建物をアトスが歩いていく様子を長回しで横スクロールさせている(最後にアトスが父親の記念碑に隠れて見えなくなるところが意味深だ)。父の愛人宅では、部屋から出ようとしてまた戻っていくところをカメラを左右に動かしながら映している。そして終盤では、駅舎の窓を通した覗き見的アングルから、アトスが動き回る様子を水平移動の往復によって捉えている(奥から手前に回り込んでくるアトスの動きが巧妙である)。この3つのシーンはどれもインパクトがあって素晴らしい。どうせならシネマスコープで観たかった。

出てくる建物は総じてボロいのに、カメラを通して出現する映像はやたらと美しいのだから驚く。映像美とは何なのか考えてしまった。カラフルでビビットな建物と、緑が繁茂した田園風景。その組み合わせがいいのかもしれない。登場人物の服装もよく考えられていて、ピンクのストライプシャツやカーキ色のスーツなどを事も無げに着こなしている。日本人だったらまず着ない色だろう。それが背景の緑に彩りを添えていて眼福だった。

本作の面白いところは、戦時中を回想したシーンでも人物が現在と同じく年老いているところだ。通常の映画だったら、若く見せるよう俳優に特殊メイクを施すか、あるいは若い俳優に代えるかするはずである。しかし、本作ではそんな小細工を弄さない。しれっと現在の人物をそのまま過去に登場させている(アトスに至っては一人二役だ)。過去と現在が絵的に曖昧であるがゆえに奇妙な感覚を作り出していて、この反リアリズムっぽい作りが新鮮だった。

ラスト。帰りの電車はいつまで待っても来ないし、線路を見たらいつの間にか草が覆い茂っている。アトスは迷宮に閉じ込められたのだった。彼は町の一部となり、陰謀の共犯者となって幕を閉じる。この終わり方は気が利いていた。

チャールズ・チャップリン『街の灯』(1931/米)

★★★★

浮浪者の男(チャールズ・チャップリン)が街角で盲目の花売り娘(ヴァージニア・チェリル)と出会い、彼女から花を買う。娘は男のことを金持ちと勘違いするのだった。その夜、男は自殺しようとしていた富豪(ハリー・マイヤーズ)を助け、彼と友達になる。富豪は酔ったときだけ男のことを友達と認識するのだった。ある日、男は視力回復手術の存在を知り、娘のために金策に奔走する。

大昔に観た映画だが、記憶の中でラストシーンが改竄されていたことが分かった。というのも、娘は男を恩人だと認識しないまま終わると思っていたのだ。背景には『あしながおじさん』【Amazon】みたいな物語への反発がある。他人への善意を餌にして恋愛感情を喚起させ、それを収税人よろしく回収してしまうのは美しくないだろう、と。現実の世界に生きる我々は、自分の善意に対してリターンを求めがちである。だからこそ、フィクションの世界ではそれを避けてほしいという思いがある。

チャップリンの登場シーンが面白くて、セレモニーで彫像を覆っていた布をとった瞬間、そのとぼけた姿を現すのが良かった。さらに、そこから素っ頓狂なムーヴでズボンのケツを破っているところも楽しく、のっけからパントマイムに魅了される。掴みは上々だった。

富豪の自殺を止めるシーンでは、思い切りよく水に飛び込んでいて、コメディアンとは偉くなっても体を張るものなのだなと感心した。ここでは水に飛び込む動作を反復させ、だんだんと収束に向かわせている。言うまでもなく、反復はお笑いの基本だ。それは現代にまで受け継がれている。このシーンのチャップリンは、剽軽な挙動とは裏腹に動きがキレキレで感動した。

最大の見所はボクシングのシーンだろう。序盤、レフェリーの後ろに隠れながら隙を見てパンチを当てているところが良かった。その後は通常のボクシングに移行するが、チャップリンが相手のパンチを軽快にかわしていて、綿密にアクションを示し合わせていたことが窺える。相手の空振りを見ると、相当思いきってパンチを繰り出しており、あれは当たったらかなり痛そうだ。コメディアンとは偉くなっても体を張るものなのだなと感心した。

チャップリンがパーティーでおっさんのハゲ頭を料理と勘違いして食べようとしたり、モブの男がパンに石鹸を挟んでかぶりついたり、随所に仕込まれた小ネタも面白かった。

手術を受けて目が見えるようになった花売り娘が、イケメンの紳士を見て「あの方が帰ってきそうな気がするの」と言うシーン。娘の中で浮浪者の男があんな風に理想化されていることが分かって、見ているほうとしては痛し痒しだった。