海外文学読書録

書評と感想

ヴィットリオ・デ・シーカ『ウンベルト・D』(1952/伊)

ウンベルトD (字幕版)

ウンベルトD (字幕版)

  • カルロ・バティスティ
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★★★★★

長年の間公務員をしていたウンベルト(カロル・バッティスティ)は、愛犬のフランクとアパートで年金暮らしをしていた。ところが、彼は年金が足りなくて家賃を滞納しており、大家(リナ・ジェンナーリ)から追い出されようとしている。ウンベルトは若い女中(マリア・ピア・カジリオ)と気軽に話をする仲だったが、彼女は父親が誰か分からない子供を妊娠していた。喉を痛めていたウンベルトは、女中に犬を預けて慈善病院に入院する。

貧困を描いた映画であると同時に、終活をどうすべきか問題も扱っていて、少子高齢化に直面している我々にとっても他人事ではないと思った。

ウンベルトは妻も子供もいない「おひとり様」で、そこは世間から見れば少数派なのだけど、社会人としては長年公務員を務めていた「普通の人」である。そんな彼でさえ、貧困に陥ってしまうのだから救われない。貧困とは個人の能力の問題ではなく、景気や政策といった社会の構造的な問題である。そのことは日本でも「失われた20年」によって明らかになった。不景気だったら雇用は失われるし、少子化が進めば貰える年金の額も目減りする。また、万が一にも戦争が起きたら一億総どん詰まりになるだろう。いくら人並みの能力を持っていても、社会構造の変化による影響は避けられない。特に少子高齢化の日本ではもはや勝ち逃げすることは難しいわけで、誰もがウンベルトになる可能性を秘めている。

ウンベルトは家賃を払うべく、時計や本を売って金を得ている。しかし、それでも滞納分を返済するには足りない。切羽詰まった彼は、街頭で物乞いを見て自分もやってみようかと葛藤する。街頭に立っておずおずと手のひらを差し出すも、いざ貰う段になったら手の甲を向けてやり過ごす。また、犬に帽子を咥えさせてお捻りを貰おうとするも、それは結局失敗する。彼は物乞いをするにはプライドが高すぎたのだ。一連のシーンは尊厳と実益の間に揺れる複雑な感情が活写されていて、実に人間臭いと思った。

ウンベルトにとって愛犬のフランクは家族みたいなもので、最初から最後まで犬のことを気にかけている。行方不明になったら慌てて保健所まで探しに行くし、自殺を決意したときは誰かに預けようと必死になっている。ここに終活をどうすべきか問題が表れていると言えよう。自分が死んでも犬には幸せに暮らしてもらいたい。しかし、それは不可能だと分かったから、電車に飛び込んで心中しようとする。孤独な人間とはこういうものだということがよく分かる。

本作は犬の使い方が素晴らしい。特にラストシーンには大いに感銘を受けた。犬にも意思があって、長年連れ添った飼い主から離反する。ところが、それも僅かな間で、すぐさま和解に転じる。その様子がとてもチャーミングで救われた気分になった。

アルフレッド・ヒッチコック『パラダイン夫人の恋』(1947/米)

★★★

ロンドン。名家の未亡人パラダイン夫人(アリダ・ヴァリ)が、夫を毒殺した容疑で起訴された。敏腕弁護士のキーン(グレゴリー・ペック)が彼女の弁護を担当する。ところが、彼は夫人の魅力に取り憑かれて弁護にのめり込んでしまうのだった。キーンには糟糠の妻ゲイ(アン・トッド)がいる。一方、検察側の証人にはパラダイン家の使用人ラトゥール(ルイ・ジュールダン)が立つことになっていて……。

法廷劇を通して報われぬ愛を描いた映画で、黄金期のミステリにありそうな話だった。アガサ・クリスティとか、エラリー・クイーンとかがこういうのを書いてそう。

キーンの弁護術が常軌を逸していて、パラダイン夫人を無罪にするため、ラトゥールに殺人の罪を着せようとするのだから驚く。もし違っていたら冤罪だし、相手は身分が低いからそうしても構わないのだという差別意識まで透けて見える。高貴な夫人を救うためならどんな犠牲も厭わない。この精神にイギリスの階級意識を見ることができるだろう。こんな弁護士が実際にいたら恐ろしすぎると思った。

ラトゥールは検察側の証人だから、当然被告にとって不利な証言することになる。それに対してキーンはどう立ち向かうのかと思ったら、ラトゥールをミソジニスト扱いして証言の信憑性を損なったり、さらには殺人者扱いして激昂させたり、およそ英国紳士とは思えない下劣な手法を駆使していてのけぞった。証人への人格批判は法廷ドラマでよく見るが、これで陪審員の心証が左右されたらたまらない。特に今回の事件は状況証拠しかないので、有罪か無罪かの判断が難しいのである。弁護士としてキーンが本当に優秀なのか疑問をおぼえた。

キーンの妻ゲイがよくできた女で、彼女はラストで傷ついた男根を癒やす役割を担っている。そもそも夫のキーンは、パラダイン夫人に惚れたから目が曇ったのだった。ゲイはそのことを知りながらも、回りくどい理屈をつけて夫を支えている。糟糠の妻とは得難いものだと感心した。

キーンはラトゥールの自殺に対してもっと罪悪感を抱くべきだが、そんなことはお構いなしとばかりにパラダイン夫人のことばかり気にしている。僕はこれを見て、身分の低い人間は報われないと悲しくなった。人間は平等ではない。敬意を払われる者とそうでない者がいる。ここに社会の縮図を垣間見たのだった。

このところヒッチコックの落穂拾いをしているが、1930年代から40年代の映画はそんなに好きじゃないことが分かった。全盛期はやはり50年代ではなかろうか。そして、キャリアの集大成が60年代の『サイコ』と『鳥』なのだと思う。

アンジェイ・ワイダ『灰とダイヤモンド』(1958/ポーランド)

★★★★

1945年5月8日のワルシャワ。マチェク(ズビグニエフ・チブルスキー)とアンジェイ(アダム・パヴリコフスキ)が、共産党幹部のシュチューカ(ヴァーツラフ・ザストルジンスキ)を暗殺すべく待ち伏せをする。通りがかった車を襲って2人の乗員を射殺するも、相手はただの工場労働者だった。その後、マチェクが一人でシュチューカを暗殺することに。ところが、酒場女のクリスティーナ(エヴァ・クジジェフスカ)と出会うことで決心が揺らぐ。

原作はイェジ・アンジェイェフスキの同名小説【Amazon】。

まるでアメリカン・ニューシネマみたいだった。共産主義国家で映画を撮ると、こういう暗い映画になるのだろうか。

若者が戦争や革命といった危険に身を投じてしまうのは、失うものが何もないからだと思った。いわゆる「無敵の人」である。酒場でマチェクとアンジェイが死者を悼んでグラスに火をつけるシーンがあるけれど、そこで若いマチェクが大義のために死ぬことを力強く肯定している。一方、年かさのアンジェイは「死に希望はない」と達観していた。何も持ってない若者は 得てして英雄的な死に陶酔しがちである。死ぬことで何かが手に入ると錯覚してしまうのだろう。僕は歳をとってから若者の馬鹿さ加減にうんざりすることが多くなった。それもすべて彼らが「無敵の人」だから生じる問題なのだと理解した。

タイトルにもなっている「灰とダイヤモンド」は、ノルヴィトの詩の一節らしい。それによると、ダイヤモンドは灰の奥深くに埋もれているという。マチェクにとってダイヤモンドは「愛」なのだろう。彼はクリスティーナと出会うことで、普通の生活を望むようになった。失うものができたのだ。捨て鉢だったマチェクは、愛を知ることで葛藤するようになる。ところが、そんなマチェクに対してアンジェイはそっけない。大義の前には私情を捨てろと撥ね付けている。個人を尊重しないのがこの手の組織の悪いところで、こうやって下っ端は搾取されるのだなあと悲しくなった。

夜の道端でマチェクがシュチューカを射殺するシーン。死に体のシュチューカが抱きついてきた瞬間、祝砲のように花火があがるのが皮肉だった。ヒッチコックは男女のロマンスが成就する際に花火をあげていたけれど、本作はそれとは正反対の救いのなさが感じられる。方や戦勝の浮かれ気分。方や使い捨てにされる若者の命。明暗が一つのフレームにきっちり収まっていた。

アンジェイ・ワイダ『地下水道』(1957/ポーランド)

地下水道 (字幕版)

地下水道 (字幕版)

  • タデウシュ・ヤンツァー
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★★★★

1944年9月。ワルシャワは爆撃と戦火によって荒廃していた。サドラ中尉(ヴィンチスワフ・グリンスキー)率いるポーランド国内軍の中隊も、ドイツ軍に追い詰められている。生き残った27名は、地下水道を通って本部と合流することに。道案内のデイジーテレサ・イジェフスカ)は負傷したコラブ(タデウシュ・ヤンチャル)に肩を貸して進み……。

ジャンルとしては戦争映画に入るのだろうけど、扱っているのは地下水道での閉塞状況で、その救いのなさが強烈だった。劇中で展開する地獄絵図は、もはやホラー映画の領域に足を踏み入れている。

地下水道では汚水から毒ガスが発生していて、中隊の人たちは酸欠状態。そのうえ、狭い場所に大勢がひしめいている。毒ガス、汚水、密閉空間。見ているだけで気が狂いそうだった。そこから出口を求めて各自がバラバラになって移動するのだけど、どのルートもバッドエンドで気が滅入ってしまう。デイジーとコラブは、川にたどり着いたと思ったら鉄格子がはまっていて外に出れなかった。その生殺しな状況には無力感をおぼえる。また、マンホールから外に出た連中は、待ち受けていたドイツ軍の捕虜になる。希望の光が一瞬で絶望の闇へと暗転するのだった。さらに、ザドラ中尉とその部下は、手榴弾のトラップを解除して無事に脱出するも、些細なことがきっかけで殺人沙汰に及ぶ。生き残ったザドラ中尉はほんのり発狂していて、仲間を探しに地下水道へ戻っていく。その様子に救いのなさを感じた。

デイジーがコラブに肩を貸して地下水道を彷徨うのは迫力があった。地上では綺麗な顔をしていたデイジーが、顔に汗を浮かべ、ギラギラした目つきで前に進んでいる。これは後にハリウッドで一世を風靡する「強い女」(『エイリアン』【Amazon】のシガニー・ウィーバーみたいな)を先取りしているのではなかろうか。金髪美人なだけにギャップがすごかった。

楽家が発狂するシーンも見所で、目の焦点が合ってないところがリアルだった。彼はオカリナを吹きながら、ハーメルンの笛吹き男よろしく歩き去っている。そのままフェードアウトかと思いきや、意外なところで再登場したので驚いた。そこでは発狂した者と発狂しかけの者、双方が交差している。対比効果を狙った絶妙のプロットだった。

地下水道からマンホールに這い上がろうと人々が殺到するシーン。上の人が下の人を蹴倒していて、リアル蜘蛛の糸といった感じだった。仮に地獄があるとしたら、きっとこういう光景なのだろう。

ルネ・クレール『巴里の屋根の下』(1930/仏)

★★★

パリの裏町。アルベール(アルベール・プレジャン)は街頭で歌を歌って楽譜を売る商売をした。一方、彼の友人ルイ(エドモン・T・クレヴィル)は露天商をしている。2人は移民娘のポーラ(ポーラ・イレリ)と出会うも、スリのフレッド(ガストン・モド)が彼女を掻っ攫ってしまう。フレッドに部屋の鍵を盗まれたポーラは、偶然再会したアルベールの部屋に泊まることになり……。

サイレントとトーキーを折衷したような映画だった。音の使い方に工夫があって、いかにしてトーキー映画として成立させるか試行錯誤してる印象がある。

初めてのトーキー映画を制作するにあたって、合唱を中核に持ってくるのは野心的だと思った。ただ登場人物にセリフを喋らせるだけではない。音楽を意識的に使う。とはいえ、現代の水準だと劇伴の使い方がサイレント寄りで、音楽が流れている間は登場人物のセリフを無音にし、動きのみを映していたのには戸惑った。時代の制約とはいえ、まだサイレント的感覚から抜けきってないところがある。

ガラス張りのドアから店内を映す際、中の音が聞こえない演出は面白かった。このシーンは無音で動きだけを見せている。そして、ドアが開いたら途端に音が聞こえるのだから心憎い。ここはサイレント的感覚が上手くはまっていたと思う。

また、アルベールがフレッドたちと路上で喧嘩する際、汽笛の音で喧騒がかき消されるのも面白かった。ここはカメラワークも工夫されていて、汽笛が鳴っている間、柱を使って肝心の乱闘を見えなくしている。観客の覗き見趣味を意図的に邪魔することで、場面への興味を増幅させる手法がはまっていた。

カメラワークについては、この時点である程度見せ方が確立しているようだった。屋根裏部屋の男女を天窓から映す。カップルが連れ添って歩くところを足元だけ映す(野良犬もフレームに入れる)。映像への意識がとても高いように見受けられた。

昔の映画だからハッピーエンドで終わるのだろうと思っていたら、そこは一捻りあって意外だった。アルベールの心境を歌で言い表しているところがもののあわれを感じさせる。音楽で始まって音楽で終わる構成が余韻を醸し出していた。

というわけで、本作はサイレントからトーキーへの過渡期を象徴する映画と言えよう。そういう意味ではなかなか興味深い映画ではある。