海外文学読書録

書評と感想

マックス・オフュルス『忘れじの面影』(1948/米)

★★★★

1900年頃のウィーン。かつて天才ピアニストだったシュテファン・ブラント(ルイ・ジュールダン)は、決闘を申し込まれて夜逃げしようとした。そんな彼のもとに手紙が送られてくる。差出人はリザ・ベルンドル(ジョーン・フォンテーン)。リザは少女時代にシュテファンに一目惚れし、長じてからは彼とデートしていた。時はピアニストとしてのシュテファンの絶頂期。その後、別れてから10年後に再会するも、シュテファンはリザのことを覚えてない。

原作はシュテファン・ツヴァイク『未知の女の手紙』【Amazon】。

よくできたメロドラマだった。こういう報われない片思いって少女漫画にありそう。自分はこんなにシュテファンのことを想っているのに、当のシュテファンは自分のことを思い出せないでいる。プレイボーイのシュテファンにとって、自分はワンオブゼムに過ぎなかった。遊園地でロマンティックなデートをして一夜を共にし、密かに彼の子供まで産んだのに……。リザは結婚してもシュテファンのことを忘れられず、夫を捨てて再び会いに行くのだから救いようがない。まさに恋は盲目である。

まあ、現実にはここまで一途な女なんていないだろうけど、メロドラマとはある種のファンタジーなので、これくらい現実離れしてるほうがちょうどいい。シュテファンにとっては、リザのことを思い出す機会が2度あった。1度目はリザがまだ18歳だったとき。近所に住んでいた少女として覚えてくれていても良かった。そして、2度目は別れてから10年後。デートをした相手として覚えてくれていても良かった。でも、どちらも駄目だったのだから儚い。いつの時代も、こういう報われない片思いはメロドラマの王道なのである。

シュテファンとリザが雪の積もった遊園地でデートするシーンが良かった。人力の風景列車に乗ったり、オケ付きのダンスホールで踊ったり。そして、そういう暖かな情景も去ることながら、シュテファンがリザに「僕の前から消えないでくれ」と言い、実際は自分のほうが消えてしまうのだから何とも言えない。シュテファンが列車でミラノに向かう際、リザに「2週間」と言い残してそのまま帰ってこないのだからせつないのである。今だったらケータイで連絡先を交換して繋がっているだろうけど、当時はそんなものなかったわけで、昔の映画はこういう部分で得をしている。

冒頭で決闘から逃げようとしていたシュテファンは、「名誉なんて紳士の戯れ」と嘯いていた。それが手紙を読んでからは、逃げるのをやめて決闘に向かう馬車に乗り込む。しかも、相手は凄腕の男らしく、シュテファンは命を落とすだろう。リザの想いを受け止めて襟を正す。この心変わりにぐっときたのだった。

深作欣二『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973/日)

★★★

広島市。復員兵の山中正治北大路欣也)は、刑務所で広能昌三(菅原文太)と知り合った後出所する。山中は紆余曲折の末に村岡組に入り、組長の姪で未亡人の上原靖子(梶芽衣子)と交際することに。その後、村岡組は大友組の大友勝利(千葉真一)に縄張りの広島競輪場を荒らされ……。

『仁義なき戦い』の続編。

山中正治の一代記みたいな映画だった。復員兵の男がやくざの世界に足を踏み入れ、最後は警察に追い詰められて破滅する。ナレーションによると、これが広島やくざの典型なのだという。カタギの僕にはよく分からない世界だが、彼らが賭場でサイコロ博打をしているところはいつも通りだったので、やくざとは本来博徒の集まりであることが窺える。今もああいうレトロな博打を行っているのだろうか? 最近では2010年に大相撲野球賭博問題が発覚して世間を賑わせた。この事件から察するに、博打の種類も時代によって移り変わっていると推測できる。たとえば、本作ではやくざが競輪に関わっているが、これは競輪も立派な博打だからだろう。日本では今後、統合型リゾートと称してカジノを誘致することが決定している。ここにもやくざが絡んでくるのは明白で、善良な市民としては憂鬱になるばかりである。

千葉真一演じる大友勝利は、ハイテンションな愚連隊みたいな感じで、僕の抱いているやくざのイメージとはかけ離れていた。大物なのか無鉄砲なのか分からないところが面白い。やくざというよりは、外国のギャングみたいなキャラをしている。本作でもっとも印象に残っているのが、そんな勝利が敵を吊るして下っ端やくざたちと射撃の的にするシーン。本作のベストシーンである(次点は、山中が屋内で3人の死を確認しているところを天井から映しているシーン)。ともあれ、勝利のキャラはドキュメンタリー調の本作にあって異彩を放っていた。

何かあるとやくざがすぐに発砲するところは、『天才バカボン』【Amazon】の本官さんを連想してニヤけてしまった。彼らは本気なのだろうが、傍から見ているとギャグにしか思えない。発砲といえば、やくざもハジキを持った人間には滅法弱い。襲うほうが常に有利で、襲われるほうはただただ狼狽するのみである。中には命乞いするやくざもいた。この辺に人間味を感じてほっこりする。

組長を頂点としたやくざの疑似家族制度は、天皇を頂点とした近代日本の疑似家族制度と類似性がある。すなわち、前者は組長が父親で舎弟が子供、後者は天皇が父親で国民が子供という制度である。どちらも親孝行という道徳原理が支配的な価値観になっていて、子供は親に絶対服従することを求められている。やくざに右翼が多いことを考えると、両者には何か繋がりがあるのかもしれない。

フィル・クレイ『一時帰還』(2014)

★★★★

短編集。「一時帰還」、「断片命令」、「戦闘報告のあとで」、「遺体処理」、「OIF(イラク自由作戦)」、「兵器体系としての金」、「ベトナムには娼婦がいた」、「アザルヤの祈り」、「心理作戦」、「戦争の話」、「それが開放性胸部創でないのなら」、「十クリック南」の12編。

「家に戻ってきてよかったでしょう?」

シェリルの声は震えていた。どういう答えが返ってくるのか心配しているみたいだった。俺は言った。「ああ、ああ、もちろんだよ」。シェリルは俺に激しいキスをしてきた。俺は彼女をぎゅっと抱き締め、体を持ち上げて、寝室まで運んで行った。思い切り笑顔を浮かべてみたが、あまり効果はなかった。シェリルは俺のことを怖がっているようだった。たぶん、すべての女房が少しは怖がっていたのだろう。(p.10)

全米図書賞受賞作。

イラク戦争を多角的に捉えた短編集でとても面白かった。戦争を一編一編違った角度から見るのは短編集ならではのやり方で、文学の強みを生かしていると思う。映画やノンフィクションでこの味わいを出すのは難しいのではなかろうか。

これについて、作家のH・M・ナクヴィがいいことを言っている。以下は上岡伸雄『テロと文学』【Amazon】から。

「文学はルポルタージュを補完し、現実を具体化することができます。ニュースはニュースです。一日か二日しか寿命がありません。文学は永遠に残るのです」(p.140)

実に頼もしい言葉ではないか。文学にはルポルタージュ以上の力がある。

以下、各短編について。

「一時帰還」。海兵隊員のプライス三等軍曹が、戦地からアメリカへ一時帰還する。久方ぶりの妻との再会。その後、彼は愛犬を始末することになる。ヴィジュアルとしては『アメリカン・スナイパー』を連想した。というのも、イラク戦争についてのイメージソースがあれくらいしかないので、思えば、あの映画でも主人公が何度か一時帰還していた。それで本作、犬の射殺で始まって同じく犬の射殺で終わる構成は、分かってはいても巧みに感じる。それと、ライフルを預けて手持ち無沙汰になる場面は妙にリアルだった。『フルメタル・ジャケット』【Amazon】によると、「This is my rifle, My rifle is my best friend.」なので。そして、ぶっきら棒な文体がまた良し。

「断片命令」。IED(仕掛け爆弾)の工場になっている民家を襲撃する。隊員の一人がハジ(回教徒)に撃たれて負傷する。この短編集、EPW(捕虜)とか、SOB(雌犬の息子)とか、AQI(イラクアルカイダ)とか、やたらと略語が出てくる。軍隊ではこれが常識なのだろう。また、本作はラスト一段落が印象深い。食事中に放心する兵士とそれをケアする上官の「俺」。どちらも大変だ。

「戦闘報告のあとで」。MRAP(耐地雷・伏撃防護車両)が爆破された後、何者かから銃撃を受ける。同僚のティムヘッドがそいつを射殺したが、相手は年端のいかぬ少年だった。「俺」がその罪を被る。軍隊には一握りのサイコパスと圧倒的大多数の健常者がいるそうだけど、後者が正気を保つにはそれなりの手続きが必要なのだろう。特に現場の兵士たちは若い。ニンテンドーDSポケモンをやるような世代だ。そんな若者が自分の弟みたいな少年を殺してしまう。アメリカがドローンによる遠隔攻撃に舵を切った理由が何となく分かった。

「遺体処理」。イラクで遺体処理の仕事をしている「俺」は、海兵隊に入隊することで当時の恋人レイチェルと破局することになった。「俺」は休暇のとき、G伍長と女をナンパする。人はなぜ軍隊に入るのだろう? という疑問を長年にわたって抱いている。徴兵制なら仕方がないにしても、志願制の国でなぜ入隊するのか? ある人物は愛国心からだろうし、別の人物は経済的理由からだろう。あるいは、合法的に人を殺したいという動機も有力だ。しかし、中にはそれらからこぼれ落ちた兵士も一定数いるわけで、彼らの気持ちをシミュレートすることができないでいる。

「OIF(イラク自由作戦)」。「俺」はFOB(前線基地)を出てMSR(補給幹線)を走る。すると「俺」たちの乗ったHMMWV(高機動多目的装輪車両)が横転して炎上した。短めの短編だけど、とにかく略語が頻出して何が何やら分からなくなっている。これはある種の文学的実験だろうか。専門的な表現はそれ自体が異化効果をもたらす。

「兵器体系としての金」。イラク復興のためにやってきた「私」。現地ではいくつか手違いがあり、さらには野球のユニホームが大量に届いている。スポーツ外交の一環としてイラク人に野球を広めるのだという。イラク人はサッカーしかやってなかった。アメリカが世界を自分たちの文化で染めたがっていることを皮肉な調子で描いている。彼らには日本という成功体験があるからね。種を蒔いておけばゆくゆくは大きな市場に成長する。でも、この政策は果たしてイスラム教国でも有効なのだろうか?

ベトナムには娼婦がいた」。イラクに行く直前、「俺」は父さんからベトナム戦争のことを聞かされる。ベトナムには娼婦がいたとか。一方、イラクには娼婦がいなくて兵士たちは自慰をしている。本作を読んで従軍慰安婦を思い出したが、これについて熱く語ったところでろくなことにならないので控えておく。しかしまあ、軍隊にとって性欲の処理は重要な問題だ。携帯型プッシー(オナホール?)を隊員で共有しているというエピソードには思わず失笑した。

「アザルヤの祈り」。従軍牧師のところにロドリゲス上等兵が話をしにくる。ロドリゲスは牧師に同僚の戦死の真相を語る。銃撃を受けた数だけ部隊の評価があがるというのは、前線の兵士に誤ったインセンティブを与える。だからフルチンでジャンピングジャックなんてことをやらかす。それはそうと、イラク戦争ってアメリカが勝利したという認識だけど、実はベトナム戦争と同じくらい現場の人間は傷を負っている。さらに、イラク人にとって彼らは解放者ではない。人殺しとして大いに恨まれている。もう先の大戦みたいに勝利を祝うなんてできないみたいだ。

「心理作戦」。帰還兵のワグィが、同じ大学に通う黒人女性のアマーストに戦争の話をする。ワグィはアメリカ在住のアラブ人でコプト教徒だった。一方のアマーストイスラム教徒に改宗したばかり。ワグィはイラクで心理作戦を担当しており……。戦争とはあの手この手を使って敵を殺すのだなあと思った。たとえ銃を撃たなくても、言葉で人殺しに加担することができる。あと、帰還兵が無価値な民間人に対して優越感をおぼえるという指摘には目から鱗が落ちた。かつて世間を騒がせたシリア北大生も、これを味わいたくてあんな事件を起こしたのだろう*1。自分は特別な人間なのだとイキるために。ホント、しょうもないな。

「戦争の話」。戦場で大火傷を負ったジェックスが取材を受ける。相手は戦争に反対する芝居を書いている人。帰還兵とコラボしているという。本作でもっとも心に残ったのが、「反戦映画なんてないんだよ」というセリフで、これは映画好きだったらピンとくると思う。戦争映画には多かれ少なかれ「快楽」が仕込まれていて、我々はそれが欲しくて映画を観ている。『フルメタル・ジャケット』【Amazon】や『プラトーン』【Amazon】を観て海兵隊に入った人も大勢いるだろう。人殺しの快楽、非日常の快楽。戦争映画は麻薬である。

「それが開放性胸部創でないのなら」。除隊して法曹界に入った「僕」が、アフガニスタンから帰ってきた同僚と再会する。なるほど、軍隊では士気をあげたり、新兵を勧誘したりするために死を美化する必要があるのか。死者を英雄にする。人間は愚かだからそういう詐欺にほいほい引っ掛かってしまう。自分が死んだら元も子もないのに。この世で一番信用してはいけないのはヒロイズムだ。

「十クリック南」。砲兵隊がICM(改良型通常弾)を撃ち込んでゲリラの集団を始末した。ナイフで人を刺すのと銃で人を撃つのとでは、殺人への抵抗感がだいぶ違うそうだけど、ミサイル攻撃だとより一層の違いがあると思う。何せ敵の死体すら見ないのだから。敵との距離が遠ければ遠いほど抵抗感が薄れる。それにしても、本作は書き出しが素晴らしい。たったいま人を殺した兵士は健康的な食事を心がけている。このギャップがたまらない。

*1:2014年8月頃、北海道大学の学生(26)がISの戦闘活動に参加する目的でシリアへの渡航を企てた。

ミゲル・デリーベス『糸杉の影は長い』(1948)

★★★★

城壁都市アビラ。孤児のペドロが、叔父に連れられて教師ドン・マテオの家へ。住み込みの生徒になって教育を受けることになる。このときペドロは10歳だった。やがて同年輩のアルフレッドもこの家にやってくる。彼には家庭の事情があるようだった。アルフレッドに不幸な出来事が起きた後、ペドロは家を出て船乗りの世界に飛び込む。

その頃、糸杉が落とす黒くて長い、息の詰まるような影のもとにいても苦しみを感じることはなくなっていた。奇跡の変革はもう起こったのだ。ある日、遠くの町の公園で感心した現象がいま私の心の中で起きていた。あの時、椰子の樹皮に松の種がよくも発芽できるものだと驚いた。今では、双頭の怪物かあるいはヤヌス神が二つの顔を見せるみたいなもので、あんなものはごくあたりまえの植物現象としてどこにもあるのだと思えた。私の心に影を落としていた糸杉の幹にジェーンが別の種を蒔き、それが手厚い世話と愛情のもとに深く根を下ろして花を植え付けたのだ。(p.255)

これは著者のデビュー作だけど、既に老成しているというか、達観しているというか、とにかく人生観がしっかりしていて驚いた。幸福と不幸の本質を捉えているあたり、とても28歳が書いた小説とは思えない。さらに、登場人物の思索や物語の筋運び、緊密な文体など、すべてが新人離れしていて、まるでベテランが書いたような小説だった。昔の人間は20代で既に成熟していたのだろう。現代人は寿命が延びたぶん、大人になる年齢も先延ばしになったと思う。

幸福か不幸かは柔軟に放棄できるかどうかの問題であり、難しいのは手に入れることではなく放棄することである。ドン・マテオのこの人生観が全編を貫いていて、ペドロがどのようにしてそれを乗り越えるのかが本作の肝になっている。ペドロは第一部で大切な友人アルフレッドを亡くし、そのせいか長じてからは厭世的な人間になった。喪失を恐れるあまり手に入れることに消極的になったのだ。五体満足の人間は腕を失うと悲しみに暮れる。それに比べて、生まれながらにして腕がない人間は失う悲しみがない。アルフレッドの死は、幸福を手に入れようとする生活からペドロを遠ざけた。けれども、そんな彼の前に運命の女が現れ、ペドロの頑なな心を氷解させる。面白いのはそのままハッピーエンドを迎えるのではなく、そこからもう一捻りあるところで、物語は紆余曲折を経て止揚する。この手並みが鮮やかで、読後感はかなり充実していた。

墓地が重要な場所になっているところもポイントだろう。死者ゆえに生者があるという哲学が、この二部構成の物語において対照的に示される。すなわち、第一部におけるアルフレッドの死と、第二部におけるジェーンの死だ。ふたつの死は同じ喪失でも続く展開への意味合いが大きく異なっている。単純に言えば、停滞と進展だ。そして、最後にペドロが神に回帰するところは無宗教の僕にはピンとこなかったけれど、しかしこれはドン・マテオの教えに回帰することでもあるので、小説としては収まりがいい。幸福とは何か、生きるとは何か。その問題に真っ向から取り組んだ本作は、やはり新人離れした小説だと思う。

ところで、文学ってほとんどの場合、行き過ぎた物質文明を否定しているような気がする。モノに溢れた豊かな世界をハックしてハッピーに暮らそう、みたいな小説に出会ったことがない。本作を読んで今更ながらそのことに気づいた。

ディディエ・デナンクス『死は誰も忘れない』(1989)

★★★

1963年。14歳のリュシアン・リクアールが同級生に罵られた後、付近の池で死体で発見される。1987年。ジャーナリストのマルクが、第二次大戦中にレジスタンス活動をしていたジャン・リクアールにインタビューする。ジャンは戦後、無実の市民を対独協力者として殺害した罪で裁判にかけられていた。

カンブランは青年を睨みつけた。

「たとえ死の床にあったとしても、事情はなんら変わらんよ。当人だって、手紙を投函する前にゲシュタポに売る相手の歳を考慮したわけじゃあるまい? レジスタンスはおまえたちを対独協力と密告の罪で死刑判決を下した。壁のほうを向け」

彼は自分のピストルにちゃんと弾が装填されているかどうか確かめると、息子のルブルックに近づき、首筋に弾丸を撃ちこんだ。(p.93)

ロマン・ノワールとは文芸志向のハードボイルドのことだろうか。あらすじから察せられる通り、社会派っぽい要素も入っている。今回は戦時中のレジスタンスを題材にしているのだけど、これがまた彼らの微妙な立ち位置を表現していて興味深かった。同じフランス人でも親独と対独に分かれていて、戦後になってもわだかまりが残っている。レジスタンスは救国の英雄ではあるけれども、だからといって絶対無謬というわけではない。無実の市民を殺した場合は後で裁判にかけられてしまう。この辺はしっかり筋を通していて、愛国無罪にならないところが意外だった。

とはいえ、ナチスに協力していたら容赦なく殺すところはなかなかぎょっとするものがある。たとえ同じフランス人でも、裏切り者として無慈悲に処刑されるのだ。僕は戦争を知らない世代なので、戦時中の倫理についてあれこれ言う資格もないのだけど、それにしたって殺人はやりすぎだと思う。自分がもし当時の市民だったら、保身のためになりふり構わず行動していただろう。特高警察に入っていたかもしれないし、プロレタリアの闘士になっていたかもしれない。体制に脅されたらそれに従うし、レジスタンスに脅されたらそれに従う。政治信条よりも目下の安全を優先して行動する。それが人間というものではなかろうか。自分の命以上に価値のあるものなんてこの世に存在しないわけで、非常時における身の処し方は難しいと思う。

日頃から私怨があって、戦時のどさくさに紛れてそれを晴らすのはわりとありそう。たぶん平時よりも完全犯罪しやすいはずだ。それと、マルクがリシュアンの死の真相をジャンに教えることによって、ラストのカタストロフが起きるのは何とも言い難い読後感がある。相手は100歳の老人で、放っておいてもすぐ死ぬだけになおさらだ。本作は全体的にあっさりした叙述で、ロマン・ノワールとはこういうものかと得心した。現代作家だと、フェルディナント・フォン・シーラッハに似ている。