海外文学読書録

書評と感想

スティーヴ・エリクソン『ルビコン・ビーチ』(1986)

★★★★

(1) 刑務所から仮釈放されたケールは、図書館で働くことになった。ある日、彼は女が男の首をナイフで切断するところを目撃する。(2) 南米のジャングルで生まれたキャサリンは、村人たちの不信を買い、勝手に賭けの対象にされる。村人たちは賭けに負け、キャサリンは船乗りに連れて行かれることに。(3) 第二次世界大戦前。ジョン・マイケルが今まで誰も見つけなかった新しい数を発見する。その後、彼は数奇な出会いを果たすのだった。

私はアメリカに捕まったんだわ、とキャサリンは思った。アメリカでは人びとは自分の顔を知っていて、その顔は自分のものだと信じているんだわ。最初はおそらく彼らの顔も夢の奴隷だったのでしょう。やがて、彼らの顔が夢を奴隷にするのではないかしら。(p.237)

スティーヴ・エリクソンの小説を読むのは実に7年ぶり。本作は著者の長編第2作で、例によって妄想上のアメリカを大胆な構成で書いている。ただ、先に『黒い時計の旅』【Amazon】や『エクスタシーの湖』【Amazon】を読んでいたせいか、リアルタイムで読んだ人が味わったような衝撃は残念ながら味わえなかった。やはり作家別に読むのだったら、デビュー作から順番に読んでいくべきだ。その作家の試行錯誤の過程が分かるから。いきなり代表作から飛びつく読み方は良くない。どうしても遡及的な読み方になってしまう。

本作は3部構成になっている。冒頭に記したあらすじだけを見ると別々の物語に思えるが、実は3つとも奇妙な形で繋がっている。その繋がり方が本作の肝といってもよく、敢えて辻褄を合わせない微妙な重なりが幻想小説みたいで何とも言えない感慨を引き起こす。さらに、作品の雰囲気も幻視者らしく独特で、第一部のディストピアっぽいアメリカは、トランプ政権下の現代アメリカと奇しくも呼応しているような気さえする。つまり、ラジオの所持が禁止されていて、反政府組織みたいなのが存在して、アメリカ1とアメリカ2という分裂さえ仄めかされる……。こういう小説を80年代に書いたところが著者のすごいところで、カルト的作家という呼称がここまでふさわしいのも珍しい。偶然ではあるにしても、現代においてアクチュアルな話になっている。

アメリカの作家はアメリカのことを書きたがる、みたいなことを誰か(柴田元幸か都甲幸治のどちらかだったと思う)が書いていた。本作はそのケースにもろに当てはまっていて、その動機はどこから来るのだろうと不思議に思った。ヨーロッパやアジアに比べて歴史が浅いからだろうか。スケールが大きいところは特筆に値する。

ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』(2005)

★★★

(1) コメディアンのダニエルは世相を皮肉ったショーで一世を風靡し、さらには映画監督としても成功する。金持ちになった彼は貪欲にセックスを求めるのだった。(2) 異常気象によって人類の大半が死滅した未来。ネオ・ヒューマンのダニエルが、自分の遺伝的先祖であるダニエルの人生記に注釈をつける。

〈人生記〉について、具体的なきまりはない。人生のどの時点から書きはじめてもよい。たとえば絵画を観賞するときに、どこから見はじめてもいいのと同じだ。重要なのは、徐々に全体が見えてくることだ。

素粒子』【Amazon】の系譜に連なるSF要素を取り入れた長編。作風としてはまだ一皮剥ける前といった感じだろうか。とはいえ、『地図と領土』に出てくる芸術家、『服従』に出てくるイスラム問題といった、後の作品で重要になる要素は散りばめられている。また、作中でエロヒム教会という新興宗教が大きく取り上げられているけど、これは『ランサローテ島』に出てきたラエリアン・ムーブメントをモデルにしているので、同書を先に読んでいると理解が楽になるかもしれない。

本作では老いによって性的魅力も性的能力も減退し、若い娘たちと弾けることができなくなる悲しみが描かれている。日本人の読者としてはこの辺の機微がいまいちピンとこなかった。というのも、日本だと若い娘とキャッキャウフフしたければキャバクラに行けばいいし、それ以上のサービス、すなわちセックスをしたければソープランドに行けばいいから。金さえあれば質の高い性的サービスは買えるのである。問題は「愛」だけだが、こればかりは時間をかけて築き上げるしかない。だからこの部分の喪失感はよく理解できる(それにしても、自殺することはないだろう)。ともあれ、セックスの問題に関しては風俗産業に乏しい欧米社会ならではという感じがした。

あと気になったのは、ダニエルに趣味らしい趣味がなかったことだ。娯楽に溢れた日本では、スポーツからアニメまでいくらでも趣味に没頭して気を紛らわせることができる。ところが、ヨーロッパには何もないから愛とセックスに明け暮れるしかない。そして、そういった空虚な生活を送っているから怪しげな新興宗教にはまってしまう。これを読んで、実はおたくって人生の勝ち組ではないかと思った。愛とセックスから遠く離れていても、彼らは人生が充実している(ように見える)。ダニエルもせっかく金を持ってるのだから、すべてを使い切る勢いでやりたい放題やればいいのだ。一介の趣味人としてはそう考える。

ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』(2010)

★★★★

19世紀。ユダヤ人嫌いの祖父に育てられたシモーネ・シモニーニは、祖父の死後、公証人のもとで遺言書をはじめとした文書偽造の仕事をする。やがて彼は各国の秘密情報部と接触し、文書偽造の技術を駆使して政治的陰謀に関わっていくのだった。

人は海や山を舞台にした事件や犯罪小説を単なる娯楽として夢中になって読みます。そして、知った内容をあっけなく忘れてしまい、小説で読んだ事柄を史実のように語られると、なんとなく聞き覚えがあると感じて、自分の主張の裏付けだと考えるものなのです。(p.374)

該博な知識に裏打ちされたディテールも魅力的だけど、何より陰謀小説やスパイ小説みたいな高い娯楽性を兼ね備えていて面白かった。主人公以外はみな実在の人物らしく、物語も実際の歴史を辿っているという。デュマやガリバルディといった有名人と接触したのには軽く興奮したし、さらには、イタリア統一、パリ・コミューンドレフュス事件、『シオン賢者の議定書』と、歴史の大舞台に裏側から関わるのも刺激的だった。陰謀論が蔓延する19世紀ヨーロッパの雰囲気を追体験できたのが収穫で、こういうことができるのもフィクションならではだと思う。

フリーメイソンイエズス会ユダヤ人が陰謀論の主役というのは、現代とあまり変わらなくて苦笑してしまう。しかも、陰謀論と言ってもゼロから物語を作るわけではなく、既存の小説や文書を参考にして陰謀論を練り上げていくのだから何とも滑稽だ。有名どころだと、デュマやドストエフスキーの小説を元ネタにしている。今はインターネットの普及で文書を偽造してもすぐに検証されて見破られてしまうけど、当時はそういう手段がないから厄介と言えるだろう。マイナーな小説(外国のだったらなおいい)を元ネタにされたらまず分からない。

主人公がユダヤ人嫌いの小悪党で、計画のためには人殺しも辞さないところがいい。金欲しさに秘密情報部からの依頼を受け、時には自分の失敗をネタに強請られ悪事を働いている。こういう非情な人物だからこそ物語が上手く転がっていくわけで、本作のスパイ小説のような面白さもこの人物ありきだと思った。

オルハン・パムク『僕の違和感』(2013)

★★★★

12歳のときに故郷の村からイスタンブルに移住したメヴルトは、学校に通いながらヨーグルトの呼び売りをしていた。成人後、いとこの結婚披露宴に出席した彼は、ある女の子に一目惚れする。3年間恋文を送り続け、いざ駆け落ちをするも、ついてきた相手は惚れた女の姉だった。

メヴルトはようやく、四十年間ずっと知っていながら、しかし明瞭にそれとは気づかないでいた真実を悟った。彼は自分の頭の中を巡り歩いているような気がするからこそ、夜の街を歩き続けてきたのだ。自分自身と話しているように思えるからこそ、壁や広告、影、あるいは暗闇の中にあって判別のつかない、不可思議で神秘的な事物たちと言葉を交わしてきたのだ。(下 p.365)

1960年代から2010年代まで、半世紀にわたる人生を追った大河小説である。全体としては語り口が飄々としていて親しみやすく、メヴルトに焦点を当てながらも様々な人物の語りが割り込んでくる。訳者が違うせいか、同時期に刊行された『黒い本』と比べて抜群に読みやすい。オルハン・パムクの小説は全部この人が翻訳するべきだと思った。

イスタンブルに住む庶民の生活が興味深い。みんな田舎から出てきて勝手に一夜建ての家を作り、各々商売をして生計を立てている。我らがメヴルトはボザというアルコール飲料の呼び売りを終生の職業とするのだけど、それ以外にも軽食スタンドの店員や駐車場の監視員、電気料金の徴収人など、時代に応じて様々な職についている。メヴルトは友達は多くない代わりに、いとことの付き合いが密で、なるほどこういう親族同士の助け合いがイスラム社会の肝のようである。やはりこういうマイナーな国の小説は、登場人物の生活を通して背後にある社会が透けて見えるところが魅力的なのだ。本作の場合、イスラム社会と言ってもわりと世俗的で、女性でも大学に進学できたり、人々が公然と飲酒をしていたり、こちらの偏見を覆してくれたのが新鮮だった。それと、クルド人が出てくるところも特筆しておきたい。

若き日のメヴルトはサミハという少女に恋をしたのだけど、手違いでその姉ライハと駆け落ちして結婚することになる。こういう状況だと、相手を愛せるのか、果たして幸せになれるのか、という疑問がわいてくるだろう。しかし、本作はその答えがふるっている。というのも彼は、中年になってライハと死別してからサミハと再婚し、当初の念願は叶いながらもラストで次のようなセリフを残す。

「ボーザ―」通りへ出るとメヴルトは声を張り上げた。金角湾へ向かって、まるで無窮へ続くかのような佇まいを見せる通りを下っていくと、スレイマンの部屋で見た景色が眼前に蘇った。都市に語るべき、その壁に書きつけるべき言葉をようやく思いついた。公的でもあり、また私的でもある思いを託され、心の意志と言葉の意志が込められた言葉を。メヴルトは自分自身にこう声を掛けたのである。

「僕はこの世でライハが一番、愛しいんだ」(下 p.371)

いやー、痺れた。この幕引きは今まで読んできた小説のなかでも指折りの美しさだった。読んでいるこちらも報われた気分になった。

鄭義『神樹』(1996)

★★★

山西省の山村。樹齢数千年の神樹が花を咲かせた。それを機に村にゆかりのある亡霊たちが次々と現れ、過去の出来事を呼び覚ましていく。やがて村には大勢の参拝客が訪れるようになった。そこへ共産党が迷信を打破するために戦車隊を送り込んでくる。

「お前だって共産党だ、党の言うことが政策だ、ってことぐらい知っとるだろう。毛主席もおっしゃった――政策と策略は党の命である。今日の名誉回復も政策、昨日の闘争鎮圧も政策だ。今日は今日の形勢あり、昨日は昨日の必要あり、今日の政策で昨日の政策を否定できるもんかね」(p.45)

亡命作家じゃないと書けないような内容でなかなか刺激的だった。共産党や解放軍、さらには血の日曜日事件天安門事件)が名指しで出てくるなんて、現代中国文学ではまずお目にかかれないような気がする(莫言の小説に出てきたかもしれないが記憶が曖昧)。それと、読んでいる最中は似ているとは思わなかったけど、最後まで読むと『百年の孤独』【Amazon】を参考にしていることが分かって感慨深い。終わり方がもろそんな感じだった。

現在と過去を自在に行き来しながら、抗日戦争、土地改革、文化大革命などといった半世紀にわたる村の歴史を掘り起こしている。こういう中国の大河小説を読む醍醐味って、時代に翻弄される民衆の生き様を体験することにあると思うので、その意味では満足のいく読書体験ができた。毛沢東の写真が載った新聞紙で煙草を巻いたら反革命分子にされたとか、文革のときにスローガンを間違えて「打倒毛主席!」と叫んだために失脚しただとか、冗談のようで現実にありそうな小ネタが笑いを誘う。

また、本作の舞台になった山村でも血みどろの権力闘争があって、容赦なく人が殺されているところが中国らしい。特に土地改革や文化大革命といった政治の節目が危なくて、中国に産まれると人生ベリーハードだなとつくづく思う。しかも、過去には権力をめぐって互いにしのぎを削っていた人たちが、現代では平和に共存しているところが何とも言えない。僕だったら一度受けた怨みは一生忘れないけど、中国で生きていくには過去を水に流す度量が必要なのだ。この辺、中国人のたくましさとおおらかさが感じられる。

村人たちと戦車隊の対決は、天安門事件の再現といったところだろう。神樹を守るべく命を懸ける村人と、それを踏みにじる人民解放軍。本作は文学好きの日本人よりも、情報統制された現代の中国人にこそ読んでもらいたい。