海外文学読書録

書評と感想

エドワード・P・ジョーンズ『地図になかった世界』(2003)

★★★★★

19世紀のヴァージニア州マンチェスター郡。黒人農場主のヘンリー・タウンゼントが31歳で急死する。彼は両親ともども白人農場主の元奴隷で、父親が貯めた金で自由になっていた。ヘンリーは自由になった後、自分も黒人の奴隷を持ったので、奴隷制に否定的な父親と折り合いが悪くなっている。

「ヘンリー・タウンゼントなら知っている。だから、死んだ奴隷の賠償が必要になれば必ず払ってやる」とロビンズは言った。彼はイライアスの顔から三センチのところに銃を構え、もう一度殴った。イライアスは倒れた。「百歳まで生きるつもりなら、白人と揉めないことを知るんだな」(p.95)

ピュリッツァー賞、全米批評家協会賞受賞作。

これは凄かった。当初は時系列が行き来して主要人物の過去と現在を語っていて、正直なところいまいち乗り切れなかったのだけど、様々な脇役にスポットを当てるようになってからは一気に世界が広がって、小説を読むことの幸福を味わったのだった。

南北戦争前、奴隷制が当たり前だった時代の空気に引き込まれる。そこには奴隷を所有する白人や自由黒人がいて、そんな彼らに使役される奴隷がいて、奴隷は奴隷で一癖も二癖もある人物が男女問わずひしめいている。さらには保安官とその部下たち、黒人を誘拐する転売屋、胡散臭い保険のセールスマンなど、彼らが織りなすエピソードがとても面白い。振り返ってみると、全体的には理不尽な出来事が多いのに、読んでいる最中はそれが普通の出来事としてすんなり頭のなかに入ってくるから不思議だ。奴隷制の是非を問うようなイデオロギーを声高に主張せず、ただストイックに当時の様相を構築していく。その姿勢には兜を脱ぐしかないという感じだった。

作中では、白人が黒人を一方的に支配しているわけではなく、時には白人が黒人を助けている。かと思えば、自由黒人が警らの人間から証書を奪われて奴隷の転売屋に売られる。さらに、持たざる白人が南部諸州を放浪して最後には客死する。他にもたくさんの興味深いエピソードがあって、それらすべてが寄り集まって世界の均衡をなしている。世界は善も悪もあるがままに並立しているのだ、という意思がひしひしと感じられた。

ミシェル・ウエルベック『服従』(2015)

★★★★

2022年。大学教授でユイスマンスの専門家であるフランソワは、愛人とセックスをする平穏な生活を送っていた。ところが、選挙でイスラーム同胞党が躍進したことで周囲が慌ただしくなる。その後、決選投票によってイスラーム政権が誕生するのだった。

「あなたはマッチョだ、って言ってもいいかしら」

「分からない、そうかもしれない、ぼくは多分いいかげんなマッチョなんだ。実際のところ、女性が投票できるとか、男性と同じ学問をし、同じ職業に就くことがそれほどいい考えだと心から思ったことはない。今はみんな慣れっこになってるけど、本当のところ、それっていい考えなのかな」(p.35)

ウエルベックらしい毒の効いた小説で面白かった。フランスでイスラームが政権をとるとしたらどのようなプロセスをたどり、政権をとった後はどのような社会改革をするのか? という思考実験がとてもスリリングで、どうなることかとわくわくしながら読んだ。フランス政治に疎い僕ですら面白く読んだのだから、フランス人が読んだらもっと面白いのだろう。

フランスでイスラームが政権をとるのって、日本だと共産党が政権をとるようなものと言えるだろうか。つまり、それくらい国民は当該政党に対してアレルギーを持っていて、政権をとったらドラスティックに社会が変わると予想されるということである(それも悪い方向に)。

本作の場合、まず街からミニスカートやホットパンツの女性がいなくなり、代わりにパンタロンを履いた女性が増えるという現象から始まって、遂には巧妙な政策で女性が労働市場から大量に脱落してまう。さらに、一夫多妻制が認められ、義務教育は小学校までで終わり、イスラーム教徒でないものは公職に就けなくなってしまう。政教分離という建前はなくなり、大っぴらにイスラームへの改宗が勧められるようになる。これは先進国に住んでいる者からしたら「退行」としか言えないし、もし自分がこの環境にいたらと思うとぞっとしてしまうけれど、本作の主人公であるフランソワはちゃっかり順応していて、ああこれはマッチョにとっては理想的な環境なんだなあと思う。冒頭に引用した会話文とイスラームの教えが見事に共鳴している。

オチは予想通りというか、フランソワが改宗者のユイスマンスを専門にしている時点で、この結末は必然だったのかもしれない。ウエルベックのちょっぴりやんちゃな作風は、どこか村上龍に通じるところがあって興味深い。

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』(2014)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)
 

★★★

(1) ナチス時代のドイツ。孤児の少年ヴェルナーが、才能を認められて国家政治教育学校に入学する。そこでは士官候補生たちが異様な生活を送っていた。(2) 同じ時代のフランス。盲目の少女マリー=ロールが、父に連れられてサン・マロへ疎開する。博物館員の父は、伝説のダイヤモンド〈炎の海〉の守秘にあたっていた。

ヴェルナーには、これまでになにが起きていようと、これからなにが起きようと、そのあいだの空間には目に見えない境界地帯が漂っていて、その片側にはもう知っているもの、反対側にはまだ知らないものがあるように思える。自分のうしろにある町にいるかもしれないし、いないかもしれない少女のことを考える。彼女が溝に沿って杖を走らせる姿を思い浮かべる。見ることのできない目、乱れた髪、輝く顔で、世界に立ち向かっている。(p.431)

ピュリッツァー賞受賞作。

新潮クレスト・ブックスらしい「美しい物語」だった。人間はどれだけに野蛮になれるか、そしてどれだけ善人になれるかの標本箱みたいというか。士官候補生の学校では教官主導のいじめが横行しており、弱い者を排除するという野蛮な教育が行われていた。その一方、ドイツ兵になったヴェルナーはとても善人で、本来だったら心を許していけないフランス人、すなわち盲目の少女マリー=ロールを助けることになる。その前に無線機を通じての「繋がり」が非常にロマンティックで、このシチュエーションを思いついた時点でアンソニー・ドーアは勝利を確信したと思う。

本作は断章形式で書かれているので、息継ぎがしやすくとても読みやすい。内容も「美しい物語」、かつほどほどにサスペンスフルなので、海外文学初心者にお勧めである。ただ、新潮クレスト・ブックスのヘヴィな読者はこういう小説を読み飽きているだろうから、その種の人たちはワンランク上の小説を読んだほうがいいかな。本作は良くも悪くもクレスト・ブックスらしい小説だった。

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(1979)

★★★★

男性読者の「あなた」が本屋で買ってきた『冬の夜ひとりの旅人が』を読んでみると、製本にミスのある乱丁本だった。翌日、本を取り替えてもらいに本屋へ行った彼は、そこで女性読者ルドミッラと出会う。

「今私がいちばん読みたい小説は」とルドミッラが説明する、「物語ろうとする欲求のみが、ストーリーにストーリーを積み重ねようとする欲求のみが原動力になっているような作品なの、世界のヴィジョンを示そうとする意図なんかなく、ただ、植物が成長し、枝や葉が繁茂していくように、作品が成長していくのに立ち合うことができるような小説なのよ……」

ちくま文庫で読んだ。引用もそこから。

本作は男性読者の物語と彼が読む作中作が交互に展開されるのだけど、その構成が力技というか技巧的というか、とにかくやたらと複雑で面白かった。作中作は全部で10章ぶん存在し、そのすべてが異なる作品の冒頭部分になっている。男性読者は一つの作品を最後まで読みきれず、仕方なしに別の作品に次々と移っていくというわけ。問題はなぜ最後まで読みきれないのかなのだけど、その事情がとても入り組んでいて、異なる作中作を読ませるためにそこまでやるかという感じで苦笑した。

作品全体としては「めくるめく読書の冒険」という表現がぴったりで、なかには読書という行為そのものについて考えさせる部分もあった。

たとえば、私心のない読書。その本を利用して何かを書こうとするとき、読書はどうしても不純なものになる。本を参考にして本を書く作家、本を売るためにPRする出版社の社員、本の紹介文を書いて小銭を稼ぐ書評家。そういう人たちは私心のない読書ができないのではないか。その本を利用しようと思っている時点で、一般読者が享受している読書の快楽から遠ざかってしまう。食うために本を読む人間は不幸だ。本作を読んでそのようなことを考えたのだった。

また、本作には次のようなエピソードがある。多作型の作家と難渋型の作家が、1人の女性に自分の書いた本を読んでもらいたいと思っている。2人の作家が原稿を執筆して女性に渡すと、どちらの原稿もまったく同じ内容だった。多作型の作家は難渋型の作家を見習って書き、難渋型の作家は多作型の作家を見習って書いたからそうなったという。この部分を読んでボルヘスを思い出した。

本作は小説好きのツボを押さえた小説で面白かった。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(1994)

★★★

私立探偵ニック・ビレーンのもとに、「死の貴婦人」を名乗る女がやってくる。彼女は死んだはずの作家セリーヌを探してほしいという。その後、知人から赤い雀を探すよう依頼され、さらに嫁の浮気調査、果ては宇宙人を追い払う仕事など、次々と依頼が舞い込んでくる。

「あんた、ポン引きか?」

「いえいえ、違いますよ」

「ドラッグの売人?」

「いいえ」

「売人だったら助かるんだが。ちょっとコカインが欲しいんだ」

「私、聖書のセールスマンでして」

「そりゃひでえ!」

「神の言葉を広めようとしてるだけです」

「俺のまわりでそんなクソ広めるなよな」(p.198)

かつて私立探偵小説がパルプ・マガジンと呼ばれる安手の雑誌に掲載されていたことは、ハメットやチャンドラーの読者なら周知の事実だろう。けれども、ここまで真っ向からそのパロディをぶつけてきたのにはまったく驚いてしまった。死神や宇宙人が出てくるところはくだらなくて笑えるし、作品全体を漂うガサツにして粗雑な雰囲気がすごく「パルプ」っぽい。こんなにペーパーバックが似合う激安小説なんて他にあるだろうか? 日本だと筒井康隆が書きそうな小説で、内容のバカバカしさや会話に漏れ出るユーモアなどついニヤけてしまう。ミステリプロパーの読者は、本作をミステリの枠内に囲って「奇書」として崇め奉るべきだ。何でもかんでもSFにくくってしまうSF者を見習って。それくらい画期的でぶっ飛んだ小説である。

本作のざらざらした安っぽさ(もちろん、いい意味で!)は翻訳によるところが大きく、これが柴田元幸最高の訳業と評されるのもよく分かる。僕もその評価には同意だ。文章がポール・オースターの訳者と同一とは思えないほどくだけていて素晴らしい。本作はハメットやチャンドラーが好きな人にお勧めである。