海外文学読書録

書評と感想

オルハン・パムク『黒い本』(1990)

★★★★

弁護士のガーリップは幼馴染のリュヤーと結婚していたが、ある日、妻がメモを残して失踪してしまう。同時期に彼女の異母兄のジェラールも行方不明になっていた。ジェラールは新聞の人気コラムニストで、行方不明後も彼のコラムは掲載され続けている。ガーリップはコラムを手がかりにイスタンブールを捜索する。

推理小説では、イギリス人が出てくればいかにもイギリス人らしく、太った人間は太った人間らしく描かれる。犯人と被害者を始めその他どんな主体も客体も手がかりのような顔をしているし、または作家が手がかりとしての役割を無知強いしているため、本来の姿とかけ離れてしまう。ガーリップはこんな人工的な世界に没頭して「暇つぶし」することがどうしてもできなかった。(p.71)

冒頭から失踪人探しという推理小説のプロットを踏襲し、結末ではしっかり落とし前もつく。しかし、そこに至るまでがなかなかカオスで厄介な小説だった。他の作家を引き合いに出すとしたら、トマス・ピンチョンっぽいと言えるかも。

失踪人を探すガーリップの物語と、新聞に載ったジェラールのコラム、2つが交互に展開する。特に後者が一筋縄ではいかなくて、推理小説の枠を超えためくるめく多彩な世界を形作っている。単眼巨人の話やら軍事クーデターの話やら救世主の話やら、そのバラエティ豊かな物語はさながらイスタンブール千夜一夜物語といったところ。終盤でガーリップがジェラールの代筆をし、最終的に「人は物語を語るからこそ自分たり得るのだ」などとアイデンティティ問題を解決するところは、そこはかとなくポストモダンな香りがする。

翻訳が妙に硬く、訳注も一切ついてないところが読みづらさに拍車をかけている。『わたしの名は赤』【Amazon】や『雪』【Amazon】のように早川書房から新訳が出る可能性が高い。というか、新訳を出してほしい。