海外文学読書録

書評と感想

E・M・フォースター『眺めのいい部屋』(1908)

眺めのいい部屋 (ちくま文庫)

眺めのいい部屋 (ちくま文庫)

 

★★★★

裕福な娘ルーシーは、従姉妹のシャーロットと2人でフィレンツェに旅行する。宿泊先の部屋に不満を漏らす2人。それを聞いた青年ジョージと彼の父親エマースン氏が、2人に自分たちが泊まっていた眺めのいい部屋を譲る。その後、みんなで馬車で遠足に出た際、ルーシーはジョージにキスされるのだった。やがてルーシーはイギリスに帰国、貴族の青年セシルと婚約する。そして、近所にジョージとエマースン氏が引っ越してくる。

「また別の日に、父は僕たちにこういうふうに言った。眺めというのは群れのことだ。木の群れ、家の群れ、丘の群れ、それらはみんな互いに似通ってくる傾向がある。人間の群れと同じように。眺めが僕たちに及ぼす影響はどこか超自然的だ。たぶんそれが理由で。父はそう言った」(p.277)

これは恋愛小説かな。『ハワーズ・エンド』(1910)『インドへの道』(1924)も、異なる階級の接近と反発を描いた小説だけど、その萌芽は本作にも表れていて、三角関係となるルーシーもジョージもセシルも、それぞれ中流下流・上流と階級が異なっている。ただ、本作ではそういった階級格差はあまり前面に出ていない。古いヨーロッパを体現したセシルが、時に滑稽に描かれ、時に悪者のような扱いを受けている。強いて対立軸を挙げるとすれば、古い・新しいになるだろうか。セシルは154頁に要約されている通り中世的な人物として造形されており、ジョージは彼について、「ヨーロッパを千年の間このままにしておいたのはセシルのような人間だ」と手厳しく批判している。

セシルはルーシーに婚約を破棄されるのだけど、その理由が読者である自分に突き刺さるようなもので身につまされた。セシルは芸術にばかり目が行っていて、人間に心から親しもうとしてない、それが嫌なのだという。いやー、これには参ったね。僕も人間に心から親しんでいないというか、たとえば飲み会なんかに積極的に参加するタイプではないので、まるで自分のことを言われたように思えたのである。要はパリピじゃないってことだ。でも、ショーペンハウアーは『幸福論』【Amazon】で、社交は時間の無駄だと説いているし、僕も他人とウェーイするよりは、アニメを観たり本を読んだり自分の趣味に没頭したいと思っている。まあ、世間的にこういうのは後ろ指を指されるのだろう。多少は人間嫌いの面もあるけれど、SNSをやっているので丸っきり嫌いというわけでもない。ただ、現実世界での社交はリスクが大きくていまいち参加する気になれないのである。

リスクとは何か? たとえば、会社の上司と飲みに行ったとしよう。上司が僕に先輩に対する言動についてこんこんと説教するなか、ふとLINEが気になってスマホを弄りだす。すると上司が激昂してビール瓶で殴りつけるなんてこともある。頭の骨を折る重傷だ。あるいは風俗上がりの愛人とラブホテルに行ったとしよう。そこでいそいそと不倫に励むわけだが、何とその様子を愛人が録画しており、こちらが別れ話を切り出した際に動画をネットにアップした。その動画がSNSや匿名掲示板でじゃんじゃん拡散されていく……。俗に言うリベンジポルノである。おかげで僕は妻子と別れるはめになった。他にも、友人が突然発狂してナイフで刺してくるかもしれないし、僕の頭では思いつかないようなとんでもないトラブルに巻き込まれるかもしれない。君子危うきに近寄らずをモットーにしている僕は、これらを警戒してなかなか人間に親しめないのである。

話が脱線してしまった。三角関係の顛末だけど、ルーシーが最終的に結ばれるのはジョージである。恋愛に勝つのは女に無理矢理キスをする肉食系男子であって、この辺は古今東西変わらないのだなと感心した。男は少々強引なほうがモテるようだ。