今期見ているアニメは、『全修。』、『Re:ゼロから始める異世界生活』、『BanG Dream! Ave Mujica』、『悪役令嬢転生おじさん』、『Dr.STONE SCIENCE FUTURE』、『薬屋のひとりごと』、『チ。―地球の運動について―』、『キミとアイドルプリキュア♪』、『俺だけレベルアップな件』、『メダリスト』、『魔法つかいプリキュア!!~MIRAI DAYS~』の11作。
『Re:ゼロから始める異世界生活』(リゼロ)は去年の12月に1話から50話まで一気見して追いついた。めちゃくちゃ面白い。ひとことで言えばひきこもりのビルドゥングスロマンだが、「死に戻り」の要素によってゲームを攻略するような内容になっている。面白いのは攻略の難易度がべらぼうに高いところで、見ているほうとしては複雑に絡み合った知恵の輪を解いている気分になる。また、異世界の作り込みも素晴らしければ、キャラクターの造形もいい。こんなに没入できるアニメは久しぶりに見た。
『俺だけレベルアップな件』(俺レベ)は『リゼロ』とは正反対で、卓越したチート能力で戦いに勝利していく。典型的な俺TUEEEだが、この爽快感が気持ち良くて病みつきになる。『リゼロ』と『俺レベ』を比較した論考を書きたくなった。
原書は2020年刊行。邦訳は2022年刊行。
TikTokがショート動画で覇権を握る歴史が書かれている。中国テック企業の風土や若者がショート動画に惹かれる理由、さらにはSNSにおけるアルゴリズムの重要性が分かって興味深い。ショート動画もまたスマホ時代の鬼子なのだった。
ショート動画がなぜ若者に流行ったかと言えば、十代の若者は金が無いからインスタ映えする写真を撮れないし、教育がないからTwitterでバズるような文章も書けない。そういう持たざる者が唯一目立てるのがショート動画だった。ご機嫌な音楽を流して踊ればそれだけでヒーローである。こういった持たざる者にフックし、爆発的なムーブメントにまで発展したところが面白い。
僕は常々「YouTubeは能動的に動画を探すのが難しい」と思っていたが(検索の精度が低すぎる)、あれはレコメンドを重視する設計だからそうなってるらしい。ユーザーが受動的に情報をキャッチすることに重きを置く。近年めっきり廃れたRSSリーダーとは正反対の思想である。アルゴリズムに勧められるままコンテンツを消費するのが最適解だとすると、インターネットは随分寂しい場所になったと思う。
中国企業にとって日本市場はハードルが高く、ここで評価されれば他のアジア諸国でも成功できる。日本市場がリトマス試験紙になっているのだ。特に日本人は東アジア経済圏のインターネットプロダクトに用心深く、LINEも親会社が韓国企業であることを目立たせないようにしている。僕も中国企業には警戒感があるので、本書の記述に納得したのだった。
僕はSNSの登場によって人類は目に見えてバカになったと思っているので、TikTokにもあまりいい印象がない。みんなSNSを捨ててブログに回帰し、長文による粘り強い思考を取り戻すべきである。140字のフレームを取っ払って考えるべし!
2017年刊行。この時点でまだ裁判は始まってない。
「障害者は不幸を生むだけ」「安楽死させる法制が必要なのに、国が認めてくれない」「日本のために事件を起こした。自分は救世主だ」。逮捕後、神奈川県警の調べに対し、植松被告は被害者への謝罪を口にすることなく、身勝手な動機を繰り返し話した。(p.20)
植松聖のやったことは正当化できないが、この事件は日本社会の歪みを浮き彫りにしたと思う。
たとえば、障害者は国から手厚くケアされるが、我々健常者は何もしてもらえない。それどころか、国から奴隷のように扱われ、日々の労働からバカ高い税金を搾り取られている。植松は障害者の生産性を問題にした。人間を生産性で判断するのは道徳的に間違っている一方、競争社会に生きる我々は生産性によって給料の多寡が決まっている。だから生産性を免除されている人たちとの間に不公平感があることは否めない。健常者は税金で手厚く保護された彼らを見て理不尽に思っている。
とどのつまり、我々は国からやさしくしてもらいたいのだ。障害者のことはケアワーカーがしてくれる。しかし、ケアワーカーのことは誰もケアしてくれない。障害者のために低賃金で働いているのに、彼らは誰からも見向きもされないのだ。ケアされる障害者とケアされない健常者。そういった歪みが障害者ヘイトに向かっているわけで、今後第二第三の植松が出ても驚かない。
植松に必要なのはケアだった。その一点に尽きる。
メディアが被害者の実名を公表しなかったことも話題になったが、これも日本社会の歪みであることは明白だろう。そもそも報道は被害者を一律匿名にすべきで、犯罪に巻き込まれた側が見世物にされるほうがおかしいのである。新聞を売ったり視聴率を稼いだりするために他人を利用するのは許されない。障害の有無にかかわらず、被害者は一律匿名にすべきである。
ほとんど知ってることばかりであまり参考にならなかった。そもそも僕は睡眠をとれば疲労が回復するので、本書の想定読者層ではないのかもしれない。
睡眠以外で疲労回復に効果があるのは、1日1時間のウォーキングと20分の入浴(お湯の温度は42℃)、頭を空っぽにしての音楽鑑賞である。また、親しい人とのコミュニケーションも気晴らしになっている。
逆に疲れているときは本が読めないし、アニメを見ることができない。脳が「情報」を受け付けないのだろう。こういった娯楽は比較的元気なときに行っている。
僕が精力的に活動できているのは、「飲酒をしない」ことが大きいような気がする(もちろん、喫煙もしない)。酒飲みはみんな不幸そうでああはなりたくないと思う。
『純粋理性批判』【Amazon】を中心にカントの哲学を噛み砕いて説明している。
最近のChatGPTは哲学にも対応していて、分からないところは適宜質問を投げて読み進めていた。たとえば、アンチノミーと脱構築の違いについて質問したらその違いを分かりやすく説明してくれる。教師と言っても過言ではないくらいだった。
それまで無知な賤民を軽蔑していたカントは、ルソーの『エミール』【Amazon】を読むことで、人間を尊敬することを学ぶ。カントはルソーを、ヒューム同様、根本において仮象批判の先駆者と捉えていた。この回心は有名だが、何度読んでもいいエピソードだと思う。
定言命法は底意(下心)を動機としないため魅力的だが、一方でそれを厳格に守れるかと言えば難しく、結局は仮言命法と折衷するしかない。俗物は俗物として生きるしかないのだ。高貴であろうとしても現実には無理。何だか悲しくなってきた。
善意志を善の「物自体」と説明しているのに膝を打った。これだとちゃんと筋が通っている。哲学者が作ったタームを、同じ哲学者が作った別のタームで説明できるのって相当な快感ではなかろうか。善意志は善の「物自体」。素晴らしい定義だ。
本書を読んだきっかけは、1月23日に伊藤詩織監督の映画が第97回アカデミー賞にノミネートされたからだった。
事件の顛末を記録した長編ドキュメンタリー映画なのだという。伊藤の本は読んだことがなかったので、慌てて手に取った。
被疑者が著名なジャーナリストだから警察も忖度したことが伝わってきた。警察は「疑わしきは罰せず」の原則を持ち出してくるが、足利事件や袴田事件、大川原化工機冤罪事件を鑑みると奇妙な話である。被疑者はTBSのワシントン支局長であり、政治家とも太いパイプがある。通常の事件よりも慎重にならざるを得ないのだろう。特に当時の刑事部長が自分の判断で逮捕を差し止めたのだから驚く。冤罪とは別ベクトルの不正が示唆されている。
性的合意の有無が焦点になっているが、拒否の意思が相手に明確に伝わらないと合意したことになるらしい。たとえ自分の意識がなくてもそうなってしまう。一般的な感覚だと被疑者が合意を証明しなければならないと思うが、刑事事件において立証責任は提訴する側にある。意識のない状態で部屋に引き摺り込まれたのに、性的合意があったと見なされるのだ。これはあまりに理不尽である。
松本人志や中居正広の件から分かる通り、性加害を告発するには週刊誌に頼るしかない。なぜなら事件化するにはハードルが高すぎるからだ。僕は#MeTooが流行った当時、これは私刑じゃないかと憤っていた。法廷で決着をつけるべきではないかと思っていた。ところが、正規の手続きで相手を罰することができないのも事実であり、こういった告発もやむを得ないのだろう。週刊誌もまた社会に必要な機能なのである。
なお、第97回アカデミー賞は日本時間の3月3日に発表される。
映像許諾を巡るトラブルがあったが、一部修正することで解決しそうである。早く日本でも公開してほしい。
2023年12月刊行の本。イスラエルは入植者による植民地国家であり、パレスチナ人に対するアパルトヘイト国家である。現在に至るまでの歴史的経緯を振り返りつつ、ガザの現状を解説する。
非常にインパクトの強い本で、これを読んだら否が応でもパレスチナ人を応援したくなる。
大筋では納得の行く記述だが、細かいところを単純化しすぎていて、これ一冊で済ますのは危険だと思う。巻末にブックガイドが載っているので、それらも合わせて読んだほうが良さそう。本書は知識を深める取っ掛かりとして読むべきである。
国連の決定を否定しつつ、都合のいいときに国連や国際法に頼るのは筋が悪い。正当性は法律ではなく道徳に立脚すべきで、それで押し通していたらすっきりしていた。そもそも法律は支配者が作ったものだから弱者に不利である。パレスチナ人を応援したいのだったら道徳を前面に出すしかない。たとえ法的に間違っていても道徳的に正しければそちらのほうが正しいのだ。ハマスによるテロは民族浄化に抗うための自衛行為であり、大事の前の小事である。そう認めたほうが潔い。
星5をつけたので年末まとめ記事に書く。
2008年の本。編者は東浩紀と北田暁大である。
この頃の東はキレキレではなかろうか。「鼎談 日本論とナショナリズム」で次のように述べている。
それで僕はこう思うんです。戦後日本にとって最大の政治的課題は、どうやって主体性を取り戻すかということだった。そのために三島は、天皇の価値を取り戻すべきだと訴えた。しかし、実際に日本が獲得したのは、「エコノミック・アニマル」という名の動物的主体だった。そして、つぎに、そのような動物的主体こそが日本の新しい主体だという議論が現れてくる。
たとえばそれが、八四年の山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生』や村上泰亮の『新中間大衆の時代』です。ノンポリでミーイズムな大衆こそが、実は新しい主体なのではないかという議論。それは新人類にもつながっている。(……)浅田彰の『逃走論』も同年です。そういった、たんに欲望だけで動いていて、堕落しきっていて全然だめな連中こそが実は日本的主体の新しい希望なのではないかという議論は、それこそ坂口安吾の『堕落論』以来ある。けれども、八〇年代にはそれを経済的成功が裏打ちするかたちになった。
さらに言えば、その構図は九〇年代以降も反復されている。たとえば宮台真司の九四年の『制服少女たちの選択』は、援交少女たちこそが新しい日本的主体だという著作だと読めるし、僕自身の二〇〇一年の『動物化するポストモダン』も、オタクたちこそが新しい日本的主体だという著作だと読める。こう考えると、七〇年代以降の日本論の一つの軸として、西洋的主体から排除された、市場にうごめく動物たちにこそ新しい主体を見いだす、という志向があるのではないか。そして、それは三島的な「美」のナショナリズムとは違うのではないか。(pp.253-254)
僕が観測しているSNSのおたくたちはみんな堕落していて、自分の態度を正当化さえしているが、それは日本的主体として生きることの実践だったのかと膝を打った。
僕は彼らを戸塚ヨットスクール(あるいは自衛隊)に入れて根性を叩き直したいと思っている。しかし、それは三島的な「美」のナショナリズムに囚われているのだ。成熟することを拒否し、子供であることに開き直る。動物のように欲望の赴くまま好き勝手に生きる。それが日本人の精神になっているから少子化が進行している。
近年サブスクの隆盛によって日本人の動物化が急速に進んだ。誰でも手軽にアニメを見られるようになったのだ。その結果一億総おたく化が進み、みな子供のまま生きることになった。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で成熟を描いたのもその流れにある。我々は成熟し、大人にならなければならない。おたくたちは映画のメッセージに反発したが、それは痛いところを突かれたからである。
動物化によって日本の人口は減少し、緩やかな破滅の道を歩んでいる。その運命は敗戦時に決定づけられた。経済的繁栄と引き換えに我々は未来を失っている。
マルクス主義が知的青年を魅了した理由、教養主義の根っこにある人格主義が左傾化と連続している理由、それらが明快に説明されていて参考になる。また、ブルデューの「ハビトゥス」と「界」をここまで分かりやすく解説した本もないのではないか。教養主義が都市中流階級のハイカラ文化ではなく、田舎者のハイカラ文化という指摘も目から鱗で、現代のプチ教養主義者もそういうところがある。
僕は若い頃から読書家のコミュニティにいたから、教養が人間的成長に資するとはまったく考えてなかった。むしろ、たくさん本を読んでたくさん教養がある人ほど性格が悪い(性格のいい人間は大抵無教養だ)。教養は人格を涵養しない、ということをまざまざと思い知らされていた。昔の人はそういう経験をしなかったのだろうか? 昔のエリート学生の駄目なところは同じエリート学生としかつるまないところで、もっと階級を横断して人付き合いすべきだった。そうすれば世間知を得られただろう。
こういうブログを書いている僕はおそらく教養主義者だし、見に来ている人も似たような感じではなかろうか。人文知が自分のためになるからこそ本を読んでいる。ただし、それは人格の涵養のためではない。知的好奇心を満たすためだったり、アウトプットの道具にするためだったり、卑俗な理由で教養を身に着けている。また、本を読んでいる間の孤独な時間も快適だ。繋がりっぱなしの現代において、こういった時間はデトックス効果がある。
なお、本書を読んだきっかけは以下の記事だった。
このインタビューで米津玄師が本書を読んだことを明かしている。そして、これがきっかけで本書が重版している。
音楽ナタリーのインタビューで、米津玄師さんが「社会学者の竹内洋さんの「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」という本がべらぼうに面白かったですね」と発言(聞き手は柴那典さん)。反響がとてつもなく大きく、昨日に17刷、先ほど18刷の重版が決まりました!https://t.co/YBBHgHTpKJ
— 中公新書 (@chukoshinsho) 2025年2月6日
やはり現代はインフルエンサーの時代なのだろう。どんなに知識や技能があってもすべてはSNSのフォロワー数に還元されてしまう。誰も彼もが知名度競争に駆り立てられ、アテンション・エコノミーを加速させることになる。こういった風潮が息苦しいので、最近はSNSからの撤退を考えている。
ちなみに、本書には星5をつけた。年末まとめ記事で改めて紹介する予定である。
星5をつけたので年末まとめ記事に書く。
星5をつけたので年末まとめ記事に書く。
欧米の知識人層が権威主義に流れていく様子をルポしている。現代において知識人は特権的ではなく、我々庶民と考え方が似通っているようだ。
かくいう僕も最近は多様性に疲れた。上から規範を押し付けられて辟易している。同意した覚えがないのに気がついたら勝手に規範を作られていた。こちらはマイノリティを尊重しなければならないのに、マイノリティはこちらを尊重してくれない。新しい規範にはそのような非対称性がある。そして、そのことに疑問を呈すると「君たちマジョリティは生まれながらにして加害性がある」と説教されるのだ。我々はいつの間にか原罪を背負わされているのである。それに反発するのは自然なことだろう。
みんな社会に不満があるが、その不満を民主政治は変えてくれない。だから権威主義的な強いリーダーを望む。日本でも経済不安からポピュリストを支持する動きが出てきた。国民民主党や石丸伸二が躍進しているのがその証左だろう。彼らならこの腐った政治を変えてくれる。既得権益にしがみつく自公政権に一泡吹かせてくれる。ポピュリストはそのような期待を抱かせて票を得ている。
著者は移民排斥の風潮について次のように書いている。
換言すれば、人びとが「移民」に対して怒っているというとき、彼らは必ずしも自分が肌身で体験、経験した事柄について語っているのではないということなのだ。想像上の物事、不安な物事について語っているのである。(p.109-110)
これは確かにその通りだ。我々はニュースやSNSの憎悪扇動を見て移民への嫌悪を募らせている。実際に移民から危害を加えられたことはない。また、犯罪だって移民によるものよりも土着の日本人によるもののほうが多い。メディアの影響力が大きすぎてバイアスがかかっているのだ。これは注意しなければならないだろう。
以下はあってもなくてもどうでもいいパートだが、読書記録だけでは味気ないのでとりあえず公開しておく。
J・K・ローリングのポスト。
Congratulations to every single person on the left who’s been campaigning to destroy women’s and girls’ rights. Without you, there’d be no images like this. pic.twitter.com/mzR7l5k1OW
— J.K. Rowling (@jk_rowling) 2025年2月6日
ハリー・ポッターで育った身としては、このポストは精神的に堪える。日本で言えばすぎやまこういちみたいな感じ。子供に夢を与える商売の人がこんなんでいいのだろうか?
トランスジェンダーはフェミニズムを撹乱する変数であり、その鬼子としてTERFが生まれた。アメリカではトランプ大統領の返り咲きでTERFが勢いづいている。今後世界はどうなっていくのか。ディストピアの出現に震えおののいている。
マルちゃん「赤いきつね」のCMが炎上してバカの見本市になっている(リプライや引用コメントを参照のこと)。
だしって…なんかホッとしないですか?
— 【公式】東洋水産株式会社(マルちゃん) (@toyosuisan_jp) 2025年2月6日
CV:市ノ瀬加那 @ichinose_1220#ひとりのよると赤緑 pic.twitter.com/G8IZ3I2dtM
フェミニズムがバカにされる原因は、事あるごとに「性的」と騒ぎ立てるツイフェミにあるのではないか。他にもっとやることあるだろうと思うが、SNSでの活動はこたつでぬくぬくしながらできるからみんな気軽にするのである。ネットのアクティビストほど信用できないものはない。
また、「性的」以外の違った批判もある。
男性版はシチュエーションや人物像(書類の上やパソコンの近くにこぼしたらアウトな汁物を置いちゃうところも含め)かなり写実的な描写がされています。
上記のnoteでこのような指摘がされているが、男性の僕からするとまったく写実的ではない。書類やパソコンの近くで汁物なんて絶対に食べない(男性=下品というジェンダーバイアスに囚われているのではないか?)。また、CMのシチュエーションもそれぞれ仕事かプライベートかの違いでしかない。性的な非対称性を強調するあまり論理がめちゃくちゃになっている。
結局、男性も女性も同じくらいフィクショナルに描かれているので、性的非対称性を理由にするのは筋が悪いし、そもそもフィクションなのだからフィクショナルに描くのは当然とも言える。一部の人間の過剰反応に惑わされてはならない。
2月24日。経済学者の田中辰雄が調査報告をしている。
統計と分析が参考になるので興味がある人は読んでほしい。
『障がい者専門風俗嬢のわたし』【Amazon】の試し読みポストが炎上していた(当該ポストは削除され再投稿されている)。娼婦と聖女の表象が隣り合わせにあることをひと目で分からせていて、漫画表現の力を思い知った。売春に対して脊髄反射的に怒るのは鑑賞の態度として間違っている。
以下、今月読んで面白かった記事。
『脳外科医 竹田くん』の作者が声明文を出した。
作者は被害者の親族なのだという。この漫画を読んだときの衝撃は忘れられない。
経済学101の記事。
漫画やアニメは多様な価値観を表現しているが、じゃあリベラルが好むかと言えばそうではなく、実際に消費しているのは右派が多い。マット・アルトはこのねじれを捉えきれてないのではないか。
とはいえ、漫画やアニメは外国産であるがゆえにトランプ政権下では無傷で済まないだろう。何らかの措置がとられることは想像に難くない。
Webゲンロンが弱者男性をめぐる座談会を公開した。
白饅頭や小山晃弘を取り上げているところが面白い。いかにもネットの話題という感じである。こういうのはオールドメディアが無視しているからこそ価値がある。この調子でどんどん取り上げてほしい。
このニュースを見ると、弱者男性論は世界的にアクチュアルなのだと思う。
文学+WEB版の記事。
ロンブン(論文)に焦点を当てているところが目新しいし、後世に残る資料としても有用である。こういうのは地道に積み重ねて歴史を作ることが重要で、この月別まとめ記事もそれを意図してやっている。
アニメタイムズ(プライム・ビデオの有料チャンネル)で内田真礼のライブ映像を見た。
ドヤコンガがライバル視するのもよく分かるパフォーマンスだった。僕が見てきた声優ライブはどれも本職のミュージシャンと遜色ない。全然曲を知らなくても楽しめる。
小さい箱ならではの距離の近さも快適で、見ていて現場に行きたくなってくる。これが東京ドームだとそういう気は薄れてしまう。
プライム・ビデオでゆずのライブ映像を見た。
Kアリーナ横浜のこけら落とし公演。弾き語りのライブとは思えないほどの盛り上がりだった。北川悠仁の客の煽り方が堂に入ってる。そして、隣で寡黙に支える岩沢厚治。このコンビときたらたまらない。
1日目と2日目で趣向を変えているところがいい。2日目はもはや弾き語りライブではなく、カーニバル性抜群のエンターテイメントになっている。メジャーなミュージシャンはメジャーなだけあってやはりすごいのだ。
2日目のカーニバル感は衝撃的なのでみんなに見てもらいたい。
アニメタイムズで再び内田真礼。
同一人物のライブ映像を立て続けに見ていると、自然とバックバンドの顔を覚えるので親近感が湧いてくる。いつメンと再会する喜びがある。
内田のライブの特徴はダンサーを起用していることで、他の声優ライブよりもステージが華やかに見える。
dアニメストア(プライム・ビデオの有料チャンネル)で内田真礼の生配信ライブ。
これを見たらZeppや武道館でのライブがどれだけすごかったのか逆説的に思い知ることになった。ああいう会場はやはり舞台効果が段違いだ。また、客が入っているかどうかも重要である。ライブとは空間を楽しむものなのだ。
プライム・ビデオでLUNA SEAのライブ映像を見た。
いかにもロックバンドという感じだった。SUGIZOのギターがすごい音を鳴らしている。歪んだ音の極地。そして、ライブの演出も余計なギミックがなくていい。
今月のYouTube動画は2本。
『BanG Dream! Ave Mujica』7話に合わせて公開されたが、こんなにせつなくて思い出を喚起させる曲だったのに驚いた。この曲によってドラマが深まる。
満を持しての発表だが、期待に違わぬ曲に仕上がっていた。山口一郎の歌い方もいい。
なお、今期のアニソントップ2はALI「CASANOVA POSSE」とBAND-MAID「Zen」である。どちらも間奏が素晴らしい。この2曲は米津玄師を超えた。