海外文学読書録

書評と感想

黒沢清『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985/日)

★★★★

秋子(洞口依子)が高校の先輩・吉岡(加藤賢崇)を頼って都内の大学にやってくる。学生たちに彼の居所を聞くも見つからない。ようやく見つけたと思ったら部室で女とセックスしていた。その後、秋子は平山教授(伊丹十三)と出会って実験に誘われる。それは恥ずかしさに関する人体実験だった。

見るからに低予算で俳優もほとんど素人臭いが(プロらしいプロは伊丹十三くらい)、奇抜なシーンが多くて面白かった。むしろ、低予算で素人臭いところが奇抜さを引き立てている。全体的に何か意味があるわけでもなく、ひとつひとつのシーンのインパクトに全振りしたようなシュールさが目を引く。物語偏重の映画に慣れていると、このナンセンスぶりはなかなか刺激的だ。元々は日活ロマンポルノとして納品する予定だったが、拒否されたため一般映画に編集し直したという。そのためエロシーンが無駄に多い。そして、そのエロシーンが奇抜さに拍車をかけていて、目の保養以外に何の意味もないのだから笑ってしまう。しかし、言い換えればポルノという俗情がベースにあったからこそ、本作のナンセンスぶりが許されているのだ。エロがなかったらこんな映画はとてもじゃないが見てられない。本作はエロを絡めながら自由に撮っているところが良かった。

舞台が大学ということでモラトリアムのゆるい雰囲気が伝わってくる。ここ数年、全国の大学でだめライフ愛好会なるものが設立されているが*1、そりゃこんな雰囲気で生活していたら人間は駄目になるだろう。わざわざだめライフを宣言するまでもない。大学生活なんて駄目なのが当たり前なのだ。僕の時代もそうだったが、昔から大学生はゆるやかなアナーキズムの元で生活していた。それが伝わっていないのは大っぴらに吹聴していないだけである。勤勉な大学生というのはほんの一握りに過ぎない。たいていは呑気に遊び暮らしている。群れを作ってまで不真面目さを競うのは本末転倒で、実は真面目さの裏返しではないか。結果的に真面目な態度で不真面目をやることになっている。真面目さも規範なら不真面目さもまた規範なのだ。ともあれ、本作を見ると大学生は昔からだめライフを送っていたことが分かって興味深い。この伸び伸びとした雰囲気は特筆に値する。

ミュージカルシーンがめちゃくちゃしょぼく、わざと寒い作りにしているところが目を引く。低予算を逆手にとった演出だろう。本作はほとんど無意味な映画であるが、一応音楽が通奏低音になっているようだ。歌唱するシーンや楽器を演奏するシーンがちらほらある。音楽については3人の学生が合奏の練習をするシーンが印象に残っていて、暴力を誘発するようで誘発しない、発火点ギリギリのせめぎ合いに緊張感がある。侮蔑的なちょっかいを応酬してあれだけで済んだのは奇跡だった。

本作はモラトリアムのゆるい雰囲気をポルノのバカバカしさで味つけしたところが良かった。低予算で素人臭いところが功を奏している。