海外文学読書録

書評と感想

ジェームズ・マンゴールド『フォードvsフェラーリ』(2019/米)

★★★★

1963年。心臓病のためにレーシングドライバーを引退したキャロル・シェルビー(マット・デイモン)は、会社を立ち上げてカーデザイナーの仕事をしていた。一方、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)は自動車整備工場を経営しながらレーシングドライバーをしている。その頃、フォード・モーターではベビーブーマー世代に自動車を売るための方策を立てていた。それにはル・マン24時間レースでフェラーリに勝つことが必要だと判断し、シェルビーに声をかける。

実話を元にした映画である。ストーリーは多少の脚色があるにしても肝心なところで実話に引っ張られた感があり、終盤はそれまで積み上げてきた人物像との乖離が気になった。たとえば、ル・マン24時間レースのクライマックス。シェルビーの性格だったらマイルズに上からの指示を伝えなかっただろう。また、マイルズの性格だったら指示に従って減速することもなかったはずだ。ところが、史実では上の指示がマイルズに伝わったし、そのうえ指示に従って減速もした。だから本作でも同様のことをするのである。そこが今まで描かれてきた人物像とかけ離れていて不自然だった。要は実話と虚構がコンフリクトを起こしている。実話には実話の迫力があり、同時に制約もあるわけだが、本作は後者のほうがより大きかった。

レースシーンがよく出来ていて、これが世界最先端のカーアクションなのかと感心した。とにかくアングルが多彩である。運転席の前方・後方、タイヤと同じ高さのローアングル、真横や斜めからのちょっと離れたショット。『トップガン マーヴェリック』を見たときも思ったが、最新の技術を駆使するとあり得ない場所にカメラを置くことができる。おそらくCGIやVFXの賜物だろうが、見ていてさほど気にならなかったので、この技術は乗り物を使った映画と相性がいいようだ。やはりデジタル技術を使わせたらハリウッド映画の右に出るものはいない。爆発や衝突といったアクシデントも楽々再現するのだからだからこの技術はもはや不可欠だ。レースシーンは金がかかってそうな映像で迫力があった。

ドラマ部分は現場組とスーツ組の対立という分かりやすい図式になっていて、相当な脚色が施されていると思われる。シェルビーとマイルズが純粋に勝ちたいからレースに挑戦するのに対し、スーツ組はレースを車の宣伝としか捉えてない。両者の対立は夢想家と実際家の対立と言い換えることができて、見ているほうとしてはもちろん前者に肩入れするのである。そういった作劇はちょっと鬱陶しかったかもしれない。観客の情動をコントロールする気が満々というか。フォード・モーターが大企業病に侵されている描写は見ていてニヤリとしたが、対立の図式がわざとらしくてどうにかならないものかと思った。

印象に残っているシーンは、シェルビーがヘンリー・フォード2世(トレイシー・レッツ)をレーシングカーの助手席に乗せて爆走するシーンである。ここはスーツ組に対する現場組の優位を見せつけるような構図になっていて溜飲が下がった。また、ル・マン24時間レースでブレーキを交換するシーンもいい。本当は違反らしいが、シェルビーが部品と言い張ってそのまま押し切っている。要はルールの穴を突いたのだ。ここはアメリカ人が得意とするプラグマティズムの精神が発揮されていて、ヨーロッパ的な価値観に勝利を収めている。本作はアメリカの国威高揚映画の側面がある。自動車という苦手分野で世界一になるのだから。フェラーリもル・マン24時間レースもいいように利用されてしまった。