海外文学読書録

書評と感想

ジェスミン・ウォード『線が血を流すところ』(2008)

★★★★

ミシシッピ州の架空の街ボア・ソバージュ。クリストフとジョシュアは双子の兄弟で、母方の祖母マーミーに育てられていた。母親シルは都会に出稼ぎに出ている。また、父親サンドマンはジャンキーで家族と疎遠になっていた。高校を卒業した双子は職探しをすることに。ジョシュアは港湾の仕事が決まったが、クリストフは決まらなかった。焦ったクリストフは大麻の売人をすることになる。一方、行方不明だったサンドマンがボア・ソバージュに帰ってきて……。

「サミュエル、わたしに何を求めているの? とうの昔に終わったことよ、父さんが死んで間もない時期に、あんたはわたしとあの子たちを捨てた。いっさい気にも留めなかった」

「それは違う。あのころは、おれはまだ若くてばかだっただけで……」

「そう、でもわたしは違ったの。わたしは向き合った。だけどあんたは向き合わなかったのよ、サミュエル」シルの声が大きくなった。

「愛情っていうのはそう簡単に消えるもんじゃないだろう、シル」サンドマンが言った。

「消えるのよ」(p.252)

著者のデビュー作。邦訳は2017年の『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』、2011年の『骨を引き上げろ』、そして2008年の本作と、新しいほうから出版されている。

いつも一緒だった双子が学校を卒業して分かれ道に立つ。ジョシュアが港湾労働者というまっとうな道なのに対し、クリストフは大麻の売人という危うい道だ。そもそも2人で同じ職場を巡って就活していたものの、ジョシュアだけ採用されたことでこうなった。ジョシュアが採用されたのはクリストフよりも体格がいいからだろう。しかし、そのせいでクリストフは負い目を感じてしまった。クリストフだって売人の末路は分かっている。扱う商品がエスカレートしていき、警察に怯えるようになる。そして、最後は逮捕されて刑務所行きだ。出所した頃には地元民との関わり方も変わっている。

そういう未来が見えていながらも、クリストフは売人の道を選んだ。本人は就職が決まるまでの腰掛けのつもりである。ところが、売人とはみなそうした心積もりのようで、従兄のダニーも腰掛けのつもりで大麻を売っていた。トレーラーハウスの頭金が貯まったらやめるつもりでいた。しかし、そのためにコカインを取り扱うようになる。ダニーはクリストフの一歩先を行っていた。高校時代のクリストフはこういう未来が見えていたのに、今のクリストフは自分がどこに立っているのか分からない。人生とはままならないものであり、クリストフはそんな人生の荒波に翻弄されている。

双子は両親との関係が微妙である。父親サンドマンのことは毛嫌いして父親と認めてないし、母親シルは遠方から養育費を送ってくるだけだ。ネグレクトされているものの、母親に対してだけはかろうじて愛情がある。著者はこういったギクシャクした家族関係を描くことがライフワークのようだ。『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』では崩壊寸前の家庭が描かれていたし、『骨を引き上げろ』では父性の欠如が描かれていた。黒人の下層階級にとっては、家族関係に綻びがあるのがデフォルトなのだろう。先日読んだ『惑う星』とは対極である。アメリカ文学を読んでいて興味深いのは、階級によって生活のありようが違うところだ。同じ国でもここまでギャップがあるのかと驚く。

作中ではクリストフとサンドマンの類似性が示唆されている。下手したらクリストフは「向こう側」に行くかもしれない、そういう危うさがある。サンドマンは薬物に手を出したせいで身持ちを崩した。一方、クリストフの目の前にも薬物の誘惑が横たわっている。彼自身大麻の売人だし、友人はコカインを売っているうえに使用者でもあった。終盤、クリストフはコカイン吸引グッズであるカミソリで舌に傷をつける。これは彼に対してつけられたスティグマだった。一方、ジョシュアは仕事中の事故で両手に深い傷を負っている。これもスティグマだろう。ただし、同じスティグマでも2つの傷は種類が違うものだ。まっとうな道とまっとうでない道、その明暗が分かれている。

サンドマンの帰還は2週間後にやってくるハリケーンの前触れで、双子とその友人に大きな災厄をもたらしている。サンドマンは人型のハリケーンだった。災厄をもたらした後は何処かに去っている。本作は天災と人災を結びつけているところが面白い。