海外文学読書録

書評と感想

カレル・チャペック『白い病』(1937)

★★★★

ヨーロッパで〈白い病〉が流行した。この病気は中国発祥で、患者は体に白い斑点が出て生きながら腐敗していく。罹患するのは50歳前後。若い世代への感染はなかった。ある日、枢密顧問官ジーゲリウス教授のもとに町医者のガレーン博士がやってくる。博士は大学病院で自分の治療法を試したいと願い出るが……。

 〔新聞を見る〕でもこのお医者さんは、殺し合いをやめさせたいって言ってるだけじゃないの──

 ばかか! 国民の誇りってもんはないのか? 我らの国家がより多くの領土を必要としている時に、土地を善意で提供する国があると思うか。殺し合いに反対するのは、最大の国益に逆らうのと同じだ、わかるか?

 ううん、わからない、父さん。私は望むけどね、平和を……私たちみんなのために。

 母さん、お前とは喧嘩をしたくはないが──言っておく、もし私が、この〈白い病〉か、永遠の平和のどちらかを選ばなければならないとしたら、私は〈白い病〉のほうを選ぶ。そういうことだ。(pp.59-60)

戯曲。

架空の疫病を通してヨーロッパに蔓延しているファシズムの問題に切り込んでいる。

ガレーン博士は〈白い病〉の治療法を確立したものの、国の指導者が戦争をやめない限りその方法を教えることはないと宣言する。博士は個人の診療所で貧しい人たちだけを治療するのだった。なぜ、金持ちや一般人を治療しないのかといったら、そういう人たちは国の指導者に戦争をやめるよう働きかけることができるからである。貧しい人たちは何もできない哀れな人たちだから救済の対象になっているのだ。博士の闘争的な平和活動は堂に入っている。人々に、戦争を放棄するか、疫病で死ぬかの二者択一を突きつけている。現代人からすれば、どちらを選択すべきかは一目瞭然に見えるが……。

ところが、当時は植民地支配が当たり前の時代である。国家は戦争で領土を増やしてなんぼの時代だった。その意識は国の指導者だけでなく、国民も共有している。領土拡大を放棄するくらいなら〈白い病〉による死を選ぶ。そういう人たちが大勢を占めていた時代だったのだ。本作が発表された1937年といえば、前年にドイツがラインラントに軍を進駐させ、国威高揚のベルリンオリンピックを開催している。ヨーロッパは本格的な戦争に向けてきな臭い雰囲気にあった。そんな時代にあって戦争を放棄させるのは難しく、国の指導者である元帥は博士の要求を一蹴している。

元帥 最後まで祖国への務めを果たすように。

リューク男爵 かしこまりました、閣下。

元帥 〔男爵に近寄り〕では、握手だ!

リューク男爵 それはなりません、元帥! 私は〈白い病〉です。

元帥 私に恐怖はない、クリューク。もし私が恐怖を抱こうものなら、その瞬間から私は……総統ではなくなる。手を出すんだ、クリューク男爵!(pp.78-79)

病を恐れない英雄的な元帥。このような元帥が、最終的には自らの罹患を機に撤退戦に手をつける。自分の死が確定した以上、戦争の遂行は不可能だと悟ったのだ。元帥は独裁者でありながらも責任感があり、その意識は常に国益にある。彼は永遠平和こそが国益だと認識を改めた。しかし、これが仮にヒトラームッソリーニだったらどうだろう? 彼らだったら後継者に戦争を託したのではなかろうか? その後の歴史を知っていると、本作の元帥はあり得ないくらい理想的な人物に見えてしまう。

〈白い病〉の巧妙なところは、中高年だけが感染し、若い世代への感染がないところだ。これが世代間の対立を引き起こしている。若い世代からしたら、上の世代が死ぬことで空いたポストに座ることができる。目の上のたんこぶがいなくなって万々歳というわけだ。こういった人間の醜さは昨今のコロナ禍でも散見され、SNSでは高齢者へのヘイトが渦巻いている。分断の危険性に想像が及んでいるところが鋭かった。

民主主義国家においては国の指導者を選んでいるのは国民である。だから彼らはいかなる意味でも被害者ではない。それで不利益を被ったら自業自得だし、他国に侵略したら加害者だ。国民の責任は重い。そのことを読者に提示しているところが良かった。