海外文学読書録

書評と感想

フレッド・ジンネマン『真昼の決闘』(1952/米)

★★★★

保安官のウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)は、結婚式を挙げて新妻のエミイ(グレイス・ケリー)と町を出ることになっていた。ところが、そこへ悪い知らせが舞い込む。ケインが捕まえた悪党フランク・ミラーイアン・マクドナルド)が釈放され、仲間3人と共に復讐しに来るという。ミラーは正午の汽車で町に到着する。ケインはそれに対抗すべく協力者を募るが、住民たちは応じようとしない。

タイトルからは想像もつかないくらいの教訓的・寓意的な映画で、西部劇の多様性に感心した。

暴君の帰還に対し、町の住民ができることといったら、保安官の追放くらいしかなかった。しかし、保安官は町に留まり、暴君と決着をつけようとする。保安官の選択はおそらく合理的ではないのだろう。「ここで逃げたら一生逃げ続けることになる」とは実際の意味でもその通りだし、精神的な意味でも同様である。負け犬にならないためには、敢えて不合理な選択をする必要があった。その後は仲間集めに失敗し、孤立無援に置かれて絶望するのだけど、それでもなお逃げようとしない。正義の執行者としての義務を果たそうとしている。

戦いを決意した保安官に対し、住民たちは冷ややかだ。これは保安官のプライベートの問題だとか、税金で保安官を雇っているのだから自分たちが協力する義理はないとか、何かと理由をつけては問題から逃げている。表では「法と秩序」を謳いながらも、本音ではそれを守るために体を張ろうとしないのだ。みんな他人を頼みにするだけで自分は動かない。唯一志願していた男も、他に誰も協力しないと知るや、「俺はただの住民だ」と言い捨てて去っている。そもそも敵は4人だから、10人もいれば余裕で勝てるのだ。保安官は酒場と教会で協力者を募るのだけど、最初に2~3人が志願していたら流れも変わっていただろう。我も我もと雪だるま式に志願者が膨れ上がっていただろう。しかし、実際は誰も志願しないからみんな志願しなかったわけで、これは集団心理の例として興味深い。

ただ、僕は住民たちを責める気はなくて、命懸けの行為にはそれなりの対価が必要だと思う。人は理想だけでは動けない。何らかのインセンティブが必要なのだ。保安官がそのことに思い至らなかったのは痛恨の落ち度で、もっと上手く立ち回るべきだったのではないか。人心掌握のテクニックを身につけることは、社会生活を送るうえで必須だと痛感した。

ところで、昔の西部劇のいいところは、銃を一撃必殺の武器として、存在感たっぷりに表現しているところだ。発射される弾丸の一発一発に重みがある。これが現代のアクション映画になると、マシンガンで乱射しても全然当たらないというのがざらなので、派手な割には武器としての重みがいまいち感じられないでいる。僕がなぜ西部劇に取り憑かれているのか、その理由のひとつを自覚できた。