海外文学読書録

書評と感想

ゴンサロ・M・タヴァレス『エルサレム』(2004)

★★★★

ミリアは18歳のときに駆け出しの医師テオドールと結婚したが、統合失調症の疑いで精神病院に入れられる。そして、そこの入院患者エルンストの子供を妊娠するのだった。テオドールはただちに離婚手続きをし、産まれた子供を自分の元に引き取る。カースと名付けられた子供は障害を抱えながらもすくすくと育っていくのだった。一方、戦争帰りのヒンネルクは銃を後生大事に抱えており、娼婦のハンナはそんな彼に金を届けている。

足は靴とはかけ離れている。ミリアが履いている靴、男ものの平たい靴は、当然ながらミリアの足の動きに従っている。骨と筋肉には意思があるが、靴を作る素材にはそれがない。靴の素材は服従するように馴らされている。そこには疑問の余地はない。靴よ、従うのだ。ミリアは、なんとはなしに意地悪く呟いた。世の中の物体は、自らの意思によって前に進むものと、微動だにせず命令を待つものとに最初から分かれているではないか(人間もまた然り)! 靴はまさに従うもの、みじめな奴隷。ああ、むかむかする。靴が人間にこびへつらう姿に。犬ですらこれほどまでにへつらう姿を見せはしない。(p.10)

パズルの断片を組み合わせていくような小説で面白かった。群像劇の形式を取りながら、徐々に全体像が明らかになっていく。短い章立てで視点をガンガン切り替えていくからリーダビリティが高い。翻訳小説はだいたい読むのに3日はかかるのだけど、本作については一晩で一気読みしてしまった。

本作は個人に焦点を当てつつ、集団の問題、すなわちナチスの問題にまで射程を広げている。

若い頃のテオドールは恐怖を研究していた。「恐怖とは、実のところ歴史の実体なんだ」とまで言っている。医師が個人の健康を診るのに対し、恐怖の研究者は集団の健康を診る。テオドールは医師でありながら、あるいは医師であるからこそ、歴史の健康状態に関心を抱いていた。特に強制収容所の犠牲者にはご執心で、資料として死体の山が写った写真を所持している。男も女も子供も十把一絡げに積み上げられた死体は、人間からかけ離れた何かに見える。見ている自分とはまったく別の種族に見える。魂の抜けた物体の数々。おそらくテオドールはそういった非人間性に惹かれたのだと思われる。

皮肉なのはテオドールの身内は健康ではないところだ。妻のミリアは精神病を患って入院しているし、引き取った息子は生まれながらの身体障害者である。さらに、テオドールが診ている歴史の健康状態とやらもナチスを連想させて不穏だ。ナチスは国民に健康であることを強要し、強制収容所において障害者を抹殺したことで有名である。そして、強制収容所には多数の医師が関わっている。特にヨーゼフ・メンゲレが医師の立場を利用して人体実験をしたことは有名だろう。このように医師と健康には暗い結びつきが見られる。個人と集団を診るテオドールは歴史の覗き窓と言えよう。

ミリアが入院した精神病院も強制収容所を連想させる場所である。そこの所長ゴンペルツは差し詰めアウシュヴィッツの所長といったところだ。テオドールとゴンペルツはお互いのプライドの高さから内心では嫌い合っているものの、ミリアを閉じ込めておくという点では共犯関係にある。健康な人間は外で自由を謳歌できるのに対し、不健康な人間は施設に収容されて不自由な生活を強いられる。不健康な人間は健康な人間に生殺与奪の権を握られているのだ。本作はナチスのアナロジーを用いながら戦後の医療体制まで視野に収めていて、随分と野心的だと思う。

ヒンネルクの人物像も面白い。彼は戦争に行っていたがゆえに、権利や憲法といった合法的防御に幻想を抱いていなかった。万の言葉を連ねた演説よりも、一個の弾丸のほうが重い。そういう哲学の持ち主である。終盤ではそんな彼が一個の銃弾に倒れるのだから皮肉だ。しかも、体裁は事故でありながらも、結果的には罪に対する罰になっている。こういう渋いことをするから本作は侮れない。

サム・メンデス『1917 命をかけた伝令』(2019/英=米)

1917 命をかけた伝令 (字幕版)

1917 命をかけた伝令 (字幕版)

  • ジョージ・マッケイ
Amazon

★★

1917年4月6日。第一次世界大戦西部戦線。イギリス軍兵士のウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)とトム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)に伝令の命令が下る。前線では明朝に友軍が突撃する予定だったが、ドイツ軍が罠を張っていることが判明したのだ。このままだと1600人の仲間たちが危機に晒される。2人は命令書を持って前線に向かう。

ワンカット風に表現することが大きな制約になっているように感じた。映像のチープさと相俟って、『プライベート・ライアン』【Amazon】の劣化版みたいになっている。

文学を文学たらしめているのが文章だとしたら、映画を映画たらしめているのは映像だろう。そして、映像表現で重要なのがカメラワークとカット割りだ。本作の場合、カメラワークは申し分がない。たとえば、2人が塹壕を歩いていくシーンなんかあんな狭い場所でどうやってカメラを動かしているのだろう、という不思議さがある。すれ違うのも困難な場所で自在にカメラが回り込んでいるのだ。一方、カット割りについては微妙である。ワンカット風とはいえ、どこでカットを割っているのかは見え見えだし、またカットをシームレスに繋いだ結果、オープンワールドのテレビゲームみたいになっている。極端な話、単にワンカットの世界を堪能したいのだったらゲームをプレイすればいい。あれなら2時間どころか、5時間でも6時間でも好きなだけ楽しめる。映像や音響だって最近の映画とどっこいどっこいだろう。本作は既に他のメディアで達成されていることを映画で追随したような形になっていて物足りなかった。

さらに戦争映画にしては映像に迫真性がなく、日本の大河ドラマのようなコスプレ劇にしか見えないのが気になる。風景もセットもミニチュアのようで嘘っぽいのだ。画面の色合いは綺麗なわりに不自然で、CGを相当使っていると推察される。映像については空間設計も含めてゲームっぽい。現実の戦争なんてもっと汚くて悲惨なはずなのに、こんなに小綺麗でいいのだろうか。結果的にはリアリティに乏しい絵面になっていて、悪い意味でゲーム的だと言える。

突然ドイツ軍の戦闘機が墜落してきたり、民家で赤ん坊を抱えた母親に遭遇したり、イベントも無理やり作ってる感じがして興醒めだった。風景を変えるためだとか、物語にアクセントをつけるためだとか、そういった作り手の意図が透けて見える。観客に作為を感じさせるところも迫真性の欠如に繋がっているのではないか。本作はワンカット風に表現することが大きな制約になっていて窮屈そうだった。

こういう映画を観るくらいなら素直にゲームをプレイしたほうがいい。

片渕須直『BLACK LAGOON』(2006,2010-2011)

BLACK LAGOON Blu-ray BOX (初回限定版)

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  • ジェネオン・ユニバーサル
Amazon

東南アジアの犯罪都市ロアナプラ。サラリーマンの岡島緑郎(浪川大輔)がひょんなことから運び屋のラグーン商会と関わる。ラグーン商会は黒人のダッチ(磯部勉)がボスで、中国系ガンマンのレヴィ(豊口めぐみ)、ユダヤ人ハッカーのベニー(平田広明)の3人で構成されていた。岡島緑郎はここではロックと呼ばれ、色々あってラグーン商会の一員になる。

原作は広江礼威の同名漫画【Amazon】。

全3期29話。1期と2期がテレビシリーズで3期はOVAである。

当初はアウトローの描写が洒落臭くて、こりゃアメリカのナードが好みそうだと鼻白んでいたが、慣れるとアクションシーンが爽快で病みつきになる。とにかく銃の乱射や刀剣での殺傷が激しく、夥しい血が流れるのだ。ここまで人がバタバタ死んでいくアニメも珍しいのではないか。同時期にはグロアニメの『エルフェンリート』【Amazon】も放送されていたし、ゼロ年代のアニメシーンは意外と尖っていたのかもしれない。

総じてラグーン商会の面々よりも脇役たちのほうがキャラが濃く、どちらかというと、彼らが前面に出ているエピソードのほうが面白かった。

たとえば、ロシアンマフィアのホテル・モスクワはバラライカ(小山茉美)という傷だらけの女頭目が率いている。ホテル・モスクワの前身はアフガンで戦っていた旧ソ連軍の小隊で、第三次世界大戦を戦うために訓練された武装集団だった。バラライカはそこの元大尉である。このバラライカが出張ってくる回はだいたい面白く、組織的かつ圧倒的な殺戮を堪能できる。特にヘンゼルとグレーテルというイカれた双子と戦う回が絶品で、子供相手にも手加減しないその無慈悲さに痺れた。よくこれで放送コードに引っ掛からなかったと思う。下手したら社会問題になりかねない描写だった。

フェミニストアニメとしても注目すべきだろう。ガンマンのレヴィを始め、元軍人のバラライカ、殺人メイドのロベルタ(富沢美智恵)など、出てくる女たちがとにかく強い。戦闘力だけならどの男性キャラクターも敵わないレベルに達している。か弱い女など一人も出てこないところが本作の特徴だ。最近流行りの『呪術廻戦』【Amazon】よりもよっぽどフェミニスト度が高いと言えるだろう。いわゆる「戦闘少女」とは一味違う生々しさが彼女たちには宿っていて、血と暴力の世界を先頭に立って牽引している。

また、メイドや尼僧、子供など、暴力とは縁がなさそうな属性に暴力をやらせるところも本作の肝だ。そういう絵面をクールなものとしてオーディエンスに差し出している。ナードが好みそうな漫画っぽい想像力というか。この辺に作り手のフェティシズムを感じた。

なお、監督の片渕須直は後に『この世界の片隅に』【Amazon】の監督も務め、数々の映画賞を受賞している。本作と作風がまったく違っていて驚かされる。

マリオ・バルガス=リョサ『ケルト人の夢』(2010)

★★★

1864年にダブリンで生まれたロジャー・ケイスメントは、イギリスの外交官としてコンゴに派遣される。そこで行われていた先住民への虐待を告発することで世論を喚起させたのだった。その後はアマゾンに派遣され、ゴム採取業者が先住民に対して行っていた虐待を告発し、業者を解体させることに成功する。やがてロジャーはアイルランド独立闘争に身を投じるも、イギリス当局に逮捕されて死刑判決を受けるのだった。

彼女は泣きそうになって声を詰まらせた。ロジャーはもう一度彼女を抱きしめた。

「ずっと愛してたよ、ジー、最愛のジー」と彼女の耳元でささやいた。「そして今も、前よりずっと。いいときも悪いときも、君が僕に誠実でいてくれたことに、いつだって感謝してるよ。だからこそ君の意見は、数少ない大事な意見の一つなんだ。僕がアイルランドのためにやってきたことを全部知ってるね、そうだろう? アイルランド大義のように、気高くそして高潔な大義のためだよ。違うかい、ジー?」(pp.23-24)

実在の人物を題材にした歴史小説。今回はいつもと違って文章技法に凝るわけでもなく、過去と現在を行き来する構成と相俟って読みやすくなっている。叙述は主流文学の作家らしくしっかりしていて、歴史ドキュメントといった風情の堂々たる風格だった。正直、本業の歴史小説家が書く小説よりよっぽど濃い。小説は文章で読ませてなんぼだと思う。

ロジャー・ケイスメントの人生を貫いているのは「人道的であること」だろう。コンゴやアマゾンにおける虐待の告発は容赦がなかったし、晩年に従事したアイルランド独立闘争では故郷のために尽力した。強者による理不尽な支配から弱者を解放する。コンゴ、アマゾン、アイルランドとロジャーは常に弱者の側に立っていた。面白いのは、ロジャーが精神的にコスモポリタンだったところだ。ロジャーは母親を失って以来孤独を感じており、追放された者という感覚を抱いていた。イギリスやアフリカなど、どこにいても帰属意識を持てないでいる。しかし、どこにも帰属してないということはあらゆるところに帰属しているということであり、それが彼をコスモポリタンたらしめていたのだ。そんな国際派が国際派であるがゆえにナショナリズムに目覚め、アイルランド独立闘争という茨の道に入っていく。母親の死によって帰属意識を失った男が、安住の地を求めて故郷に帰る。ロジャーがアイルランドに執着したのは、母親に執着したのと同義である。

ロジャーと母親との関係で注目すべきなのが宗教だ。ロジャーは父親の方針で表向きピューリタンとして育てられたものの、実は幼少期に母親の手でこっそりカトリックの洗礼を受けていた。イギリスがピューリタンの国なのに対し、アイルランドカトリックの国である。ロジャーにとってカトリックは母親との共犯関係であると同時に、祖国アイルランドとの結びつきを示すものだった。このことを踏まえると、晩年のアイルランド独立闘争には母親の影がちらついてくる。

好かれることと嫌われることは表裏一体である。ロジャーはコンゴやアマゾンでの虐待を告発することによって、現地の関係者からは酷く嫌われた。その一方、世間からは正義を成した人として好意的に見られている。その後、アイルランド独立闘争ではイギリス中から裏切り者と非難され、遂には処刑されることになった。しかし、アイルランド人にとってロジャーは救国の英雄である。このように人間とは見る者の立場によって評価が変わる。後世から俯瞰的に判断できる我々は幸せだと思った。

ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』(2011)

★★★★

ミシシッピ州の架空の街ボア・ソバージュ。黒人の少女エシュは幼い頃に母親を亡くしており、現在は長兄のランドール(17)、次兄のスキータ(16)、弟のジュニア(7)、さらに父親の4人と一緒に暮らしている。折りしも天気予報はハリケーンの上陸を予報していた。エシュは元カレの子供を妊娠していることに気づく。また、スキータは飼い犬チャイナの出産に熱中していて……。

〈明日になれば、きっと何もかも洗い流される〉。わたしは頭の中で考える。わたしのお腹にいるものはこれからも容赦なく居座り続け、くる日もくる日も訪れる耐えがたい一日のように、やがて訪れるのだろう。小さくなっていくマニーを見つめながら、わたしの肋骨は乾いた夏の小枝のようにぽきぽき折れ、燃えて燃えて燃え続ける。

「赤ちゃんが生まれたらわかるから!」わたしは叫ぶ。「絶対にわかるから!」けれども声は風に捕まり、松のむこうへ運ばれて、地上に落とされ、息絶える。(p.237)

全米図書賞受賞作。

母性を描いた小説としてここまで苛烈なのもなかなかないような気がした。本作は母性を多角的に捉えつつ、ハリケーンカトリーナという大災害をぶつけて一気に方を付けている。エシュが母親になることを決心するラストには静かなカタルシスがあって、主流文学とはかくあるべしと思った。

一家にはまず母親がいない。母親は末弟のジュニアを出産した後に死んでしまった。だから出てくるのは常に思い出の中だけである。本作はエシュの一人称視点で語られているから、出てくるのは彼女の思い出の中だ。物語は一家の日常を柱としながらも母親のエピソードがちょくちょく挿入される。

そして、エシュのお腹には胎児がいる。元カレの子だ。エシュは今でも元カレに惚れているものの、元カレのほうは既に新しい彼女がいる。エシュは思うのだった。妊娠の事実を告げれば元カレが戻ってきてくれるのではないか、と。しかし現実は残酷で、元カレに妊娠を告げたら「おれには関係ない」と突き放されてしまう。

本作はピットブルのチャイナの出産から始まる。チャイナはスキータが偏愛する闘犬で、スキータはチャイナの子供を売って金儲けを目論んでいた。チャイナを巡っては2つの言説が交錯する。ひとつは、子犬を産めばどんな犬でも弱くなるという言説。もうひとつは、守るべきものができて強くなるという言説。母性とは果たしてどちらなのだろう?

チャイナで注目すべきはその暴力性である。チャイナは自分が産んだ子犬を噛み殺し、また、闘犬の試合では対戦相手と死闘を演じたすえに喉笛を食いちぎっている。これは母性の裏側にあるどろどろした攻撃性を表象しているのだろう。「包み込むやさしさ」というイメージとは裏腹に、母性にはかくも残酷な一面が内包されていた。母親になるとは、すなわちこの暴力性も引き受けるということだ。エシュが決心するラストはもちろんこのことを踏まえているはずであり、だからこそ本作を味わい深いものにしている。母親になるというのは決して綺麗事では済まないのだ、と。

一方、本作で目立つのは父性の欠如である。エシュの父親は来たるべきハリケーンに向けて準備をするも、子供たちをコントロールできない。「おれは家族を救おうと必死なんだ」「おまえたちみんな、もっとおれに感謝しろ。わかったか?」と情けないことを口走っている。彼は父親として一応は尊重されているものの、従来の家父長制にあったような絶大な権力は持ち合わせていない。力ずくで子供たちを支配することができないのだ。一家は良くも悪くも今風の家庭で、母性の存在感に比べると父性はいくぶん後退している。

ところが、父性は思わぬ部分で顔を出す。エシュの元カレが妊娠させた責任を放棄――父親になることを放棄――した後、友達のビッグ・ヘンリーがこう言うのだ。「その子の父親は大勢いる」「忘れんなよ、おれはいつでもいる」と。元カレのクズっぷりと比べて何たる高潔さだ。父性とは妻子を従わせる暴力なのではない。妻子を見守るやさしさなのだ。そう言いたげなエピソードで心が洗われる。

というわけで、本作は母性と父性の絡み合いが面白かった。