海外文学読書録

書評と感想

ぼや野『ぽんこつヒーローアイリーン』(2017-2018)

★★★

火星でヒーロー会社に勤めるアイリーンだったが、ヘマをして地球に左遷される。そこで出会ったのは、高卒無職でヒーローごっこをしているラブリーメロンだった。アイリーンはラブリーメロンのことを自分と同じヒーローだと勘違いしている。2人はゴミ拾いやアルバイトなどで善行を積むのだった。

全2巻。

4コマ漫画のわりには絵がごちゃごちゃしているし、ひと目でキャラの区別がつかないし、いくぶんの読みづらさはあったものの、ギャグの中にしんみりする要素も混ざっていて、笑いだけで終わらない奥行きのようなものを感じた。何より物語の畳み方がいい。ヒーローが悪党を退治して事件を解決する。そういった伝統的な位相をずらしてぽんこつヒーローが肯定されるところに良さがある。浄化という発想はおそらくプリキュアの影響だろうけど、終盤は不毛な戦いに解決の糸口を見出していて後味が良かった。

アイリーンとラブリーメロンはそれぞれ違った理由で孤独である。アイリーンはぽんこつさゆえに。ラブリーメロンは自信のなさゆえに。そんな2人が身を寄せ合って友達になるところが好感触だった。ただ、他のキャラはいまいち印象が薄く、賑やかしのためのリリーフにしかなってないのが気になる。率直に言って、そんなに出番はいらなかったかもしれない。アイリーンとラブリーメロン、それにもう一名だけで事足りたのではないか。その点、わずか3人で話を回した『キルミーベイベー』は偉大だと思う。あの漫画は絵柄もシンプルで、まさに4コマ漫画の理想だった。両者は長く続く漫画と打ち切りになる漫画の違いが表れている。

カラーページはコマ割りのせいもあるけれど、色がついているおかげでキャラの見分けがつきやすかった。きらら漫画はオールカラーで出版したほうがいいと思う。凝った絵の漫画でもヒットする確率が上がるから。ただ、そうなると漫画家にかかる負担が重くなり、それに比例して単行本の価格も跳ね上がるだろう。コストとベネフィットの兼ね合いが難しいところだ。

学生ものや部活ものが多いきらら漫画にあって、このようなヒーローものは異色である。新たなジャンルを切り拓くそのチャレンジ精神は買うべきだろう。返す返すもキャラの見分けがつきづらいのが惜しい。最近の電子書籍はオールカラーで再販することが多いので、時が経ったら本作もやってくれればと思う。

岡本喜八『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991/日)

★★

和歌山県。戸並健次(風間トオル)、秋葉正義(内田勝康)、三宅平太(西川弘志)の3人が、地元の大富豪・柳川とし子(北林谷栄)を誘拐する。当初は身代金を5000万円要求するつもりだったが、人質のとし子が100億円まで引き上げさせる。以降、とし子が誘拐犯の指揮を執るのだった。

原作は天藤真大誘拐』【Amazon】。

人質のとし子が誘拐犯に協力する理由は面白かったけれど、それ以外はダメダメだった。全体としてはいかにもテレビ資本が入ったって感じの邦画で、演技も演出も現在に通じる俗悪ぶりだった。

昔と今とでは、民衆の国家に対する感覚がだいぶ変わったのだと推測される。要するに、30年前は国家をおおっぴらに馬鹿にしても良かった。『創竜伝』【Amazon】の刊行が1987年で、今読むと当時の空気が何となく読み取れる。お年寄りについては、日本という国家が大日本帝国の地続きにあり、国家は国民を苦しめるものである、そういう感覚を持っていたのかもしれない。団塊の世代にとっても心理的には反抗の対象だろう。また、バブル経済も国家を軽視する後押しになっていたはずだ。国家権力の尖兵たる公務員は安月給の物言わぬ囚人に過ぎなかった。ナショナリズムが吹き上がるのは、2002年の日韓ワールドカップまで待たなければならない。

冷静に考えると、庶民の僕が上級国民の柳川とし子に肩入れする理由なんてないのだけど、彼女は田舎によくいる人当たりのいいお婆ちゃんで、その辺はずるいと思った。また、柳川家の人たちもとし子のことを心配し、10億円もの金を用意しようと奔走している。悪党ヅラをした岸部一徳ですらいい人なのだから、この一家はどこかおかしいのだ。我々庶民が打倒すべきは本来こういう連中のはずなのに、どこか素朴な雰囲気さえ漂っているのだから拍子抜けである。金持ちは金持ちなりに苦労していて、その大本にいるのが国家だった。そんな同情すべき事情さえ窺える。

とし子の計画が成立するのも誘拐犯が3人ともいい人だからで、そこら辺は納得のいかないものを感じた。誘拐って人間を拘束する犯罪だから、スリや空き巣と違って相当な覚悟が必要なはず。生半可な悪党ではできない。現代のように、Twitterで知り合った家出少女を保護したら誘拐罪に問われてしまった、そんなレベルではないのである。誘拐犯があんな好青年でいいのかと思った。

それにしても、俳優の演技が軒並み酷かったのはテレビ資本が入っているからだろうか。邦画はもう白黒の古いやつだけ観ればいいのかもしれない。

レオ・マッケリー『我が道を往く』(1944/米)

★★★

ニューヨークの古い教会に若き神父オマリー(ビング・クロスビー)が赴任してくる。その教会は老神父フィッツギボン(バリー・フィッツジェラルド)が建設に尽力し、以降45年間守ってきた。教会はいま財政難にある。オマリーは不良少年たちを集めて聖歌隊を結成し、さらにオペラ歌手リンデン(リーゼ・スティーヴンス)の協力を得てマネタイズする。

ビング・クロスビーがこんなにいい俳優だったと思わなかった。というのも、『スイング・ホテル』を観たときはいまいちぴんと来なかったのだ。共演したフレッド・アステアに食われたなあ、と。それが本作では、持ち前の歌唱力を武器にヒューマニズム溢れる役を好演していて、フランク・シナトラに匹敵するエンターテイナーだと認識を改めた。制作事情は知らないけれど、これはビング・クロスビーありきの企画と思えるほど。それくらいはまり役だった。

物語はオマリーとフィッツギボンという世代を超えた人間関係を軸としていて、最初はオマリーを煙たがっていたフィッツギボンが、最終的には彼を認めるところに感動がある。こういった心理の変容は、ある程度尺のある映画ならではだろう。世代を超えて分かり合う。言葉にすると簡単だけど、実際はとても難しいことだ。だいたい親子くらい歳が離れていたら、相互理解なんでまず不可能になる。そういった困難はサブプロット、劇中に出てくるある親子のプロットに現れていて、プー太郎になった息子が知らないうちに結婚したうえ、勝手に軍に入隊している(この展開は戦中の映画だからだろうか)。つまり、普通は歳が離れていたらお互いの思惑にズレが生じるのだ。ところが、奔放なオマリーはその奔放さゆえにフィッツギボンの信頼を勝ち取っている。だからこそ最後の別れが名残惜しい。

日曜日に礼拝するのが当たり前という価値観は時代を感じさせて、そこはクラシック映画だなと思う。今どきのニューヨーカーは礼拝なんてしないだろうし。その反面、「音楽は自由」と謳いながら、「Going My Way」という通俗的な曲を歌うところはなかなかパンクだ。聖歌隊を結成するくらいだから、もっと宗教的な曲を歌うものだと思っていた。そこはオマリーが型破りであることの表れなのかもしれない。

教会はフィッツギボンの象徴で、それが焼け落ちたということは彼の人生の終焉を意味している。途中まではそう解釈していたけれど、最後に再建の目途がつくあたりは良心的だった。人生はまだまだ続くというわけ。

総括すると、本作はいい人ばかり出てくるいい映画である。

ジャック・ロンドン『赤死病』(1907,1910)

★★★★

日本オリジナル編集の中短編集。「赤死病」、「比類なき侵略」、「人間の漂流」の3編。

『疫病の前はお前の時代だった』と、やつは言った。『が、今は俺の時代で、べらぼうにいい時代ってえもんだ。俺は、何をもらったって、昔にあともどりなんかしやしねえぜ』(p.99)

3編とも疫病が絡んでいて、昨今のコロナ禍を意識した編集になっている。特に表題作はパンデミックの様子がリアルだった。

以下、各短編について。

「赤死病」。2073年のサンフランシスコ。60年前に赤死病が流行して人類はほぼ壊滅状態になった。生き残りの老人が、当時の様子を孫たちに語り聞かせる。日本で新型コロナが流行りだしたとき、Twitterインセルの人が、「希望はコロナ」*1と言って階層の逆転現象が起きることを期待していたけれど、本作ではそれが見事に描かれていて思わず笑ってしまった。そういうのはもう100年前に予見されていたのだ。お抱え運転手が腕力にものを言わせ、かつての支配階級を奴隷にして使役する。ポストアポカリプスの世界における正しい姿だと思う。

「比類なき侵略」。1976年。世界と中国の紛争は頂点に達していた。中国は膨大な人口を有して世界の脅威になっている。それに対して世界は……。発想の源泉はおそらく黄禍論で、中国人の繁殖力に目をつけたところはさすがだった。実際、国家にとって人口は大きな武器なので。日本なんかは少子高齢化による人口減少で苦労している。そして本作に描かれた日中関係は、ODAによって日本が中国を肥え太らさせた結果、国力が逆転してしまうことを予見している。こういう図式、やはり分かる人には分かってしまうのだろう。また、国家間で戦争するにあたって生物兵器を用いるところは慧眼だった。

「人間の漂流」。フィクションなのかノンフィクションなのかよく分からなかった。黄禍論に直接的な言及があるあたり、当時はそういう時代だったのだと思う。おまけに、社会主義のことも過大評価していた。食料獲得の効率化による人口増加を憂えるところは、現代のインテリとあまり変わらない。そして、疫病がある程度の歯止めになると期待している。この短編、100年前の人の考え方が分かってなかなか面白かった。

*1:赤木智弘が主張した「希望は、戦争」のもじり。

郝景芳『1984年に生まれて』(2016)

★★★★

1984年に生まれた軽雲だったが、大学卒業後に国を出るかどうかで思い悩む。一方、軽雲が生まれた当時、父は友人と商売に手を染めてトラブルに巻き込まれる。以降、外国を転々とする生活を送るのだった。人生の岐路を迎えた軽雲は、自由について考える。

「自分でもうまく言えないんだけど」私は頭を横に振った。「なんだか……思うんだけど、私、もしかして一生、自分が望んでいるような自由を見つけられないんじゃないかって」

「どんな自由?」

「うまく説明できないの。ある種の精神的な自由……これをはっきりと言うことができたなら、落ち込みから抜けられると思う」(p.241)

リアリズムの世界が『一九八四年』【Amazon】に接続するところは刺激的だったけれど、この仕掛けは梯子を外されたような気がして複雑だった。たとえるなら、夢オチに近い読後感というか。ただ、作者の郝景芳が1984年生まれであり、彼女によって創造された軽雲も1984年生まれである。この縁を自伝体として最大限活かすには、有名なディストピア古典を引き合いに出すしかなかったのだろう。実際、中国を舞台に「自由」を題材にするところはスリリングで、これは中国と『一九八四年』が近接していることを示唆している。つまり、どちらのレイヤーも監視や検閲を意識した創作なのだ。They are watching you. こういう隠し味はさすがだった。

父の物語は、改革開放政策によってみんなが金儲けに奔走した時代を舞台にしており、軽雲の物語は、中国が経済大国として国際的に存在感が増していく時代を舞台にしている。2つの物語に共通しているのは、とにかく民衆が金持ちになろうとギラギラしているところだ。父の時代は、誰も彼もが「無法無天(なんでもあり)」の精神で商機を掴もうと躍起になっている。一方、軽雲の時代は、学歴を積んで合法的にのし上がろうと躍起になっている。この合わせ鏡のような類似性の中、自由を巡って父と娘が対比されるのだった。父はヨーロッパ・アメリカ・アジアなどを放浪してその日暮らしをしている。それに対し、軽雲は外国留学を取りやめて国内で働いている。軽雲は自由について思い悩み、どん底の苦しみを経て重要なことを悟る。認識が変化し、新たな視座を獲得する。こういった成長にはビルドゥングスロマンみたいな感動があって、素直に「いい話だなあ」と思うのだった。

とはいえ、日本に住んでいる僕はちょっと考える。軽雲のその悟りは、不自由な環境下で生きていくための諦念ではないか、と。周知の通り、中国は言論統制が酷く、諸外国に比べたら不自由だ。未だに天安門事件について語れないし、習近平を「くまのプーさん」と揶揄することもできない。極端な話、『一九八四年』に匹敵するディストピアだ。人々は政府による監視を意識しながら生活している。もし人の理性がその視野によって変わるなら、自国のことしか知らない人間と外国のことを知っている人間の場合、後者の方がより理性的と言えるだろう。つまり、父と軽雲とでは見えている風景が違うし、理性のあり方も違う。軽雲の認識が正しいとは言い切れない。

そして、本作はこういった対比をしておいて、最後に『一九八四年』に止揚させるあたり、一筋縄ではいかないのだ。単純なビルドゥングスロマンとしては読めない。この辺、検閲によって鍛えられた中国作家らしさが出ている。