海外文学読書録

書評と感想

郝景芳『1984年に生まれて』(2016)

★★★★

1984年に生まれた軽雲だったが、大学卒業後に国を出るかどうかで思い悩む。一方、軽雲が生まれた当時、父は友人と商売に手を染めてトラブルに巻き込まれる。以降、外国を転々とする生活を送るのだった。人生の岐路を迎えた軽雲は、自由について考える。

「自分でもうまく言えないんだけど」私は頭を横に振った。「なんだか……思うんだけど、私、もしかして一生、自分が望んでいるような自由を見つけられないんじゃないかって」

「どんな自由?」

「うまく説明できないの。ある種の精神的な自由……これをはっきりと言うことができたなら、落ち込みから抜けられると思う」(p.241)

リアリズムの世界が『一九八四年』【Amazon】に接続するところは刺激的だったけれど、この仕掛けは梯子を外されたような気がして複雑だった。たとえるなら、夢オチに近い読後感というか。ただ、作者の郝景芳が1984年生まれであり、彼女によって創造された軽雲も1984年生まれである。この縁を自伝体として最大限活かすには、有名なディストピア古典を引き合いに出すしかなかったのだろう。実際、中国を舞台に「自由」を題材にするところはスリリングで、これは中国と『一九八四年』が近接していることを示唆している。つまり、どちらのレイヤーも監視や検閲を意識した創作なのだ。They are watching you. こういう隠し味はさすがだった。

父の物語は、改革開放政策によってみんなが金儲けに奔走した時代を舞台にしており、軽雲の物語は、中国が経済大国として国際的に存在感が増していく時代を舞台にしている。2つの物語に共通しているのは、とにかく民衆が金持ちになろうとギラギラしているところだ。父の時代は、誰も彼もが「無法無天(なんでもあり)」の精神で商機を掴もうと躍起になっている。一方、軽雲の時代は、学歴を積んで合法的にのし上がろうと躍起になっている。この合わせ鏡のような類似性の中、自由を巡って父と娘が対比されるのだった。父はヨーロッパ・アメリカ・アジアなどを放浪してその日暮らしをしている。それに対し、軽雲は外国留学を取りやめて国内で働いている。軽雲は自由について思い悩み、どん底の苦しみを経て重要なことを悟る。認識が変化し、新たな視座を獲得する。こういった成長にはビルドゥングスロマンみたいな感動があって、素直に「いい話だなあ」と思うのだった。

とはいえ、日本に住んでいる僕はちょっと考える。軽雲のその悟りは、不自由な環境下で生きていくための諦念ではないか、と。周知の通り、中国は言論統制が酷く、諸外国に比べたら不自由だ。未だに天安門事件について語れないし、習近平を「くまのプーさん」と揶揄することもできない。極端な話、『一九八四年』に匹敵するディストピアだ。人々は政府による監視を意識しながら生活している。もし人の理性がその視野によって変わるなら、自国のことしか知らない人間と外国のことを知っている人間の場合、後者の方がより理性的と言えるだろう。つまり、父と軽雲とでは見えている風景が違うし、理性のあり方も違う。軽雲の認識が正しいとは言い切れない。

そして、本作はこういった対比をしておいて、最後に『一九八四年』に止揚させるあたり、一筋縄ではいかないのだ。単純なビルドゥングスロマンとしては読めない。この辺、検閲によって鍛えられた中国作家らしさが出ている。