海外文学読書録

書評と感想

ウィリアム・シェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』(1590?)

★★★★

ローマ帝国の将軍タイタス・アンドロニカスが、ゴート族との戦争に勝利して首都に凱旋する。彼は捕虜にしたゴート人の女王タモーラの長男をバラバラに切り刻んで殺害し、戦死した我が子への生贄にした。やがてタモーラは、新しくローマ皇帝になったサターナイナスと結婚、タイタス・アンドロニカスとその一族への復讐を実行する。

ディミートリアス さてと、その舌でしゃべれるなら、言いつけてこい、

誰に舌を切られ、誰に犯されたか。

カイロン 思っていることを書いて、ばらしちまえ、

その二本の切り株で字が書けるなら。

ディミートリアス 見ろ、腕ふりまわして訳わかんないこと書いてるぞ。

カイロン 家に帰って、きれいな水を持ってこいと言って、手を洗うんだな。

ディミートリアス 言おうにも舌はなく、洗おうにも手はない、

だから、その辺を黙ってほっつき歩かせておこうや。

カイロン これが俺だったら首くくるっきゃないな。

ディミートリアス その縄を綯う手があればな。(p.80)

暴力的な場面が満載で驚いた。タイタス・アンドロニカスがタモーラの長男アラーバスの四肢五体を切り刻んで燃やしたかと思えば、タモーラの下の息子たち(ディミートリアスとカイロン)がタイタス・アンドロニカスの娘ラヴィニアの両手を切り落としたうえ、ものが言えないよう舌を切り取って強姦している。さらにタイタス・アンドロニカスが逮捕された息子の助命を嘆願するため、自身の左手を切り落としているのだから凄まじい。この執拗なまでの肉体欠損はいったい何なのだろう? 世間ではリョナという性癖があるようで、『メイドインアビス』【Amazon】はそれを取り入れた傑作アニメだった*1。ラヴィニアの両手と舌が切断されるところはまさしくこのリョナに分類されると言える。当時の観客たちは、不具になったラヴィニアを見て性的興奮を覚えていたに違いない。まさか現代で流通しているフェティシズムが、遠い遠い昔のエリザベス朝期にも見られるなんて夢にも思わなかった。ただ、スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』【Amazon】によると、中世の拷問は大衆娯楽の一形態で、犠牲者が悲鳴をあげて苦しむのを大勢の人びとが大喜びで見物したという。なので、シェイクスピアの時代にその精神が残っていても不思議ではない。人間には凄惨な暴力を目の当たりにしたいという本質的な欲求が備わっている。

全体的に本作は復讐が復讐を呼ぶ陰鬱な悲劇だけど、中にはちょっとずれた会話があって、それが一服の清涼剤というか、ブラックユーモア的なアクセントになっている。具体的には、第三幕第二場にあるハエをめぐるやりとりがそうで、ハエを殺したマーカスに対するタイタス・アンドロニカスの態度は、本気なのか冗談なのか判別がつかない。この人を食ったところがシェイクスピア劇の醍醐味ではなかろうか。前にも書いた通り、戯曲はストーリーよりもセリフのほうに注目すべきで、シェイクスピアが苦手という人は読み方を変えてみるといいかもしれない。いやホント、会話がとても面白いから*2

タイタス・アンドロニカスがタモーラに息子(ディミートリアスとカイロン)の人肉パイを食べさせる場面を読んで、殷の紂王が周の文王に息子(伯邑考)の肉で作った羹を食べさせたエピソードを思い出した。こういうのは洋の東西変わらないのだろう。本作は残酷な場面が目白押しで、異色のシェイクスピア劇という感じだった。

*1:肉体欠損といえば、アニメ『エルフェンリート』【Amazon】を思い出す。これは『メイドインアビス』を超えるほどのグロさだ。萌えとグロを両立させたアニメである。

*2:わざわざこのようなことを書くには理由があって、それはTwitterで「シェイクスピアの面白さが分からない」というようなツイートを見かけたからなのだった。ツイート主は普段ミステリを読む人で、シェイクスピアは初めて読んだらしい。リプライするか迷ったが、差し出がましいと思ったのでやめた。

『ギルガメシュ叙事詩』(1200BC?)

★★★

ウルクの王ギルガメシュは暴君として都城に君臨していた。ウルクの住民が神々に彼の非道を訴えると、大地の女神アルルが粘土からエンキドゥというの名の猛者を造り、都城から少し離れた野に解き放つ。エンキドゥは自然の中で動物たちと野獣のような生活を送っていた。ところが、そこにギルガメシュが娼婦を送って彼を人間らしくしてしまう。やがてギルガメシュとエンキドゥは取っ組み合いの格闘をし、お互いの力量を認め合って友情が芽生える。その後、2人は森の番人フンババを倒しに遠征するのだった。

彼らは牡牛のように強くつかみあった

壁がわれ、戸はこわれた

ギルガメシュとエンキドゥは

牡牛のように強くつかみあった

壁がわれ、戸はこわれた

ギルガメシュは膝をかがめ

両足は地面につけた

彼の怒りは静まり

彼はくびすをかえした

彼がくびすをかえすと

エンキドゥはギルガメシュにむかって言った

「お前の母はお前を第一の者として生んだのだ

猛き牛のなかの強き牛よ

ニンスンナよ

お前の頭は人びとのうえに高められ

人びとに対する王の位を

エンリルはお前に授けられたのだ」(p.52)

最近観た『Fate/Zero』【Amazon】と『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』【Amazon】は、神話や歴史に名高い英雄たちが英霊として現代日本に召喚されて殺し合いをするアニメでなかなか面白かった。大雑把に言えばバトルロイヤルもので、最後に残った1人が聖杯によって願いを叶えてもらえるという枠組みになっている。その英霊の中にギルガメシュ(アニメではギルガメッシュ)が最強のサーヴァントとして登場したため、興味をおぼえた僕は元ネタである本作を読んでみることにした*1。なお、現代人として身につけるべき教養はアニメである。Fateはエンターテイメントでありながら、哲学的な要素も含まれているので、文学ファンが観ても楽しめることだろう。「Fateは文学」とはよく言ったものである。

僕はFateからギルガメシュを知ったので、そのギャップにはかなり面食らった。Fateだと、ギルガメシュは王だから戦士みたいに格闘は得意ではないとされていたけれど、実際は猛者のエンキドゥと互角の戦いを演じている。そもそもFateにはエンキドゥのエの字も出てこなかった。アニメのギルガメシュは王の中の王として描かれており、王とはいかにしてあるべきかをアーサー王イスカンダルに説いている。よく考えたら、古代において英雄とは武力に秀でた者であり、あの智将と呼ばれるオデュッセウスでさえ武力は人並み以上にあったのだから、ギルガメシュも強くて当たり前なのだ。エンキドゥとの友情はなかなか熱いものがあって、ギルガメシュがアニメみたいな俺様キャラじゃないところが新鮮。さらに、神々が人間界に介入してくるところは後世のギリシャ神話を思わせるところがあり、こういうのは全世界共通のパターンなのかと感心した。

一番びっくりしたのは、旧約聖書(『創世記』【Amazon】)に書かれたノアの方舟が、名前を変えて本作にも出てくるところだ。ギルガメシュは永遠の命を求めるべく、方舟を作って生き延びた聖王ウトナピシュティムのもとを訪れる。聖王はギルガメシュに大洪水のことを物語るのだった。こうやってノアの方舟が複数の文献に書かれていることを考えると、古代の大洪水は実際にあった歴史的事実なのだと思えて何だかわくわくしてしまう。そもそも、数千年前に粘土板に刻まれた物語が、こうして現代人のもとに届いていることだって十分感動的だ。こんな昔から物語が存在していたことに文化人類学的な興味をおぼえる。今も昔も、人は物語を必要としている点では変わらないようだ。

*1:ついでに、アニメにはアーサー王も出てくるので、それ関連の書籍を読んだり、映画『エクスカリバー』【Amazon】を観たりもした。

ジェームズ・ロバートソン『ギデオン・マック牧師の数奇な生涯』(2006)

★★★

スコットランドの出版社にギデオン・マック牧師の手記が持ち込まれる。そこには彼の生い立ちのほか、突如森の中に出現した巨大な立石や、洞窟での悪魔との対話といった超常的な体験が書かれていた。マック牧師は厳格な家庭で育ち、信仰心のないまま牧師になったことを明かしている。彼はベン・アルター山で遺体で発見された。

「どれほどの確信を持つ無神論者でも、死の瞬間には少しくらい恐れるものでしょうね」彼女が言った。「もしかしたら、宗教のことなんてろくに考えない私みたいな人間よりずっとね。もしあなたが無神論者だったら、それを貫き通せると思う?」

私はパスカルのコインを思い出した。そして、確実な死を前にしてもまったく恐れなかったデビッド・ヒュームを。「キャサリン無神論者なんかじゃなかったんだよ」私は言った。「あの人は不可知論者だったんだ。神の存在を否定するのは、神の存在を断言するのに等しく傲慢かつ愚かな行為だと言っていたよ。現実だと分かっているものを信じることこそ、唯一の分別ある道なんだってね」(p.346)

原題は"The Testament of Gideon Mack"。デイヴィッド・コパフィールド式の自叙伝というか遺書なのだけど、そこは出版社に持ち込まれた手記という入れ子構造になっていて、どこまでが本当でどこからが嘘なのか分からない、なかなか面倒な話になっていた。まあ、曲がりなりにも現代文学だから、「信頼できない語り手」を踏まえつつ、ベタな語り方はしないということなのだろう。読んでいる最中は物語に引き込まれて事の真偽なんてあまり気にしなかったけれど、作中にたびたび編者の注釈が入ることでこれが手記であることを再確認させられる。また、エピローグでは違った視点から彼の物語を捉えていて、解釈の余地を残すような工夫が凝らされている。しかし、基本的には自分の人生を語るストロングスタイルの物語なので、古典的な楽しみと現代的な楽しみが味わえる一粒で二度美味しい小説という感じだ。この世で最高の娯楽は、他人の人生を覗き見することである。本作は変則的でありながらもそういうニーズをきっちり満たしてくれるので、デイヴィッド・コパフィールド式の古典的な物語が好きな人ならはまるかもしれない。

主人公が牧師なので、当然ながら信仰が重要なトピックになっている。マック牧師は信仰心がないまま牧師になった稀有な存在なのだった。現代社会においては、牧師は弁の立つ社会福祉士みたいなもので、共同体の世話焼きさえしていれば信仰心は必要ないのかもしれない。僕の知人に住職の跡継ぎがいるけれど、彼が仏教を信仰しているかといえば、答えは否である。たまたま父親が住職だから自分も住職になるだけのことだ。ということは、欧米でも牧師だからといって無条件にキリスト教を信仰しているとは限らないのではないか。世界はもう神も悪魔も必要としていないのだから、職業としての牧師が形骸化するのも仕方がないことだろう。これが果たして良いことなのか悪いことなのか、なかなか判断が難しいところではある。

本作の最大の見どころは、マック牧師が悪魔と対話する場面である。この悪魔が従来の悪魔とは違った造形をしていて、本当に悪魔なのか分からない。悪魔のくせにマック牧師の命を助け、さらには傷まで治してくれる善人ぶりである。思うに、この世に神と悪魔(みたいな超越者)がいるとして、それが果たしてキリスト教の世界観に合致するかと言ったら、その可能性は限りなく低いだろう。キリスト教以外のすべての宗教ともおそらく合致することはないはずだ。というのも、宗教とは人間の想像の産物、すなわちフィクションであるから。結局のところ人類は、フィクションの中に生きてフィクションの中で死ぬ、そんな哀れな存在なのかもしれない。

ソール・ベロー『ラヴェルスタイン』(2000)

★★★★

政治哲学の教授エイヴ・ラヴェルスタインは、著書が世界中でベストセラーになった大金持ちだった。彼はユダヤ人であり、男を愛する自称「性倒錯者」でもある。ラヴェルスタインの友人で作家のチックは、彼からメモワールを書くよう依頼される。ラヴェルスタインはHIVの合併症によって死に瀕していた。

我々はふたりとも、フランスに住んだことがあった。フランス人は純粋に教養人だった――あるいは、かつてはそうだった。今世紀に入り、彼らはひどい敗北を味わった。しかしながら、今なお美しいものに対する真の感性、レジャーに対する感性、また読書と会話に対する感性をもっていた、それでいて生き物としてのニーズ――人間としての基本――を軽蔑することはなかった。私はフランス人に対して、この激励の発言を今度もつづけていくつもりだ。(p.62)

一読した印象としては、まるでフィリップ・ロスが書きそうな小説だった。要はユダヤ人を題材にした小説だけど、欧米の人文学や経済学といった専門知を織り交ぜつつ、ホロコーストやその他の歴史的事象に接近していくところはスリリングである。最初はラヴェルスタインの強烈な個性が物語の誘引になっていたから、いまいち掴みどころがなかったんだよね。序盤は様々な哲学者や経済学者に言及したり、懐かしのマイケル・ジャクソンが登場したりで、ここからユダヤ人の話に舵を切るとは予想外だった。アメリカ文学アメリカ国内で閉じているような印象があったけれど、本作はアメリカに足場を置きつつ、ヨーロッパの学問なり文化なりが主体になっている。ユダヤ人とは何かということを考えるには、そこに立ち返る必要があったのだろう。本作が20世紀の最後の年に出版され、さらには著者の遺作になったというのが示唆的で、20世紀の痛ましい問題を総括した小説として興味深かった。

彼がユダヤ思想、即ち、ユダヤの精髄ともいえる小道をたどっていたことが見れ取れた。この頃になると、どんな会話においても、彼がプラトンやトゥキュディデスに言及するのは稀になった。むしろ、今では聖書の言葉で彼は満ちていた。宗教について語り、そして本当の意味で、"人間であること"という困難なプロジェクトについて語り、さらには人間になること、人間にのみなるということについて語った。たまには、理路整然としていることもあった。しかし、ほとんどの場合、彼の言っていることが私にはわからなかった。(pp.232-233)

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』【Amazon】によれば、家庭内から地域、異なる部族や武装集団同士、さらには国家間にいたるまで、さまざまな規模における暴力は、時代が経つにつれて減少しているのだという。ただ、そうは言っても20世紀の大量虐殺についての記憶は生々しく、どうしてあのような殺戮を許したのかという問題が脳裏から離れない。本作では登場人物の誰かが、アメリカのニヒリズムは底が浅いと嘆いていた。しかし、だからこそアメリカはナチス・ドイツみたいにはならなかったのだろう。ヒトラーの指導原理が根深いニヒリズムにあったことはしばしば指摘される通りである。現代のユダヤ人が自身のユダヤ性について考える場合、どうしてもホロコーストの問題は避けては通れないわけで、それゆえにしばしば文学の題材になっている。こういうのを対岸の火事といって切り捨てず、我々にも関係のある普遍的な物事として考えていくのが重要なのだと思う。

訳者あとがきによると、ラヴェルスタインのモデルはアラン・ブルーム、チックのモデルはソール・ベロー、ダヴァール教授(ラヴェルスタインの恩師)のモデルはレオ・シュトラウスだという。一応、ここにメモしておく。

ハ・ジン『待ち暮らし』(1999)

★★★★

軍医の孔林は妻の淑玉と離婚すべく、毎年夏に帰省して妻と人民法院に通っていた。ところが、当初は離婚に同意していた妻も土壇場で考えを翻して離婚できない。林は早く妻と別れて看護婦の呉曼娜と結婚したかった。軍規によると、別居が18年続けば相手の同意がなくても離婚が成立するため、林と曼娜はひたすら待ち暮らしをする。文革期に出会った2人は、改革開放期になってようやくその日を迎えるのだった。

墓から戻って一日じゅう、林は自分の置かれた苦境について考えた。村人から淑玉について尋ねられたら、自分はきっと淑玉を完璧な妻と認めるにちがいない。たぶん、淑玉とある程度の歳月を共に暮らしたらならば、彼女を愛することもできたのだろう。互いを知らないまま結婚し、そのあと歳月をかけて完璧な夫婦になっていく男女がいくらでもいるように、自分たちだって幸せな人生を送ることができたのかもしれない。けれど、淑玉と充分に理解しあえるほど長い時間を一緒に過ごすことなど、どうして可能だっただろう? それは、林が軍隊をやめて家に戻らないかぎり不可能だった。そんなことは考えられない。林の仕事場は、その都会なのだから。

理想的な解決策は、妻を二人持つことかもしれない。都会では曼娜を、田舎では淑玉を。だが、重婚は違法だし問題外だ。こんな絵空事を想像しても仕方ない。曼娜に会わなければ自分の人生はどんなだっただろう、と、林は考えずにはいられなかった。このジレンマから、いま抜け出すことができたら……。(pp.105-106)

全米図書賞受賞作。

『アメリカーナ』を読んだとき、僕はこう確信したのだった。一流の作家がメロドラマを書くと極上の読み物になるのだ、と。つまり、小説というのはストーリーで良し悪しを判断すべきではなく、あらすじからこぼれ落ちるディテールが肝心なのだ。通俗的なプロットを採用しているからといって、頭から馬鹿にしたものではない。注意深く読み込めば、そこには思わぬ鉱脈が眠っている。本作は『アメリカーナ』に比べれば一段落ちるものの、中国ならではの背景なり制約なりが面白く、表面的はありきたりなメロドラマであるにもかかわらず、読んでいて満足度が高かった。これは舞台が中国であることが大きい。莫言や閻連科が描くようなディープな中国とは違い、やや脱臭された薄口の中国ではあるけれど、それでも欧米とは違う異国趣味が抜群で読ませる。本作が全米図書賞を受賞したのも何となく分かる。英文の良し悪しはともかく、内容はアメリカ人からしたらさぞ新鮮だったことだろう。

本作を読んで、男の身勝手さは救いようがないと思った。林の妻である淑玉は纏足をした醜女ではあるけれど、情愛は深くて何の落ち度もない。むしろ、家庭をしっかり守る良妻賢母といった感じである。ただ、親が勝手に決めた結婚であるうえ、前述のように醜女であることから、林は彼女を愛せないでいる。愛のない夫婦なんてごまんといるから、それだけなら特に問題はないだろう。問題は林がその感情にかこつけて不倫しているところだ。勤務先で曼娜という若い看護婦のことを愛し、紆余曲折あった末に彼女との結婚を望むようになる。しかし、林と曼娜の間にも問題があって、それは曼娜が享受すべき女盛りの時期を無為に過ごさせているところだ。曼娜は自分のことをオールドミスだと嘆き、自身が高齢の処女であることについて林を責めている。林は淑玉のことも曼娜のことも傷つけたくないから煮え切らない。そのやさしさがかえって曼娜のことを傷つけている。このシチュエーションはまるで『寒い夜』みたいだ。自分はあくまでいい人であろうとする身勝手さ。それだったら初めから不倫しなければいいのに……。男というのは本当にどうしようもない生き物である。

本作の小ネタで面白かったのは、林が曼娜に代わって『草の葉』【Amazon】の感想文を書くところ。林にはこの詩集に込められたアメリカ的な価値観が理解できず、労働者階級を賛美する作品として、すなわち共産主義イデオロギーで読み替えて感想文を書いている。この辺のユーモアもアメリカの読者に受けたのではなかろうか。共産主義はギャグみたいなことを本気でやっていて面白い。