海外文学読書録

書評と感想

フラン・オブライエン『スウィム・トゥー・バーズにて』(1939)

★★★★

大学生の「ぼく」は余暇に小説を書いていた。その主人公トレリスは罪と報いについての小説を構想しており、登場人物を何人か創造して自分と同じホテルに住まわせている。トレリスの創造した人物たちは、彼のコントロールを離れ、トレリスに一服盛って昏睡状態にしてしまう。その後、トレリスの私生児が復讐目的でトレリスについての小説を書くのだった。

小説と戯曲はともに楽しき知的実践である。小説は幻想の外的投影物に欠ける点において戯曲に劣るが、しばしば姑息な手段で読者をペテンにかけては架空の作中人物の運命に人ごとならぬ関心を抱かしめる。戯曲は公共建造物において多数観客の健全なる観賞に供せられ、小説は密室における個人のひそやかな楽しみの具である。節度に欠ける作者の手にかかるとき、小説は独裁専制的なものになりうる。あえて言うならば、申し分なき小説は紛うかたなき紛い物でなければならず、読者は随意にほどほどの信頼をそれに寄せればよいのである。(p.34)

ナンセンスなメタフィクションで面白かった。『第三の警官』の惹句に「アイルランド的奇想」というフレーズがあって、当時それを読んだときはいまいちピンとこなかったものの、本作はまさしくアイルランド的奇想が横溢した小説である。というのも、作中にフィン・マックールという古代アイルランドの英雄が出てくる*1。さらに、スウィーニー王の狂気にまつわる物語を詩を交えて語るところや、プーカという魔術的人物の前にグッド・フェアリなる妖精が現れるところなど、あまりアイルランドに詳しくなくてもこれはアイルランドっぽいと感じる。思えば、『第三の警官』は自転車が中心の世界観だったから、「これがアイルランド?」と首を傾げたのだった。本作は語り手が文学におけるアイルランドおよびアメリカ作家の優越性を友人と語り合っていたのが印象的だ。イギリス作家を腐しているところがポイントで、当時のアイルランド人がイギリスのことを嫌っていたのが窺える。

全体としては人を食ったような話で、毒にも薬にもならないただただ純粋な創作物であるところが好ましい。上の引用の通り、「申し分なき小説は紛うかたなき紛い物」なのだ。まさに小説のための小説といった感じである。本作より面白いメタフィクションはたくさんある。しかし、この時代にこういう小説を書いたことはとても貴重だと思う。

ところで、西洋文学って何かと裁判のシーンを描くことが多いような気がする。有名な古典だと、『ヴェニスの商人』【Amazon】や『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】。最近読んだ本だと、『罪人を召し出せ』『インドへの道』。こう書いたからには当然本作にも裁判シーンが出てくるのだが、その様子は例によってナンセンスでふざけた代物だった。やはり裁判は西洋文明を支える屋台骨なのだろう。

*1:人気スマホゲームFate/Grand Orderにも出てくるようだ。

G・K・チェスタトン『木曜日だった男』(1908)

★★★

詩人のルシアン・グレゴリーは無政府主義者だった。彼は同じく詩人のガブリエル・サイムと議論をかわし、ひょんなことからサイムを無政府主義中央評議会に連れていくことになる。その組織は日曜日と呼ばれる男が君臨する秘密結社だった。グレゴリーは欠けた木曜日の後釜に座る予定だったが、代わりにサイムが立候補して選任されてしまう。実はサイムには秘密があって……。

「芸術家とは、すなわち無政府主義者のことさ。この二つの単語はいつだって入れ替え可能だ。無政府主義者は芸術家だ。爆弾を投げる人間は芸術家だ。なぜなら、彼は偉大なる一瞬をいかなるものよりも尊ぶからだ。まばゆい光の一閃、非の打ちどころない轟音の一鳴りは、不格好な警察官二、三人の凡庸な肉体よりもはるかに価値があることを知っている。芸術家はあらゆる政府を無視し、あらゆる因襲を撤廃する。詩人が喜ぶのは混乱だけだ。もしそうじゃないというなら、この世で一番詩的なものは地下鉄道だってことになるだろう」(pp.18-9)

こんな昔からスパイ小説のパロディみたいな小説があったとは驚いた。思えば、著者が冒頭で詩を捧げているE・C・ベントリーも、『トレント最後の事件』【Amazon】という探偵小説のアンチテーゼみたいな小説を発表していたのだった。本作は物語の性質上、極めて早い段階で先の展開が読めてしまう。けれども、作中で開陳される逆説に次ぐ逆説の論理が面白いし、終盤の混沌は物語をまた別のステージに押し上げていて、日曜日をめぐる神学的・存在論的な位置づけを探るやりとりがなかなか興味深い。神、あるいはそれに近い存在というのは清濁併せ呑んだもので、後ろからだと獣に見えるのに前からだと神に見えるという矛盾を孕んでいる。聖書だと神は人間に対して時々無茶な要求をするうえ、その意図は人間には計り知れないものがあるけれど、この世の理不尽を神という概念を経由して受け入れるのが一神教の要諦なのだろう。ドストエフスキーの時代には既に神が死んでいて、そこを人間がどうあがいて生きていくのかというのがテーマとしてあった。本作はその時代の延長線上にあるような気がする。無政府主義者の集まりはまるで『悪霊』【Amazon】のようだし、そのなかで日曜日はスタヴローギン的なポジションにいる(と言っても、日曜日は悪ふざけをするだけである)。神と悪魔は紙一重であり、信仰と無神論紙一重。宗教には大いなる逆説が潜んでいる。

貧しい者は国と命運を共にしているから無政府主義者にならないのに対し、金持ちは統治されることを嫌うから無政府主義者になるという論理は面白かった。貧乏人は下手な統治をされるのには反対するけど、統治そのものは必要としている。統治によって形成された秩序が生きていく手段を用意してくれるから。すなわち、労働者という合法的な奴隷である。一方、金持ちはどこに行っても生きていけるし、政府に税金をたんまりふんだくられるのは嫌だろう。これって現代にも応用可能な論理ではないかと思った。億万長者がタックス・ヘイヴンに国籍を移すのって、現代における無政府主義的な行動と言えそう。

イアン・マキューアン『甘美なる作戦』(2012)

★★★

1970年代初頭。英国国教会主教の娘セリーナは、現代文学が好きな読書家だった。彼女は英文学科を志望するも、親の勧めでケンブリッジ大学の数学科に進学する。そこではあまり成績が良くなかった。セリーナは恋仲になった教授の伝手でMI5へ就職する。当初は事務職の下働きだったが、あるとき、若い作家を金銭面で支援するスィート・トゥース作戦に携わることになる。

わたしが必要としていたのは単純なことだった。テーマや文章の巧みさはどうでもよく、天候や風景や室内の細かい描写は読みとばした。わたしが求めていたのは存在が信じられる登場人物であり、彼らに何が起こるか好奇心をそそられることだった。ふつうは、人々が恋に落ちたり恋から醒めたりするほうがよかったが、なにかほかのことをやるというなら、それでもべつにかまわなかった。そして、低俗な望みではあるけれど、最後にだれかが「結婚してください」という結末になるのが好きだった。(p.11)

冷戦期の女スパイが主人公である。ただし、スパイと言っても外国との諜報戦を繰り広げるのではなく、国内の文化工作を担う一風変わったスパイ小説であり、同時に捻りの効いた恋愛小説でもある。本作のいいところは文学好きのツボを押さえたディテールで、同時代に活躍した作家を引き合いに出してくるのが楽しい。セリーナはソルジェニーツィンが初恋の人で、大学時代には彼の愛人になりたいとすら思っている。読書傾向としては英米文学が中心で、アイリス・マードックやミュリエル・スパーク、ウラジミール・ナボコフといったお馴染みの名前が出てくるし、他にもフィリップ・ロスジョン・バーストマス・ピンチョンにも触れている(それ意外にもたくさん名前が挙がっている)。さらに、仕事で絡む朗読会にはマーティン・エイミスが登場するというサービスぶり。今期放送中のアニメ『アニメガタリズ』【Amazon】は、アニメに関する小ネタが満載で、それを拾うのがとても楽しい作品だった。本作もそういうトリビアルな楽しみがある。

CIAがイギリスの文芸誌『エンカウンター』に資金提供していたり、イギリス外務省情報局がジョージ・オーウェルの『動物農場』【Amazon】や『一九八四年』【Amazon】を世界に広めるために工作していたり、冷戦期の反共活動を知れたのも収穫だった。これを日本にたとえると、自民党産経新聞の普及に協力したり、中国共産党しんぶん赤旗に資金提供したりするようなものだろう。ジェイムズ・ボンドみたいな切った張ったの冒険活劇も面白いけれど、こういう文化を利用した情報戦もなかなか興味深いものがある。プロパガンダは何も戦時中には限らないということか。

ところで、上の引用文ではセリーナが小説に求めていることが明快に示されている。これを読んで、自分は小説に何を求めているのかと考え込んでしまった。というのも、僕はセリーナみたいに自分の好みを具体的に言語化することができないのだ。大雑把に言えば、ある程度の芸術性があって、ある程度の娯楽性があって、ある程度の文章力があれば望ましい。このブログで高評価をつけているのがその代表例である。ただその反面、僕はジャンル小説やエンタメ、ラノベ*1なども好んで読むので、必ずしも前述の条件が絶対というわけでもない。結局、僕は小説に何を求めているのだろう? 思わぬところで本読みとしての根源的な問いを突きつけられたのだった。

*1:最近は『キノの旅』【Amazon】がお気に入り。

チャン・ジョンイル『コリアン・サラリーマンの秘密の生活』(1994)

★★

ソウルのナムソン・グループに勤めるサラリーマンの「彼」。「彼」は家と会社を往復する毎日を送りつつ、余暇には妻とレンタルビデオを見て過ごしていた。「彼」の妻は雑貨屋の長女であり、「彼」が学生だった頃、公衆便所*1として名を馳せている。「彼」は美人の妹に惚れていたものの、ある理由からブスの姉と結婚したのだった。退屈な日常を送っていたある日、妻の妊娠が判明する。

妊娠5ヵ月目に入ってから、妻は急にお腹がせり出し始めた。妻のお腹の膨れ方の突然さときたら。「それは何かの悪い病気じゃないのか?」と訊きたくなるほど異常に見えた。故に彼は、(妻のお腹の子供は双子かもしれないな)と考えたりしたが、"妻は双子を産むかもしれない"との想像は彼をゾッとさせた。なぜなら、彼は絶対に妻を妊娠させることがないように、自分の体の一部を人為的に性的不能状態にしておいたからだ。その理由たるや、"彼は妻を愛していない"からだが、それ以上に大きな理由は"妻よりも義妹を愛している"からだ。(pp.190-191)

80年代くらいによくあったトリッキーな小説。のっけから「本作には、作者の手による意図的な齟齬やストーリーの混乱があります。読者の皆様におかれましては、決して誤訳・誤字・校正ミスではない旨お含み置きください。」という訳者による注意書きが掲載されている。実際この小説には所々に齟齬があって、十二型テレビがすぐ次の文章では十四型テレビになっていたり、時刻がいつの間にか巻き戻っていたり、妻の妊娠が二ヵ月目なのか三ヵ月目なのか分からなくなっていたりする。一人称の語りだったらこういう表記の揺らぎがあっても不自然ではないけど、この小説は三人称の語りなので何とも奇妙な感じだ。しかも、終盤に入ってからこの傾向はエスカレートしていて、妻の実家が雑貨屋から旅館に変わっていたり、中小企業のナムソン・グループが韓国屈指の財閥になっていたりする。ここまで来ると幻想の世界に片足を突っ込んでいるような感じ。小説内のアイデンティティが思いっきり揺らいでいる。面白いのは、妻の身長・体重・スリーサイズが場面場面で違う数字になっているのに、顔が不細工なところは全く変わらないところだ。どんだけ妻がブスなのを強調したいんだよ、と思ってつい笑ってしまう。

『LIES/嘘』同様、この小説にも『ロリータ』【Amazon】からの引用が見られる。『ロリータ』のハンバート・ハンバートがロリータを傍らに置くためにその母親と結婚するように、本作の「彼」も、美人の妹と繋がりを持つためにその姉と結婚している。「愛する人と同居できないからには、愛する人の親戚と結婚し、愛する人のそばで永遠にとどまろうじゃないか!」(p.149)という決意はなかなか見上げたものだ。しかも、結婚相手がブスの公衆便所なのだから感慨も一入である。「彼」の妻は性格にも問題があって、勝手に実家に送金するわ、大型テレビやベッドを衝動買いするわ、「彼」が帰省するのを禁止するわ*2、読んでいてこいつはたまらんと思った。まったく酷い貧乏くじである。

本作は前衛小説が好きな人向けだろう。韓国のサラリーマンの実態が垣間見える*3ところもアピールポイントだと思う。ただ、若い頃はこういう小説が新鮮に感じられてそこそこはまったけれど、今読むと退屈に感じてしまう。これは読者として成長したのか、それとも退化したのか。いずれにせよ、歳はとりたくないものだと思った。

*1:学生たちを片っ端かラブホテルに連れ込み、その童貞を奪っている。「彼」もお世話になった。

*2:挙句の果てには、妻の親族に尽くすよう命令している。

*3:やたらと飲み会をやりたがる上司がいる、大卒の女性社員が男どもにお茶汲みをしている。一昔前の日本と同じだ。

グレアム・グリーン『キャプテンと敵』(1988)

キャプテンと敵

キャプテンと敵

 

★★★

寄宿学校で学ぶ12歳の少年ヴィクター・バクスター。彼の元にキャプテン*1と称する男がやってくる。キャプテンはヴィクターの父とバックギャモンで賭けをして、その息子を引き取ることにしたのだった。ヴィクターはキャプテンに着いていき、ジムと改名してキャプテンの恋人ライザと暮らすことになる。キャプテンには色々と秘密があった。

ぼくはそこで、あの禁じられた言葉を口にした。「彼は、あんたを愛しているのかしら?」

「問題は、その"愛"よ。世間の人たちは、神さまはあたしたちを愛すると言うけれど、あれが"愛"というものなら、あたしはむしろ、ほんの少しでもいいから、親切に、優しくしてもらえるほうを採るわ」(p.110)

スパイ小説みたいなプロットを用いながら、「愛」について物語っている。こう書くと陳腐な三文小説だと思われそうだけど、後から振り返って要約してみるとそう言うしかないのだ。読んでいる間は謎めいていて、なかなか掴みどころがなかったりするのだけど。

語り手のヴィクターは実の父親からは愛されてないし、母親は早くに亡くしているし、過保護の伯母からは一方的に構われている。つまり、肉親の愛情を知らずに育っていた。ヴィクターの父親は悪魔(デヴィル)と呼ばれていて、ライザが自分の子供を産むことに反対し、堕胎させて彼女を妊娠不能な体にしている(これぞ悪魔的な所業!)。当然、ヴィクターも望んで生まれた子供ではない。一方、キャプテンは『キングコング』【Amazon】に女への一途な愛を見てとって目に涙をためるような男である。ヴィクターとキャプテンとライザの疑似家族関係はとても奇妙ではあるけれど、そこには3人にとっての居場所が出来上がっていて、家族とはこういう薄っすらとした共同体がちょうどいいのではないかと思わせる。つまり、付かず離れずといった感じだ。強い重力で引きつけ合うのではなく、それぞれ弱い磁力で結びついているというか。終盤でキャプテンがライザのことをどう思っていたのか、その苛烈な行動で分かるところはなかなか胸熱だった。

本作には叙述上の些細な仕掛けがあって、キングコングを何かの暗号だと解釈しているのが何とも滑稽だった。まさかあの巨大生物が最初から最後まで重要な役割を担っているとは……。それはともかく、舞台がパナマに移る第三部からは物語のトーンが一変して困惑したけれど、キャプテンが何をして金を得ているのかじわじわと明かしてくところはそれなりにスリリングだった。もう少し前半との噛み合わせが良ければなお良かったと思う。読んでいてバランスの悪さが気になった。

*1:船長ではなく大尉の意。