海外文学読書録

書評と感想

G・K・チェスタトン『木曜日だった男』(1908)

★★★

詩人のルシアン・グレゴリーは無政府主義者だった。彼は同じく詩人のガブリエル・サイムと議論をかわし、ひょんなことからサイムを無政府主義中央評議会に連れていくことになる。その組織は日曜日と呼ばれる男が君臨する秘密結社だった。グレゴリーは欠けた木曜日の後釜に座る予定だったが、代わりにサイムが立候補して選任されてしまう。実はサイムには秘密があって……。

「芸術家とは、すなわち無政府主義者のことさ。この二つの単語はいつだって入れ替え可能だ。無政府主義者は芸術家だ。爆弾を投げる人間は芸術家だ。なぜなら、彼は偉大なる一瞬をいかなるものよりも尊ぶからだ。まばゆい光の一閃、非の打ちどころない轟音の一鳴りは、不格好な警察官二、三人の凡庸な肉体よりもはるかに価値があることを知っている。芸術家はあらゆる政府を無視し、あらゆる因襲を撤廃する。詩人が喜ぶのは混乱だけだ。もしそうじゃないというなら、この世で一番詩的なものは地下鉄道だってことになるだろう」(pp.18-9)

こんな昔からスパイ小説のパロディみたいな小説があったとは驚いた。思えば、著者が冒頭で詩を捧げているE・C・ベントリーも、『トレント最後の事件』【Amazon】という探偵小説のアンチテーゼみたいな小説を発表していたのだった。本作は物語の性質上、極めて早い段階で先の展開が読めてしまう。けれども、作中で開陳される逆説に次ぐ逆説の論理が面白いし、終盤の混沌は物語をまた別のステージに押し上げていて、日曜日をめぐる神学的・存在論的な位置づけを探るやりとりがなかなか興味深い。神、あるいはそれに近い存在というのは清濁併せ呑んだもので、後ろからだと獣に見えるのに前からだと神に見えるという矛盾を孕んでいる。聖書だと神は人間に対して時々無茶な要求をするうえ、その意図は人間には計り知れないものがあるけれど、この世の理不尽を神という概念を経由して受け入れるのが一神教の要諦なのだろう。ドストエフスキーの時代には既に神が死んでいて、そこを人間がどうあがいて生きていくのかというのがテーマとしてあった。本作はその時代の延長線上にあるような気がする。無政府主義者の集まりはまるで『悪霊』【Amazon】のようだし、そのなかで日曜日はスタヴローギン的なポジションにいる(と言っても、日曜日は悪ふざけをするだけである)。神と悪魔は紙一重であり、信仰と無神論紙一重。宗教には大いなる逆説が潜んでいる。

貧しい者は国と命運を共にしているから無政府主義者にならないのに対し、金持ちは統治されることを嫌うから無政府主義者になるという論理は面白かった。貧乏人は下手な統治をされるのには反対するけど、統治そのものは必要としている。統治によって形成された秩序が生きていく手段を用意してくれるから。すなわち、労働者という合法的な奴隷である。一方、金持ちはどこに行っても生きていけるし、政府に税金をたんまりふんだくられるのは嫌だろう。これって現代にも応用可能な論理ではないかと思った。億万長者がタックス・ヘイヴンに国籍を移すのって、現代における無政府主義的な行動と言えそう。