海外文学読書録

書評と感想

老舎『四世同堂』(1944-1946)

★★★

盧溝橋事件によって戦争が勃発、北平が日本軍に占領される。教師の祁端宣は四世代同居の「四世同堂」の生活を送っていたが、弟の端全が城外に脱出して抗日戦に身を投じたことで、己の身の振り方について葛藤する。一方、詩人の銭黙吟は日本の憲兵に捕まって手酷い拷問を受けた。そんななか、冠暁荷、藍東陽、祁端豊は日本人に取り入って漢奸となり、冠の妻であるカラス瓜は売春婦の元締めになる。

「君はこわがらなくていい、わしは詩人で、腕力は使えない! わしが来たのは、君に会うためでもあり、君にわしを見せたいからでもある。わしはまだ死なない! 日本人は人を打つのがとてもうまい。が、彼らはわしの身体をこわし、わしの骨を折っても、心を打ちなおすことは出来なかった! わしの心は永遠に中国人の心だ! 君は? わしは君にききたい、君の心はどの国のかね? どうか答えてくれ!」(上 p.197)

長かった。2段組みで1300頁もある。抗日戦争が題材ということで、戦場での日々が描かれるのかと思ったら、舞台は小羊圏という横丁に終始していて、日本に占領されていることを除けばいつもの中国文学だった。横丁に住む庶民の生活、彼らの人間関係に焦点を当てている。占領下での身の処し方がそれぞれ違っていて、大多数の人は日本人を憎んでその禄を食まないようにしていた。その一方、少数の漢奸が日本人に取り入って富と地位を手に入れようとしている。たくましいというか何というか、さすがに「勝ち馬に乗れ」がモットーの僕でもこれにはどん引き。もし自分の住んでいる地域が外国に占領されたらどうすべきか、ちょっと考え込んでしまった。命が惜しいから進んで抵抗することはないだろうし、かと言って協力するのも癪だから相手に取り入るようなことはしたくない。静かに怒りの炎を燃やしながら災厄が去るのを待つことになるだろう。小羊圏の人たちも概ねそんな感じで生活しており、漢奸たちとの摩擦がドラマを面白くしている。

先の戦争については、原爆の投下や本土の空襲によって日本人は自分たちを被害者と位置づけがちだが、実はアジアに対して加害者だったことは明白なので、そのことは忘れてはいけないと思った。ここ数年、日本では「ニッポンすごい!」という軽薄なテレビ番組が流行しており、グローバル化によって自信を無くした負け犬たちの熱狂的な支持を受けている。そういう人たちにとって本作はいい解毒剤になるだろう。日本人が中国でどれだけ非道なことをし、また現地の人たちからどういう目で見られていたのか。本作はあくまで文学であって記録ではないとはいえ、僕にとっては日本を見つめ直すいい機会になった。自分たちに都合の悪い過去を切断して「ニッポンすごい!」と悦に入るのは、さすがに馬鹿っぽいと言わざるを得ない。

本作は庶民の生活を描いたいつもの中国文学ではあるが、『進撃の巨人』みたいに役目を終えたキャラを容赦なく殺していくので、その辺はやっぱり戦時下が舞台なのだと思った。漢奸たちの栄華も日本人次第なところがあって、いくら特権を得て我が世の春を謳歌しても、財産を没収されたり投獄されたりして一瞬のうちにすべてを失ってしまう。こうなると、どう身を処すのが正解なのか分からなくなってくる。それと、支配された側の命は羽毛のように軽い。ある人物は無実であるにもかかわらず、日本人のメンツのために拷問を受けて首を斬られてしまう。また、ある2人組はお上から支給された粗末な食べ物で腹を壊して病院に行くも、日本兵に郊外まで連れて行かれて生き埋めにされてしまう。外国に支配されるとはこういうことなのだとぞっとした。

ヘラ・S・ハーセ『ウールフ、黒い湖』(1948)

★★★

オランダ領東インド(現インドネシア)。白人の少年「ぼく」は、同い年の原住民ウールフと身分を超えて仲良く遊んでいた。「ぼく」の父は農園の支配人であり、ウールフの父はそこの苦力頭である。ある日、家族みんなでタラガ・ヒドゥン(黒い湖)へ遊びに行くことに。そこでウールフの父が、溺れた「ぼく」を助けて死んでしまった。その後、「ぼく」とウールフは別々の学校に通うことになり……。

ウールフはぼくの友だちだった。おおよそ生まれてこのかたそばにいて、ぼくという生のあらゆる局面、あらゆる思考や体験を共有してきた、唯一の生きた存在なのだ。そして、それだけではない。ウールフはそれ以上なのだ。――そのときのぼくはうまく言葉にできなかったが――、ウールフとは、クボン・ジャティでの、またその周辺での生活そのものであり、山の探検、庭や河原の石の上での遊び、汽車の旅、通学であり……つまり、ぼくの子どもの暮らしの原点なのだ。(pp.65-6)

『インドへの道』は植民地における支配者と被支配者の関係を、あの当時にしてはなかなか好ましい距離感で小説にしていた。それに対して本作は、時代が時代なのでこう書くしかないという感じだった。出版されたのがちょうどインドネシア独立戦争の最中だから。植民地小説としてはどうしてもまっとうにならざるを得ない。

子供時代の「ぼく」とウールフは階級や人種を超えて友情を育むも、当時の世情で同じ学校には通えず、別々の道へ進みながらもなお友好的に接していた。周囲の大人も意外とリベラルで、「ウールフはぼくらより劣っているの?」という問いに対し、ある人物は「豹はサルとは違う」という微妙な比喩を交えつつ、肌の色や父親がどうだかによって優劣は決まらないと答えている。なかなかやさしい世界観ではないかと感心しながらも、他の原住民がウールフに嫌味を言っていたり、「ぼく」の父親が原住民化する「ぼく」を憂いたりしていて一筋縄ではいかない。決定的なのがウールフに民族的自我が芽生えるところで、「ぼく」との蜜月はそこで断ち切られてしまう。結局、階級が違うとどうしても利害関係にズレが生じてしまうし、それが支配層と被支配層では尚更なのだろう。現代日本にも同様のことはあって、ネット上でウヨクとサヨクがしょうもない小競り合いをして時間を無駄にしている。比較的均質化している社会でもこれなのだから、植民地のことは推して知るべしである。

本作を読んで、幼馴染と分かり合えないのは悲しいことだと思いつつも、ふと我が身を振り返ってみると、自分も「ぼく」と同じような立場になっていて、これはわりとよくあることなのだと納得した。よく遊んだ幼馴染は中学生になると典型的なDQNになってしまい、完全に交流が断たれたから……。どんなに仲が良くても時間が経つとみんな遠くへ行ってしまう。人生とはそういうものだ。

ウィリアム・シェイクスピア『アテネのタイモン』(1606-1607?)

★★★

アテネの貴族タイモンは莫大な財産を所持しており、それを周囲の人々に惜しみなく与えていた。ところが、実は財政が破綻していたことが判明、金貸しが借金の取り立てにやってくる。タイモンは友人たちに援助を求めるも、すべて拒否されてしまう。彼は宿無しになってアテネの壁外で呪いの言葉を吐くのだった。

アルシバイアディーズ 気高いタイモンがどうしてこうも変わってしまったのか?

タイモン 月と同じだ、与える光がなくなって変わったのだ、

もっとも俺は、月のようにまた満ちることはできない、

俺には光を貸してくれる太陽がないからな。(pp.125-6)

トマス・ミドルトンとの合作らしい。

金を持っているときは人が集まってきてちやほやされるのに、なくなると一転して見向きもされなくなるというのは、現代でもよく聞く話なので、これは社会の普遍的法則と言ってもいいのかもしれない。日本だと芸能人とかIT企業の社長とか、浮き沈みの激しい業界の人が身をもって感じていると思う。かつてホリエモン(堀江貴文)が、「お金があれば、愛も、幸福も、何でも買える」と言っていたが、たとえば友情みたいな大切なものはいくら金をつぎ込んでも買うことはできない。金持ちに寄ってくるのは上辺だけ取り繕って追従してくる乞食くらいのもので、彼らは他人の財布から金を掠め取ることしか考えていない盗人である。他人と真に心を通わせたいなら誠実に尽くすしかない。それは金のあるなしではどうにもならない倫理の問題である。

その点で言えば、ひねくれ者の哲学者アペマンタスは、タイモンと友情の可能性を感じさせる人物であった。というのも、彼はモブの貴族に「あいつは人類全体を敵視している」と言わしめるほどの毒舌家で、金持ちのタイモンにも媚びるような真似は一切しない。宴会にやってきたときなんか、「よく来てくれた。」と歓迎するタイモンに対し、「よく来たとは言わせない――あんたは俺を叩き出す、そうさせるために俺は来たんだ。」と返している。一見すると狂人のように見えて、実は一番まともなのが彼だ。アペマンタスは、タイモンの宴会に参加している人たちが金目当てで寄ってきていることを見抜いており、そのことを独特の皮肉な言い回しで警告している。

人間嫌いになったタイモンは、荒野で人類を呪う長広舌を振るっていて、いくら何でも人格変わりすぎだろと思った。しかし、そんな彼に対してアペマンタスは以前と変わらず接しており、本当に信頼できる人間は絶頂期に耳の痛いことを言ってくるのである。だからヨーロッパの国王は道化師を飼っていたのだろう。慢心しないために、自分に警告を与えるために。つまり、アペマンタスはタイモンにとっての道化師だったのだ。アペマンタスは架空の人物のようだが、こういうひねくれ者は古代ギリシャに実際にいそうで何だかわくわくしてしまう。

キルメン・ウリベ『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』(2008)

★★★

「僕」ことキルメン・ウリベは、ニューヨークの大学で講演するため、バスク地方の都市ビルバオから飛行機で旅をする。彼は創作のための情報収集をしていた。画家のアウレリオ・アルテタや建築家のリカルド・バスティタ、漁師をしていた自分の家族のことなど、断片的に物語っていく。

記憶の働きというのは不思議なものだ。僕ら自身の思い出し方によって、かつては現実だと思われていたことがフィクションへと変貌してしまう。少なくとも、そうしたことが家族のあいだでは起こる。僕らより先立っていった人々のことを記憶に留めるために、彼らの物語が語り伝えられ、そうした逸話のおかげで彼らがどんな人物だったのかを知ることができる。そして、そのなかで割り振られた役柄にしたがって、人は記憶されるのだ。(p.43)

著者のデビュー作。原書はバスク語で書かれている。

オートフィクションと私小説の違いがよく分からないが、ともあれ創作で一番楽しいのは自分の人生を捏造することではないかと思った。作中で自分の周りの人々を書くとか、作り話は書かないとか宣言しておいて、しれっと嘘を書いていく。結局、小説に書かれているエピソードが事実かどうかなんて読者には分からないし、もっと言えばどうでもいいことなのである。この辺については子供の頃、『魁!!男塾』【Amazon】の民明書房*1に騙されたことを思い出す。作中に参考文献としてたびたびその出版社の本が引用されるのだが、実はそんな出版社なんて端から存在しなかったという。作者は「ウソか本当か微妙な境目がミソ」と語っていたそうで、少年時代の僕はそのもっともらしい嘘を信じて胸を高鳴らせていたのだった。真実を知ったのは大学に入ってからだと思う。そういうわけで、自伝的小説の体裁をとった本作についても、事実かどうかというのはあまり気にしていなくて、父親についても祖父についても、たまたま飛行機で隣り合った乗客についても、もしすべてが作者の空想だったらそれはそれで痛快だと思った。何だかひねくれた読み方だが……。

語り手が創作についてあれこれ模索する様子が読んでいてとても楽しい。たとえば、56ページでは小説の書き出しについて、カーソン・マッカラーズやシルヴィア・プラスの作品を引用して、自分ならどうするかというのを考えている。そこで生み出された書き出しはボツになったが、後になって本作で採用された書き出しはとても振るっていて、今年読んだ小説のなかでもっとも印象に残るものになっていた。読者の意表を突くぶっ飛んだ書き出しだと思う。個人的には『ロリータ』【Amazon】や『叶えられた祈り』【Amazon】に匹敵する名文だった。小説は書き出しが良ければ最後まですらすら読ませてしまう。そういう不思議な力がある。

*1:調べたら『民明書房大全』【Amazon】という本が出版されていた。

イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』(1982)

★★★★★

デル・バージェ家の末娘クラーラは、念力や予知能力といった超能力を持っていた。彼女は家族の死を予言し、その結果、姉のローサが毒を飲んで死んでしまう。自責の念にかられたクラーラは9年間の沈黙の後、ローサの婚約者だったエステーバン・トゥルエバと結婚する。エステーバンは荒廃した農場を再興して金持ちになっていた。やがてクラーラは3人の子供を産む。

「金ならあり余るほどあったのに、どうしてあんな暮らしをしていたんだろう」と彼は大声で言った。

「それ以外のものがなにひとつなかったからですわ」とクラーラが穏やかな口調で言葉を返した。(p.206)

ハードカバーで読んだ。引用もそこから。

百年の孤独』【Amazon】のような複数世代にわたるファミリー・サーガ。こちらも読み物として充実した内容だった。こういう理屈抜きで楽しめる小説ってなかなかないと思う。読み味としてはサルマン・ラシュディに近いだろうか(ガルシア=マルケスではなく)。思うに、日本文学では快楽を得られなくなった人が海外文学を主食にしているのだろうけど、本作はそういう人を満足させる小説だと言える。スケールが大きく、適度に娯楽性を備え、その土地ならではの土俗的な雰囲気が味わえる。本作では一族の100年近い歴史を追っているが、序盤に頻出したマジックリアリズムがある人物の死を契機に後退し、リアリズム一色に染まるところが鮮烈だった。ここから一族は酷い目に遭うし、政治というものが否応なくつきまとってくる。本作では後の展開を予告するような文章が挿入されるから、一族がどうなるのかある程度目星がつくようになっている。

登場人物ではエステーバン・トゥルエバが強烈だった。彼は実にいけ好かない保守的な地主親父で、自分のおかげで小作人たちはまともな暮らしができていると自負し、彼らの娘を片っ端から手篭めにしている。そして、何人も私生児が生まれている。他にも婦人参政権には反対しているし、共産主義者のことを目の敵にして私刑にしているし、その言動はアメリカのプロテスタント、日本の田舎親父、あるいは中小企業の経営者を連想させる。昔はこういう親父がよくいたなあという感じ。カッとなるとすぐに暴力を振るうところも昔気質だ。で、そんな了見の狭い人物が、遂には国会議員にまでなってしまうのだから恐ろしい。彼は保守派の重鎮にまで上り詰めている。面白いのは、彼の家族はみんな寛容な思想を持っていて、慈善事業に励んだり、共産主義の運動家を助けたりしているところだ。この辺は母方の血を受け継いでいて、家族の中でエステーバンだけが浮いている。

終盤で政治が荒れ狂うところはいかにもラテンアメリカで、こうなるとマジックリアリズムの出てくる余地は微塵もない。一族に降りかかる不幸を読むと、エステーバン・トゥルエバの横暴な振る舞いが可愛く見えてしまう。マジックが当たり前の世界から、避け難いリアリズムの世界へ。読み終わってみると、随分と遠くまで連れて行かれたものだと感慨深くなった。本作はストーリーテリングが世界トップクラスと言えるほど卓越しているので、日本の小説に物足りなさを感じる人にお勧めである。