海外文学読書録

書評と感想

ヘラ・S・ハーセ『ウールフ、黒い湖』(1948)

★★★

オランダ領東インド(現インドネシア)。白人の少年「ぼく」は、同い年の原住民ウールフと身分を超えて仲良く遊んでいた。「ぼく」の父は農園の支配人であり、ウールフの父はそこの苦力頭である。ある日、家族みんなでタラガ・ヒドゥン(黒い湖)へ遊びに行くことに。そこでウールフの父が、溺れた「ぼく」を助けて死んでしまった。その後、「ぼく」とウールフは別々の学校に通うことになり……。

ウールフはぼくの友だちだった。おおよそ生まれてこのかたそばにいて、ぼくという生のあらゆる局面、あらゆる思考や体験を共有してきた、唯一の生きた存在なのだ。そして、それだけではない。ウールフはそれ以上なのだ。――そのときのぼくはうまく言葉にできなかったが――、ウールフとは、クボン・ジャティでの、またその周辺での生活そのものであり、山の探検、庭や河原の石の上での遊び、汽車の旅、通学であり……つまり、ぼくの子どもの暮らしの原点なのだ。(pp.65-6)

『インドへの道』は植民地における支配者と被支配者の関係を、あの当時にしてはなかなか好ましい距離感で小説にしていた。それに対して本作は、時代が時代なのでこう書くしかないという感じだった。出版されたのがちょうどインドネシア独立戦争の最中だから。植民地小説としてはどうしてもまっとうにならざるを得ない。

子供時代の「ぼく」とウールフは階級や人種を超えて友情を育むも、当時の世情で同じ学校には通えず、別々の道へ進みながらもなお友好的に接していた。周囲の大人も意外とリベラルで、「ウールフはぼくらより劣っているの?」という問いに対し、ある人物は「豹はサルとは違う」という微妙な比喩を交えつつ、肌の色や父親がどうだかによって優劣は決まらないと答えている。なかなかやさしい世界観ではないかと感心しながらも、他の原住民がウールフに嫌味を言っていたり、「ぼく」の父親が原住民化する「ぼく」を憂いたりしていて一筋縄ではいかない。決定的なのがウールフに民族的自我が芽生えるところで、「ぼく」との蜜月はそこで断ち切られてしまう。結局、階級が違うとどうしても利害関係にズレが生じてしまうし、それが支配層と被支配層では尚更なのだろう。現代日本にも同様のことはあって、ネット上でウヨクとサヨクがしょうもない小競り合いをして時間を無駄にしている。比較的均質化している社会でもこれなのだから、植民地のことは推して知るべしである。

本作を読んで、幼馴染と分かり合えないのは悲しいことだと思いつつも、ふと我が身を振り返ってみると、自分も「ぼく」と同じような立場になっていて、これはわりとよくあることなのだと納得した。よく遊んだ幼馴染は中学生になると典型的なDQNになってしまい、完全に交流が断たれたから……。どんなに仲が良くても時間が経つとみんな遠くへ行ってしまう。人生とはそういうものだ。