海外文学読書録

書評と感想

イアン・マキューアン『ソーラー』(2010)

★★★

ノーベル賞を受賞した科学者マイケル・ビアードは、これまで4回離婚し、現在の妻と結婚してからは11回浮気していた。その彼が様々なトラブルに見舞われつつ、同僚が残した新しい太陽光発電のアイディアを盗んで事業を立ち上げる。

人生のさまざまな苛立ちのなかのどれが不眠の原因になるかは、だれにも予測できない。日中の最適な条件の下でさえ、人はどんな問題について苛々するかを自由に選べるわけではないのだから。(p.236)

喜劇的な場面の描写がやたらと面白くて、「神は細部に宿る」という言葉がぴったりの小説だった。イアン・マキューアンっていつ頃からか緊密な細部を描くようになり、それが彼の売りになったと思う。特に昔読んだ『初夜』【Amazon】はすごかった。

主人公のマイケル・ビアードはノーベル物理学賞を受賞するほどの知性がありながら、女にだらしがなかったり、目先の利益に囚われたり、とにかく人間性が最低で面白いのだけど、それに輪をかけて面白いのが、彼に降りかかる数々の困難だったりする。北極でスノーモービルを運転していたら急に尿意をもよおし、上手く立ちションしたはいいものの、性器をジッパーに触れさせて凍りつかせてしまう。それだけに留まらず、すんでのところで白熊に襲われそうになる。妻の浮気相手のところに行ってそいつの脛を蹴ろうとしたら、逆に相手から平手打ちを食ってしまう。電車のなかでポテトチップスを食べていたら、相席の若者が無断で食べてきて一触即発の雰囲気になる(これは後に意外なオチがつく)。愛人から妊娠を告げられたとき、自分の精子オデュッセウスの冒険にたとえる――。小説というのはエピソードの積み重ね、ひいては言葉の積み重ねでできていることを強く意識させる内容だった。

本作は2010年の小説であるため、当然のことながら福島第一原発事故については触れられてない。もしこれが3.11後に書かれていたらどうなっていただろう、とつい空想してしまう。作中ではチェルノブイリには触れられていたから、原発が汚いエネルギーという認識は共有されている模様。大筋では変わらないにしても、脱原発の流れは確実にあるから、この業界も、そして主人公の身の振り方も、それなりに変化がありそうではある。どうせならイアン・マキューアンの筆によるポスト福島の状況を読んでみたかった。

ノーベル賞の科学者が出てくるところに言い知れぬ感興を催すのは、イアン・マキューアンノーベル文学賞の候補と目されているからだ。そこで読者はニヤリとしてしまう。この主人公は作者のオルターエゴであると同時に、作者はそう見られるのを意識しているな、と。これもまた世界文学の楽しみ方のひとつではなかろうか。

マーティン・エイミス『時の矢』(1991)

★★

アメリカ。「私」ことトード・フレンドリーは医師に囲まれ蘇生処置を受けている。ここから「私」は時間を逆回しにしてトードの人生を語っていく。彼は一見すると腕のいい普通の外科医だったが、実は何度も名前を変えていて……。

クレディターは興味を示したようだった。「それは私たちの利点になるでしょう」

「私の第一言語ですから」

「そうそう、その通り、覚えていますよ。あなたは訛りのない言葉を話しますね」

ふたりの男は立ち上がり、握手した。ジョンは言った。

「ほんとうのことを言いましょう。昨日のほうがよかったですね」

「今日は調子はいかがです、ドクター?」

「こんにちは、牧師さま」

「やあ、ドクター」(p.102)

木原善彦『実験する小説たち』【Amazon】で紹介されていたので読んだ。

冒頭に終幕的場面を置いてそこから回想していく小説というのは巷に溢れているけれど、本作みたいに徹底して逆回しに時間を遡っていく小説は初めて読んだかもしれない。トード・フレンドリーはただの好色の爺さんかと思ったら、実はアウシュビッツにまで繋がる業の深い人物で、戦後生まれの作家がナチスの犯罪を題材にするためには、ここまで面倒な語りの様式をとらないといけないのか、と驚いたのだった。語り手の「私」と主人公は同一人物なのになぜか視点が解離しているし、引用文のように会話の場面では逆から読まないと意味が通らないようになっているし、逆語りならではの挑戦的な趣向が目を惹く。個人的には読んでいて苦痛だったので評価は低いけれど、話の種に一度は目を通しておいてもいいと思う。小説には様々な手法があり、幅広い可能性がある。そんなことを感じさせる作品だった。

本作を読むと、つくづく小説とは時間芸術なのだということを思い知らされる。もちろん時間芸術とは小説だけの特権ではない。映画や音楽など、時の不可逆性に囚われた芸術はいくらでも存在する。なぜそういう状況になっているのかと言えば、我々が絶え間なき時の流れに身を置いているからで、少なくともこの地球上では過去から未来へ時間が動いているがゆえに成立している。この記事を書いている現在でも時間は刻一刻と過ぎているのだった。本作はそういった物理法則を逆手にとったところが新しく、発想の素晴らしさを認めることは吝かではない。こういう尖った小説が文学史上に存在するのも愉快である。

追記。2020年公開の映画『TENET テネット』【Amazon】が本作と似たような手法を用いているらしい。

ヒラリー・マンテル『罪人を召し出せ』(2012)

★★★★

1535年秋。イングランドヘンリー8世アン・ブーリンと再婚するも、彼女が妊娠している間に女官のジェーン・シーモアに愛情を抱くようになる。そんななか、秘書官のトマス・クロムウェルアン・ブーリンの不興を買い……。

「もしも息子を持つことができなければ、一国の王にそれができなければ、他になにができようとも、意味はない。勝利も、戦利品も、王の作る法律も、王が保持する名高い宮廷も、価値がない」(p.279)

ブッカー賞受賞作。

『ウルフ・ホール』の続編。

ようやくこのシリーズの面白さが分かってきた。今回は王妃アン・ブーリンの処刑までを扱っている。事前にWikipediaで関係人物の予習をしておくと、この複雑怪奇な事件を作者がどのように再構成したのか分かって興味深い。一人の軽率な若者の放言で芋づる式に男女が逮捕・処刑されるなんて、まさに「口は災いの元」を地で行っている。これまでいい人っぽく描かれていたトマス・クロムウェルが、積極的にアン・ブーリンたちを破滅に追い込むところも意外で、彼が囚人たちをひとりひとり訊問していくところは本作最大の読みどころだろう。結局、王妃は彼らと不倫したのか? というのが事件の焦点だけど、これを読んでも真相は藪の中という感じでいまいちすっきりしない。国王をはじめとした各々の思惑がぴったり一致して、事態は収まるべきところに収まっている。この時代の権力闘争は殺るか殺られるかであり、トマス・クロムウェルはその力学に沿った行動をとったということなのだ。とりあえず、彼はろくな死に方をしないと断言できる(実際、彼も最終巻で処刑される予定)。

前作・本作ともに国王の結婚問題が大きな柱になっていて、そのすべては男児が生まれないことに端を発している。なぜかというと、ヘンリー8世は男子を後継者にしたがっているから。この問題、数年前の日本でもあったので何となく既視感がある。すなわち、天皇家の後継者問題だ。いつの時代も、そしてどこの国でも、王室とは同じ問題を抱えているものだと妙に感心したのだった。王の気まぐれで死人が出ないだけ現代のほうがマシだろうか。何せ、本作の時代は王の死を想像しただけで死罪に処されるくらいだから……。

J・M・クッツェー『鉄の時代』(1990)

★★★★

アパルトヘイト時代末期のケープタウン。老女の「わたし」はガンが骨まで転移していた。彼女はひょんなことから付近にいたホームレスの男を居候させることになる。さらには、使用人の子供の友達まで受け入れることになった。その友達は、警官によって重傷を負わされる。

鉄の子どもたちか。フローレンス自身も、鉄と似ていなくもない。鉄の時代。そのあとから、青銅の時代がやってくる。どれほどの時間が、周期的に柔和な時代がもどってくるまでに、いったいどれほどの時間がかかるのだろう――粘土の時代が、土の時代がもどってくるまでに。(p.59)

河出書房新社の世界文学全集で読んだ。引用もそこから。

南アフリカ時代のクッツェーはいいなあ、というのが率直な感想。オーストラリアに移住してからの作品も悪くないのだけど、それでも南アフリカ時代ほど際立っていない。やはり抑圧された社会のほうが、研ぎ澄まされた作品を生み出しやすいのだろう。本作は昔のクッツェーにしては珍しく現実の世界を舞台にしていて、当時のケープタウンディストピアぶりがひしひしと伝わってくる。迫害された黒人は武装して組織を作り、白人が武力でそれを鎮圧する。移民排斥を掲げるトランプ政権が目指しているのも、こういう社会なのだろうと思うのだった。

登場人物が圧倒的な他者であるところがクッツェーらしかった。語り手の「わたし」は白人で、周囲にいるのはだいたい黒人である*1。人種の壁のせいか、とにかく彼らの大半と話が通じない*2。「わたし」が理屈をこねて説得しても、それは一方的な言葉としてたいてい沈黙の壁に突き当たる。口論も起きないのでコミュニケーションの余地がない。では同じ白人なら話が通じるのかと思えばそうでもなく、警官たちは「わたし」に対して慇懃な態度をとりながらも、その意に反して黒人を酷い目に遭わせている。最終的にはホームレスと打ち解けるとはいえ、人間というのはここまで分かり合えないものなのか、と嘆いたのだった。

本作は時代の緊張感を写し取っていることも去ることながら、老女である「わたし」の内面に寄り添った心理小説としても優れていて、むしろ読みどころはそちらのほうにあるだろう。正義感が空回りしているところが鬱陶しいものの、だからこそリアルというか、そこに一人の血の通った人間がいるという感じがする。「わたし」が昔ラテン語を教えていたインテリで、状況に心をかき乱されながらも、その思索がどこか哲学的なところもいい。肉体には例によってスティグマが刻まれていて(ガンが骨まで転移している)、いかにもクッツェーらしい特徴を備えている。

1980年の『夷狄を待ちながら』【Amazon】から1999年の『恥辱』【Amazon】までの約20年間がクッツェーの全盛期だろう。本作も読めて良かった。

*1:といっても、人種の区別を明確に示していないので、誰がどの人種であるかは読み手の想像による。

*2:教師と思しき黒人とは話が通じている。ただし、友好的ではない。

オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(1932)

★★★

フォード紀元632年。世界では人間が工場で生産され、赤ん坊の頃から階級が固定していた。支配階級のバーナードは、生まれつきのコンプレックスから周囲とは浮いた行動をとっている。ある日、彼は野蛮人の居住区へ旅行し、文明人を両親に持ちながら野蛮人と暮らすジョンと出会うのだった。

「僕はいつも独りぼっちでした」とジョンは言った。

その言葉はバーナードの胸に悲しい共鳴を生んだ。いつも独りぼっち……。「僕もそうだよ」と思わず真情を吐露した。「ものすごく独りぼっちだ」(p.196)

エヴゲーニイ・ザミャーチン『われら』(1920-1921)【Amazon】、ジョージ・オーウェル『一九八四年』(1949)【Amazon】と並ぶ三大ディストピア小説の一つ。実のところ、『われら』も『一九八四年』も大昔に読んだので内容を覚えていない。ただ、この2作が共産主義から多大な影響を受けたのに対し、本作はそれとは別の大量消費社会から想を得ているのが興味深かった。作中の文明人たちは自動車王のヘンリー・フォードを神として崇めているのである。ただその一方で、登場人物にレーニンマルクスといった社会主義者の名前をつけているので、ソ連からの影響がまったくなかったわけではないのだろう。いずれにせよ、他の2作とはだいぶ毛色が違っている。

『われら』と『一九八四年』は、全体主義が民衆を支配するとても息苦しい世界観だった。それに対して本作は、階層の固定化や条件づけ教育、芸術や歴史の否定といった問題があるにせよ、前2作よりはまだマシと言える状況になっている。もしこの3つの世界のどれかに住めと言われたら、僕は迷わず本作の世界を選ぶだろう。だってソーマと呼ばれる快楽薬はあるし、フリーセックスで性的には満たされるし、何より下層階級に生まれても条件づけ教育によって主観的には幸せそうだから。ディストピアのなかでは比較的生きやすい部類だと言える。

野蛮人のジョンにとって、自由と芸術と宗教を犠牲にしてできたこの世界は、愚者の楽園にしか見えない。彼はセリフの端々にシェイクスピアを引用し、キリスト教を臆面もなく信仰する原始人(=現代人)である。この辺がいかにも西洋的な価値観で、個人的には一部には賛同し、一部には賛同できないという感じだった。自由と芸術は必要だとして、宗教なんかは無用の長物ではなかろうか? というのも、宗教によって救われた人の数よりも宗教によって不幸になった人の数のほうが多いし、古来から争いの種にもなっている。優先される価値観の選別がいかにも古典だった。