海外文学読書録

書評と感想

J・M・クッツェー『鉄の時代』(1990)

★★★★

アパルトヘイト時代末期のケープタウン。老女の「わたし」はガンが骨まで転移していた。彼女はひょんなことから付近にいたホームレスの男を居候させることになる。さらには、使用人の子供の友達まで受け入れることになった。その友達は、警官によって重傷を負わされる。

鉄の子どもたちか。フローレンス自身も、鉄と似ていなくもない。鉄の時代。そのあとから、青銅の時代がやってくる。どれほどの時間が、周期的に柔和な時代がもどってくるまでに、いったいどれほどの時間がかかるのだろう――粘土の時代が、土の時代がもどってくるまでに。(p.59)

河出書房新社の世界文学全集で読んだ。引用もそこから。

南アフリカ時代のクッツェーはいいなあ、というのが率直な感想。オーストラリアに移住してからの作品も悪くないのだけど、それでも南アフリカ時代ほど際立っていない。やはり抑圧された社会のほうが、研ぎ澄まされた作品を生み出しやすいのだろう。本作は昔のクッツェーにしては珍しく現実の世界を舞台にしていて、当時のケープタウンディストピアぶりがひしひしと伝わってくる。迫害された黒人は武装して組織を作り、白人が武力でそれを鎮圧する。移民排斥を掲げるトランプ政権が目指しているのも、こういう社会なのだろうと思うのだった。

登場人物が圧倒的な他者であるところがクッツェーらしかった。語り手の「わたし」は白人で、周囲にいるのはだいたい黒人である*1。人種の壁のせいか、とにかく彼らの大半と話が通じない*2。「わたし」が理屈をこねて説得しても、それは一方的な言葉としてたいてい沈黙の壁に突き当たる。口論も起きないのでコミュニケーションの余地がない。では同じ白人なら話が通じるのかと思えばそうでもなく、警官たちは「わたし」に対して慇懃な態度をとりながらも、その意に反して黒人を酷い目に遭わせている。最終的にはホームレスと打ち解けるとはいえ、人間というのはここまで分かり合えないものなのか、と嘆いたのだった。

本作は時代の緊張感を写し取っていることも去ることながら、老女である「わたし」の内面に寄り添った心理小説としても優れていて、むしろ読みどころはそちらのほうにあるだろう。正義感が空回りしているところが鬱陶しいものの、だからこそリアルというか、そこに一人の血の通った人間がいるという感じがする。「わたし」が昔ラテン語を教えていたインテリで、状況に心をかき乱されながらも、その思索がどこか哲学的なところもいい。肉体には例によってスティグマが刻まれていて(ガンが骨まで転移している)、いかにもクッツェーらしい特徴を備えている。

1980年の『夷狄を待ちながら』【Amazon】から1999年の『恥辱』【Amazon】までの約20年間がクッツェーの全盛期だろう。本作も読めて良かった。

*1:といっても、人種の区別を明確に示していないので、誰がどの人種であるかは読み手の想像による。

*2:教師と思しき黒人とは話が通じている。ただし、友好的ではない。