海外文学読書録

書評と感想

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(1980)

★★★

語り手のハニチャは35年間、プラハの地下室で故紙や本を潰す仕事をしていた。具体的には、水圧プレスの緑と赤のボタンを押して紙を潰している。ハニチャは職場の本を読むことで心ならず教養が身についていた。彼はナチス政権と社会主義政権を跨いで生きており、その間マンチンカという女性やジプシーたちと関わっている。

そして今度は、僕がまた一人きりになり、孤独の中で仕事のメカニズムだけにはまって、肉蝿の紐に絶えず取り巻かれ鞭打たれていると、イエスウィンブルドンを制したばかりのテニスの優勝者に見え、一方、老子はすっかりおちぶれて、豊富な在庫があるのに何も持っていないように見える商人に似てきた。イエスのすべての暗号や象徴が持つ血まみれの肉体性が見え、一方、老子は経帷子を身にまとって、削っていない木の板を指しているのが見えた、イエスはプレイボーイで、一方、老子は分泌腺に見捨てられた独身老人であるのが見えた。イエスは命令するように手を上げて、力強い手振りで自分の敵たちを呪い、一方、老子は諦念の中で、折れた翼のように両腕を垂れているのが見えた。イエスロマン主義者で老子は古典主義者であり、イエスは上げ潮で老子は下げ潮であり、イエスは春のようで老子は冬のようであり、イエスは実効性のある隣人愛で老子は空虚さの頂点であり、イエスは未来への前進で老子は本源への回帰であるのが見えた……。(pp.57-58)

一つの章を一つの段落で語り切る大変密度の高い文章で、その記述は時に衒学的であり、時に幻想的でもある。本作はエピソードが断片的に散りばめられていて、特に一本筋が通った明確なストーリーはない。全体の長さは中編くらいだけど、文章が濃密で読み通すのにえらい骨が折れた。こういう前衛的な小説を読んだのは久しぶりのような気がする。

マンチンカのエピソードが面白かった。彼女はダンスホールの便所で自分の長いリボンと髪飾りを汚物まみれにしてハニチャと踊り、周囲に汚物を撒き散らして「クソまみれのマンチャ」とあだ名をつけられてしまう。その後、ハニチャと旅行したときには、片方のスキー靴の後ろに大きな糞をつけて歩くなんてこともする……。全体的に本作は暗いイメージなのだけど、こういうブラックユーモアを交えているところが何とも心憎い。マンチンカと縁が深い糞は、たくさんの鼠が生息する地下室とも呼応しているし。それと、冒頭で引用したイエス老子のエピソードも好きだ。ヨーロッパの小説でこの2人を同列に並べて語ったのって初めて読んだかもしれない。

20世紀に入ると、もう19世紀みたいな冒険はないんだなと思った。ハニチャは35年間、淡々と同じ仕事を繰り返しているわけで、つまり現代とはそういう時代なのだろう。生きるというのは長期にわたる労働の繰り返し。毎日自宅と職場を往復する。ハニチャは労働のなかにささやかな楽しみを見出しているけど、大抵の人にとって労働とは、この世に生まれ落ちたことに対する罰なのだと思う。それこそキリスト教でいう原罪を贖っているというか。サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言っていたけど、我々が選択できる自由なんて実はそんなにない。生まれた国、生まれた時代、生まれた家庭によって生き方は限定される。自分の意思で「生きる目的」を掴み取るなんて幻想ではないか。普通の人は毎日の労働で疲弊してそれどころではないのだ。人間は自由の刑ではなく、不自由の刑に処されている。

ネット上の感想を見ると、「カフカ的不条理」という言葉を用いて本作を説明している人が多かった。けれども、この言葉って人によって意味合いが違うというか、定義が曖昧なまま何となく使われていると思う。

僕にとって「カフカ的不条理」は、ミラン・クンデラが『小説の技法』【Amazon】で述べた次の文章がしっくりくる。

カフカ的な世界では、書類はプラトンイデアに似ている。書類が真の現実の代わりになる一方で、人間の身体的な存在は錯覚のスクリーンに映された映像にすぎなくなるのだ。じっさい、測量士Kもプラハの技師も彼らの整理カードの影でしかないのだが、じつはそれ以下のものである。彼らは書類上の間違いの影、つまり影として存在する権利さえもない影なのだから。(p.143)

卑近な例だと、公的機関で何らかの手続きをするときに「カフカ的不条理」を感じる。確定申告とか、運転免許の更新とか。小市民的で申し訳ないけど……。