海外文学読書録

書評と感想

J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』(2013)

★★★

初老の男シモンと5歳の少年ダビードは、移民船で知り合い行動を共にしていた。シモンはダビードの母親を探すために奔走する。移民受け入れセンターで住居と仕事をもらったシモンは、たまたま出会った見知らぬ女にダビードの母になってくれるよう頼み込む。

「なるほど、善意か。じつを言うと、ここではそれに始終出くわす。みんなわれわれの無事を願ってくれるし、進んで手助けもしてくれる。わたしもあの子も、間違いなく数多の善意に支えられて生きている。とはいえ、善意の中身はいまだに漠然としているんだ。はたして善意だけで人間は満足できるんだろうか? 人間の本質には、もっと形あるものを求める性があるんじゃないか?」(p.76)

登場人物に聖書関係の名前をつけたら高尚なものになる。そういう思い込みが西洋の作家にはあると思う。上手くいけば思いつきで書いたエピソードも意味ありげに見えるし、読者も批評家も深読みして勝手に理屈をつけてくれる。作者のただの自己満足が、「間テクスト性」の名のもとに神輿のごとく持ち上げられる。最近の読者はこのような寓話にビビりすぎなのではないか?

本作を読んだ第一印象はこんな感じだった。

とはいえ、最後まですらすら読めたし、所々に興味深いエピソードがあったことも確かで、少なくともつまらなくはなかった。もっとも心に残ったのが秩序を巡るエピソードで、学校に順応できない規格外の少年ダビードを、保護者たちが必死に守ろうとしているところが印象的だった。ダビードは知能は高いものの教師には反抗的で、なおかつ独自のルールで学問を捻じ曲げている。そのため、住居から遠く離れた特殊な寄宿学校に送られそうになる。

子育ての方針は二派に分かれるようなんだよ、エウへニオ。一方は、子どもというのは粘土のようにこねて形作り、高徳の市民に仕立てあげるべしと言う。もう一方は、子どもでいれられる時期は一度しかなく、幸せな子ども時代がのちの幸せな人生の礎となると言う。イネスは後者の流派なんだ。(p.332)

日本だったら前者の方針で育てられることは間違いないだろう。ところが、後者を肯定するのが西洋の価値観で、僕はそこが羨ましいと思うのだ。本作の舞台はスペイン語公用語のどこか分からない国だけど、規則に厳しいところが他人事に思えなくて恐ろしい。振り返ってみれば、僕も学生時代は訳のわからない校則で雁字搦めだった。