海外文学読書録

書評と感想

サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』(1988)

★★★

ジブリール・ファリシタはインド映画界の大スター。一方、彼のライバルとなるサラディン・チャムチャは英国で教育を受けた舞台俳優。2人が乗り合わせたジャンボ・ジェット機がハイジャック犯によって爆破され、ジブリールサラディンドーヴァー海峡の雪の海岸に落下して奇跡的に命が助かる。その後、ジブリール預言者マハウンドに関する白日夢を見るようになるのだった。

バールは言った。「もうお終いだ、何とでも好きなようにしれくれ。」

そこで彼は一時間以内に絞首刑に処すとの宣告を受けた。テントから連行されて死刑執行人に引き渡される時、バールは振り返って叫んだ。

「マハウンド、あんたには娼婦も作家も同じなんだ。どちらも許せない存在なんだ。」

マハウンドは答えた。

「作家と娼婦と、どこが違うというのかね。」(下 pp.170-171)

イスラム教に対して冒涜的だとして、イスラム世界で問題になった小説。表題の「悪魔の詩」は コーランのことを指しており、神の預言として書かれたメッカの多神教を認める記述が、実は悪魔によるものだったと預言者ムハンマドによって否定されたエピソードに依る。正直、これのどこが問題なのかよく分からないのだけど、他にもムハンマドのことをマハウンド(イスラム教で軽蔑の対象になっている犬を連想させる名前)と表記したり、ムハンマドの12人の妻と同じ名前を持つ12人の売春婦が登場したり、門外漢からすれば、むしろこういう侮辱的な小ネタのほうが問題だと思う。

質問・信仰心の反対は何?

不信心ではない。それはたしかにあまりに決定的にすぎしっかりと閉ざされている。それ自身一種の信仰心である。

疑いの心。(上 p.103)

ここ10年くらい日本において表現規制問題が取り沙汰されている。槍玉に挙がっているのは、マンガやアニメなど二次元のポルノ的表現だ。特に2010年の「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案」では、非実在青少年という概念を無理やりでっちあげ、実在しない彼らを保護する名目で表現の自由が侵されようとしていた。また、これに限らず、世界的にもPC*1であることをフィクションに求める風潮がある。たとえば、人種や性別、宗教に関して問題のある表現をしている文学作品は、ここ最近は市場に流通していない(少なくとも僕は目にしていない)。反PCと思われる作品はどれも昔のものである。

と、こういう背景が現代の読者にはあるため、我々は本作について次のような疑問が思い浮かぶのだ。宗教について書くときPCはどうなるのか? 表現の自由に任せて特定の宗教を冒瀆していいのか?

イエス・キリストを再解釈した小説に『キリスト最後のこころみ』がある。この作品は解釈に問題があるとしてカトリック教会から禁書扱いにされた。そして、ムハンマドの再解釈をした『悪魔の詩』も、冒涜的だとしてイスラム世界では禁書扱いにされている。つまり、表現の自由とPCが対立しているわけだ。こういった場合、我々はどちらを支持すべきなのだろう? 表現の自由か、それともPCか。本作が発表された当時は、前者を支持する声が圧倒的だった。しかし、仮にこれが現代で発表されたとしたら、昔みたいに表現の自由が支持されるだろうか? 下手したら反PCだとして、自由主義陣営のメディアから弾劾を受けるかもしれない。表現の自由とPCは対立する概念であり、今後も両者のせめぎ合いが激化するだろう。これを機に我々は、どちらを支持するのか考えておいたほうがいいと思う。

なお、著者のサルマン・ラシュディは本作を出版したことで、イランのホメイニ師から死刑宣告のファトワーを受けた。また、訳者の五十嵐一は、勤務先の筑波大学で何者かによって刺殺された。表現の自由を守るのも命懸けである。

*1:ポリティカル・コレクトネス。政治的な正しさ。

ユードラ・ウェルティ『大泥棒と結婚すれば』(1942)

★★

18世紀後半。ミシシッピ川周辺に住む地主のクレメント・マスグローブが、ジェイミー・ロックハートという紳士に命を救ってもらう。クレメントには美しい娘ロザモンドがおり、彼女は醜い継母にいじめられていた。ある日、ロザモンドが森の中で追い剥ぎに遭って丸裸にされてしまう。その追い剥ぎはイチゴ汁で顔を隠したジェイミーだった。ジェイミーは紳士と泥棒の2つの顔を持っている。

森の美しさときたら、それはみごとなものだった! 黒柳、緑柳、糸杉、ペカン、カタルパ、マグノリア、柿、桃、ハナミズキ、野李、さくらんぼ、ざくろ、棕梠、ミモザ、ゆりのき。それらがそこいらじゅうに生い茂り、夏の最後の深まりのなかで、きらきらと緑一色に輝いていた。頭上ではカッコーが鳴き、いりくんだ小道を女王ロザモンドが通りぬけると、雛をつれたうずらがよろめき歩いた。赤鳥の群れが、とつぜん開いた扇のように、ひいらぎの茂みからぱっと飛びたって、狐は巣穴から顔をだした。(p.82)

一応リアリズムの手法で書かれているけれど、内容は随分と荒唐無稽でどこかおとぎ話を彷彿とさせる小説だった。訳者あとがきによると、グリム童話の「強盗のおむこさん」を参考にしているらしい。ひとことで言えば、アメリカ南部のフェアリーテイルといったところだ。美しい娘と醜い継母という設定は、この手の物語のテンプレのような気がする。

紳士の顔と泥棒の顔をもつジェイミー・ロックハートの二面性が大きな柱になっている。紳士の顔を見せている相手には泥棒の顔は決して見せないし、泥棒の顔を見せている相手には紳士の顔は決して見せない。こういう二重生活は極端だけど、しかしSNS時代の我々も、多かれ少なかれ二面性を使い分けながら生きている。たとえば、このアカウントでは品行方正にしよう、別のアカウントでは本音で語ろう、みたいな。後者は俗に言う裏アカである。しかし、こういうのは何もSNSだけに限ったわけではない。現実生活においても我々は二面性を使い分けている。言うまでもなく、仕事とプライベートでは周囲に見せている顔は違うはずだ。あるいは、他人に見せる顔と家族に見せる顔もまったく違うだろう。そう考えると、ジェイミー・ロックハートは我々のカリカチュアなのかもしれない。

この時代はおおらかだったのか、インディアンの描き方が現代から見るといくぶん差別的だった。ただ、見方を変えればこういう描き方はもう絶対に出来ないので、ある意味では貴重な作品と言えるのかもしれない。良くも悪くも現代人は価値観のアップデートを強要されている。ともあれ、同じ南部の女性作家でもカーソン・マッカラーズやフラナリー・オコナーが現代でも読まれているのに対し、ユードラ・ウェルティはほとんど読まれていない(キャサリン・アン・ポーターはどうだろう?)。いい機会なので他の作品も読んでいこうと思う。

ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』(2013)

★★★

女装ホームレスのアリシアが、自分が生まれ育った町コモリについて語る。少年だったアリシアは、新築の家が建つまで両親と弟の4人でコンテナ暮らしをしていた。アリシアはクサレオメコの母親から暴力を受けている。町では再開発が行われようとしており、住民たちは補償金の額を釣り上げようとあれこれ画策していた。

おまえ、俺が将来絶対欲しいもの、何だか知ってるか?

何だよ。

冠。

何のために。

それをかぶって、他のトナカイ全員に、おまえらはみんな間抜けだって言ってやるんだ。

それだけ言えりゃ冠なんて要らねえよ。

要るよ、要るんだ。だってただ鼻が赤いだけじゃだれも話を聞いてくれないからな。ルドルフじゃないと。ルドルフになって出世すりゃ、みんな、聞いてくれるんだ。

じゃあ、そうしな。

うん、そうする。(p.24)

日本の文学作品みたいだった。暴力が話の中心にあるけれど、それが詩的な文体によって中和されていて、独特の世界観を作り出している。また、語り手が読者に呼びかけるような形式をとっているものの、特に同情や共感を求めているわけでもなく、物語は挿話を交えながらマイペースに進んでいく。個人的には、『ピンポン』『ギリシャ語の時間』と同じく、韓国っぽさをあまり感じさせないところが注目ポイントだった。食用の犬を飼育しているところとか、焼肉を食べに行くところとか、そういう知る人ぞ知る要素*1が時々出てくるくらい。人物名や地名が韓国っぽくないし、その国ならではの土俗的な要素もさほどなく、無国籍ぶりが際立っていた。韓国の土地開発問題が背景にあることは、著者のあとがきを読んで知ったけれど、だからと言ってその国特有の何かがあるとは思わなかったし。今まで読んできた韓国の現代文学が、どれも無国籍っぽいのはただの偶然なのだろうか。もっとたくさん読んでサンプルを増やしたいところである。

アリシアの父親が家族を連れて焼肉屋に行くエピソードが印象に残っている。実はその店はむかし父親が下男をしていたときの家の主で、父親は彼らに食事の世話をさせたくて店に通っているのだった。下男をしていたときは馬小屋と変わらない納屋に住まわされ、残飯や古着を投げ与えられて馬鹿にされていた父親。そういう見下していた相手が客として店に来るのだから、焼肉屋のほうもたまったものではないだろう。客商売においては、商品に対して金を払うほうが立場が上であることは言うまでもない。下男だった男を店で世話しなければならないかつての主。こういうことがあるから、我々は安易に他人を邪険にすることができないのだ。いつその人物が立場を利用して自分を困らせにくるのか分からないのだから……。たとえば就職の面接でも、落とした相手が将来の顧客や取引相手になるかもしれないので、あまり下手な対応はできない。圧迫面接なんてもってのほかである。悪い印象を持たれたら、後で復讐されるかもしれない。そういう意味では、資本主義社会は平等なのだと思った。

本作を読むと、文学を文学たらしめているものはまず文体だということが分かる。

*1:犬を食べる文化は中国にもあったような気がする。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(1813)

★★★

ベネット家の次女エリザベスは、人間観察に秀でた20歳の独身女性。そんな彼女が、年収1万ポンド(現在の約1億円)の大地主ダーシー氏と知り合う。ダーシー氏は頭脳明晰の美男子だったが、気位が高くてエリザベスの印象はあまり良くなかった。やがてダーシー氏は密かに彼女に好意を持つようになる。ところが、エリザベスは将校のウィッカムに惹かれるのだった。ウィッカムは幼馴染のダーシー氏によって無一文にされたというが……。

「ダーシーさん、あなたはいつか、自分は人を許せない性格だとおっしゃいましたね。一度憎んだら一生憎みとおすような性格だとおっしゃいましたね。そうすると、間違って人を憎まないように注意なさるんでしょうね?」

「もちろんです」ダーシーは強い調子で言った。

「それに、偏見で目が曇らないように注意なさるんでしょうね?」

「もちろんです」

「最初に正しい判断をするのが、自分の意見を変えない人の義務ですわね」

「失礼ですが、この質問の目的は何ですか?」

「ダーシーさんの性格を解明することです」エリザベスは冗談っぽく言った。「どうしてもあなたの性格を知りたいんです」

「で、結果は?」

エリザベスは頭を振った。「うまくいきません。いろんな噂が耳に入って、それがほんとなのか、さっぱりわかりません」(上 pp.163-164)

読んでいる最中はやや冗長に感じたけれど、終わってみればそれなりに満足感があった。実を言うと、登場人物の恋愛にはあまり興味がないんだよね。恋愛小説も恋愛映画も特に好きというわけでもないし。ただそれでも、本作を読むことで当時の価値観や生活習慣を知ることができたのは良かった。たとえば、当時は朝10時にたっぷりとした朝食をとって昼食はなく、午後4時頃から1日の中心的な食事であるディナーをとったとか*1。また、本の抜書きをすることが当時の女性の教養とされていたとか*2。さらには、妻子ではなく遠縁の男子に遺産がいく限定相続という制度があって、それが配偶者(ベネット夫人)を苦しめている。さすがにこれは理不尽だと思った。夫が先に死んだら妻は屋敷から放り出されるのだから。ベネット夫人の先行きが心配である。

作中に出てくる結婚観も面白い。エリザベスの親友シャーロットは、教育はあっても財産がないため、結婚を人並みに生きるための唯一の生活手段と割り切り、幸福になれないと分かっているにもかかわらず、財産を持ったクズ男と結婚している。これで飢えだけは免れるというわけ。生存戦略に基づいたすこぶる現実的な行動だ。また、お金のない者同士が好きになっても不幸になるというシビアな結婚観も飛び出してきて、当時の婚活も今と変わらないと思った。そして、なかでも僕が驚いたのは、女性が男性からプロポーズされても、女性のほうに断る権利があるところ。昔の日本みたいに、家の都合で無理やり結婚させられるわけじゃないのは意外だった。

キャラクターも現代の小説と遜色ないくらい立っていて魅力的だった。ベネット氏の英国人らしいひねくれたユーモアは最高だし、ベネット夫人の頭が悪くてKYな振る舞いも愛すべき性格である。コリンズの高慢なところ、ウィッカムのクズなところも、ドラマを盛り上げる大きな要素だろう。キャラクター絡みだと、コリンズがキャサリンにプロポーズする第十九章は、お互いの気持ちが全然噛み合ってなくてとても笑える喜劇になっていた。また、第五十六章にあるエリザベスとキャサリン夫人の修羅場も見どころだろう。2人の言い争いは、どこか言葉の格闘技といった趣がある。こうして振り返ると、本作はストーリーよりもキャラの掛け合いのほうが面白かったと思う。

ところで、この小説は書き出しが良かった。

金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中にちがいない。これは世間一般に認められた真理である。

この真理はどこの家庭にもしっかり浸透しているから、金持ちの独身男性が近所に引っ越してくると、どこの家庭でも彼の気持ちや考えはさておいて、とにかくうちの娘にぴったりなお婿さんだと、取らぬタヌキの皮算用をすることになる。(p.7)

実はこの後にベネット氏とベネット夫人の会話が続くのだけど、これが毒と笑いの入り混じった絶妙なユーモアに溢れていて、第一章は丸々引用したくなるくらい気に入った。小説の導入部としてはかなりのものだと思う。特に恋愛小説に興味がない人も、第一章だけ立ち読みすることをお勧めする。

*1:午前11時から午後4時までがモーニングと呼ばれた。

*2:余談だが、僕もノンフィクションについては気になる箇所を抜書き・要約して非公開のブログに保存している。こうしておくと必要なときに引用できて便利。

ウィリアム・シェイクスピア『リチャード三世』(1592-1593?)

★★★★

グロスター公リチャードは、長兄のイングランドエドワード四世が病に伏せるなか、次兄のクラレンス公ジョージを謀殺する。王が死んだ後は邪魔な貴族を処刑し、甥のエドワード五世から王位を簒奪、リチャード三世として即位する。2人の甥を殺害したリチャード三世だったが、やがて各地で反乱軍が蜂起するのだった。

マーガレット お黙り、侯爵殿、でしゃばるんじゃない。

新米の爵位は出来立ての金貨同様、世間では通用しない。

お前みたいな新入り貴族にも、

位を失う惨めさがどんなものか分かってもらいたいものだ。

高々とそびえる樹ほど風当たりは強い、

いったん倒れれば、木っ端微塵に砕けしまう。(p.55)

『ヘンリー六世』の続編。

これは四大悲劇に匹敵するくらい面白いのではないか。そこまでは言い過ぎだとしても、とにかくリチャードが比類なきダークヒーローといった感じで魅力がある。漫画家の荒木飛呂彦は『荒木飛呂彦の漫画術』【Amazon】において、漫画の「基本四大構造」にキャラクター、ストーリー、世界観、テーマ(重要な順)を挙げ、キャラクターで一番大事なのは「動機」だと書いていた。ではリチャードの動機は何かといったら、それは世界への憎悪である。のっけから独り言でそのことを表明しており、彼の行いはすべて憎しみに源泉があるのだということが分かる。「どうせ二枚目は無理だとなれば、/思い切って悪党になり、/この世のあだな楽しみの一切を憎んでやる。」(p.11)。僕も人生の最大のモチベーションは憎しみなので、彼の気持ちはそれなりに理解できる。というか、理解できるところがちょっと怖い。ともあれ、憎しみを燃料にして王にまでのし上がる彼の覇道は、実に冷酷極まりなくて魅力的だ。実の兄を謀殺し、邪魔な貴族を処刑し、幼い甥から王位を奪った挙げ句に容赦なく殺す。のみならず、自分がその夫を殺して未亡人にした女を口説いたりもする。第一幕にあるリチャードとアン(故ヘンリー六世の王子エドワードの未亡人)のやりとり、第四幕にあるリチャードとエリザベス(エドワード四世の妃)のやりとりは、話の流れに意外性があって読ませる。非情な野心家を描いた本作は、漫画化したらかなりヒットしそうだ。

シェイクスピアの魅力はセリフ回しにあると思った。たとえば、本作ではマーガレット(故ヘンリー六世の妃)が予言を吐く魔女みたいな役柄になっていて、貴族たちのいる場で呪いの言葉を撒き散らしている。その狂女ぶりは人間を超越した何かを感じさせて不気味だ。さらには、ロンドン塔に来た暗殺者コンビの会話も注目に値する。彼らはリチャードの命令で次兄のクラレンスを殺害しに来たのだけど、その会話はとてもこれから人を殺すとは思えない諧謔にあふれていて、個人的にはヘミングウェイの「殺し屋」【Amazon】を連想した。シェイクスピアの戯曲はセリフ回しこそが最大の見所だろう。