海外文学読書録

書評と感想

ユードラ・ウェルティ『大泥棒と結婚すれば』(1942)

大泥棒と結婚すれば (文学のおくりもの 22)

大泥棒と結婚すれば (文学のおくりもの 22)

 

★★

18世紀後半。ミシシッピ川周辺に住む地主のクレメント・マスグローブが、ジェイミー・ロックハートという紳士に命を救ってもらう。クレメントには美しい娘ロザモンドがおり、彼女は醜い継母に虐められていた。ある日、ロザモンドが森の中で追い剥ぎに遭って丸裸にされてしまう。その追い剥ぎはイチゴ汁で顔を隠したジェイミーだった。ジェイミーは紳士と泥棒の2つの顔を持っている。

森の美しさときたら、それはみごとなものだった! 黒柳、緑柳、糸杉、ペカン、カタルパ、マグノリア、柿、桃、ハナミズキ、野李、さくらんぼ、ざくろ、棕梠、ミモザ、ゆりのき。それらがそこいらじゅうに生い茂り、夏の最後の深まりのなかで、きらきらと緑一色に輝いていた。頭上ではカッコーが鳴き、いりくんだ小道を女王ロザモンドが通りぬけると、雛をつれたうずらがよろめき歩いた。赤鳥の群れが、とつぜん開いた扇のように、ひいらぎの茂みからぱっと飛びたって、狐は巣穴から顔をだした。(p.82)

これは一応リアリズムの手法で書かれているけれど、内容はずいぶん荒唐無稽でどこかおとぎ話を彷彿とさせるものだった。訳者あとがきによると、グリム童話の「強盗のおむこさん」を参考にしているらしい。ひとことで言えば、アメリカ南部のフェアリーテイルといったところだろう。美しい娘と醜い継母という設定は、この手の話のテンプレのような気がする。

紳士の顔と泥棒の顔をもつジェイミー・ロックハートの二面性が本作の大きな柱になっている。紳士の顔を見せている相手には泥棒の顔は決して見せないし、泥棒の顔を見せている相手には紳士の顔は決して見せない。こういう二重生活は極端だけれども、SNS時代の我々も、実は多かれ少なかれ二面性を使い分けながら生きているのではなかろうか。たとえば、このアカウントでは品行方正にしよう、別のアカウントでは性格の悪さを隠さず本音で語ろう、みたいな。後者は俗に言う裏垢である。しかし、こういうのは何もSNSだけに限ったわけではない。現実生活においても我々は二面性を使い分けている。言うまでもなく、仕事とプライベートでは周囲に見せている顔は違うはずだ。あるいは、他人に見せる顔と家族に見せる顔もまったく違うだろう。そう考えると、ジェイミー・ロックハートは我々のカリカチュアなのかもしれない。

この時代はおおらかだったのか、インディアンの描き方が現代から見るといくぶん差別的だった。ただ、見方を変えればこういう描き方はもう絶対に出来ないので、ある意味では貴重な作品と言えるのかもしれない。同じ南部の女性作家でも、カーソン・マッカラーズフラナリー・オコナーが現代でも読まれているのに対し、ユードラ・ウェルティはほとんど読まれていない(キャサリン・アン・ポーターはどうだろう?)。いい機会なので他の作品も読んでいこうかなと思う。