海外文学読書録

書評と感想

ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(1940)

★★★★

連作短編集。「美しき白馬の夏」、「ハンフォードへの旅」、「ザクロ」、「わが未来の詩人」、「五十ヤード競争」、「恋の詩に彩られた美しくも古めかしきロマンス」、「雄弁家、従弟ディクラン」、「長老派教会合唱隊」、「サーカス」、「三人の泳ぐ少年とエール大学出身の食料品屋」、「オジブウェイ族、機関車三十八号」、「アメリカ旅行者への田舎者の忠告」、「哀れ、燃える熱情秘めしアラビア人」、「神を嘲けるものに与える言葉」の14編。

サーカスは私たちのすべてだった。サーカスは冒険であり、旅行であり、危険であり、至芸であり、美であり、ロマンスであり、喜劇であり、ピーナッツであり、ポップコーンであり、チューインガムであり、ソーダ水であった。私たちは象に水を運んで行って、そのままそこに腰をすえ、ひとびとが大きなテントを組みたてて、準備をととのえる有様をながめていた。お客に金を使わせるために世なれたひとたちがめざましい活躍をしている様子を、私たちは何もかも知っているような顔をして眺めていた。(pp.134-135)

晶文社の旧訳(『わが名はアラム』清水俊二訳)で読んだ。引用もそこから。

郷愁をそそる短編集だった。本作の舞台は、1915年から25年までのカリフォルニア州フレズノ。語り手のアラムはアルメニアからの移民で、彼の9歳から10代後半までの牧歌的な生活を描いている。人々は広大な土地で農業をしながら暮らしているようだけど、それにしても読者である僕とは全然違う環境なのに、ここまで懐かしさをおぼえるのはどういうことなのか。従兄と馬に乗ったり、平日にサーカスを見物に行ったり、学校で教師に鞭打たれたり。また、ちょっと愚鈍な感じの大人と対等にやりとりもしている。僕の子供の頃なんか、野球と缶蹴りとテレビゲームくらいしかやってなかったからね。アラムとはほとんど共通点がない。にもかかわらず、まるで我がことのように懐かしさをおぼえる。おそらく本書に描かれたエピソードには、人類普遍の古き良き何かがあるのだろう。それにアラムの語り口がすごくいいのだ。淡々と出来事だけを語っていて、本来的な意味でのハードボイルドっぽさがある。訳者の清水俊二レイモンド・チャンドラーの小説も訳しているから、こういうのはお手の物という感じ。全体的に深い感動みたいな派手さはないものの、随所に控え目なユーモアが散見されて地味な良作といったところだった。

「美しき白馬の夏」は勝手にご近所さんの白馬を拝借して乗り回す話だけど、盗みがバレたときのご近所さんの反応がとても緩くて微笑ましい。「ザクロ」は砂漠に果樹園を作ってザクロを育てる話。結局事業は失敗してしまい、ラストは何とも言えない寂寥感がある。「恋の詩に彩られた美しくも古めかしきロマンス」は、黒板に女教師を馬鹿にする詩を書いたとしてアラムが濡れ衣を着せられる。アラムと教師のやりとりがとてつもなく理不尽で笑ってしまう。「雄弁家、従弟ディクラン」は、戦争を体験した者ならではの重みがあって、子供(ディクラン)の演説を聞いたおじいさんの論評が胸に突き刺さる。これは全文引用したいくらい。

「オジブウェイ族、機関車三十八号」は本書の中で一番好きかも。まず書き出しが素晴らしい。

ある日、ひとりの男がロバに乗って町にやってきて、そのころ私が一日のほとんどすべての時間をすごしていた図書館のなかをうろつきはじめた。その男はオジブウェイ族の若いインディアンで、背の高い男だった。彼は機関車三十八号という名前であると私に告げた。町のものはみんなこの男は気ちがい病院から逃げてきた男にちがいないと信じていた。(p.168)

実はこの後の展開も意表を突いたもので、アラムとの破天荒なひとときはまるで宝物のようだった。僕も彼みたいな立場だったらこういうことをやってみたい。でも、現代社会じゃ不審者扱いされてとてもじゃないができないだろうなあ……。

というわけで、子供時代の郷愁をたっぷり味わった。

巴金『寒い夜』(1947)

★★★

抗日戦争下の重慶。半官半民の出版社に勤める汪文宣は、妻の樹生と喧嘩して家から逃げられていた。文宣は樹生が勤めている銀行の前に行き、彼女と色々あった末に家に帰ってきてもらう。しかし、樹生は文宣の母親と折り合いが悪く、家の中で言い争いをするのだった。やがて文宣は吐血して病の床に着く。折しも日本軍が近くまで迫っているとの噂が広がっていた……。

彼女たちはいったい何でこういつもいつもいがみあっているのだろう? 何でこんな少人数な家庭で、こんな単純な関係のなかで調和を保って行けないのだろう? 何でこの自分が愛しまた自分を愛してくれている女たちが敵同士のように顔を合わせば攻撃し合わねばならないのだろう? (p.252)

集英社版世界文学全集で読んだ。引用もそこから。

これはまた何ともつらい物語だった。文宣は妻も母も愛しているし、妻と母も文宣のことを愛しているのだけど、女同士でいわゆる嫁姑問題が起きていて、家庭内に不和が生じている。妻の樹生は大学を卒業した34歳の女性で、職場の同僚とダンスに行くくらい進歩的。一方、文宣の母はそれなりに教育を受けてはいるものの、考え方は古風で進歩的な嫁とは反りが合わない。おまけに、母が文宣のことを溺愛しているのも問題だ。そのせいで樹生に対してより当たりが強くなっている。声優の明坂聡美は結婚相手に望む条件として、「長男でない」ことを一番に挙げていたけれど*1、これは圧倒的に正しい判断だと言わざるを得ない。せっかく夫とは相思相愛なのに、姑がああでは幸福な生活は送れないだろう。また、夫は夫で問題があって、妻と母の双方を取り持とうと躍起になっているところが痛々しい。もうここまで来たらどちらかを捨てるしかないのに、文宣は妻には我慢してくれと言い、母には妻のことを本当はいい人なのだと説いている。さらに、彼は自己犠牲の精神も強い。病気になってからは、妻に対して自分から離れて幸せになるよう幾度となく諭している。このお人好しぶりが実に罪深く、妻の良心を苛んで精神的に自由にしない原因になっている。いっそのこと暴君だったら、遠慮なく離婚できるというのに……。

戦時下の庶民の生活を描いたフィクションが好きだ。中国だと、日本軍の占領下にある横丁が舞台の『四世同堂』。日本だと、米軍の爆撃に晒される広島が舞台の『この世界の片隅に』【Amazon】。どちらも非常事態を前にして、力なき者はどういう生活を強いられるのか、そういう庶民にとって身近なものを描いている。自国が戦場になるとはどういうことなのかを骨の髄まで思い知らされたのだった。そして、本作も戦時下が舞台なので、日本軍の動向が登場人物たちを一喜一憂させている。日本軍が近所まで迫ってきた。やべー。日本軍が近所から撤退した。やったー。日本軍が降伏して戦勝に沸くなか、文宣がひっそりと死ぬところは残酷な対比だと思った。

実は本作の主人公は樹生かもしれない。というのも、これは一人の女が葛藤の末に自由と幸福を選び取る話でもあるからだ。女にとって「家」とは当人を雁字搦めにする監獄のようなもので、その桎梏をいかにして断ち切るかが本作の重要な課題になっている。お人好しで善人の夫を捨てる。病床で今にも死にそうな夫を捨てる。それは倫理的に非難されるかもしれないけど、自分が幸福になるためにはやむを得ない決断でもある。こういう女性像は、中国文学でもけっこう珍しいのではなかろうか。我々はもっとエゴイストになっていいのだと思う。

*1:他には、「視力が裸眼で2.0、お酒に飲まれない、女癖が悪くない、ギャンブルは程々で家計に手をつけない、暴力をふるわない、三半規管が強い、食べ物の好き嫌いがない、持病があまりなく健康、貯金をしている、家事が出来る、料理が美味しい、虫退治が出来る」を挙げている。

ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(1988)

★★★★★

学生運動に沸くミラノ。大学生のカゾボンはテンプル騎士団をテーマにした卒論を書いていた。その彼がガラモン出版の編集者ベルボとその同僚ディオタッレーヴィと出会い、会社に出入りするようになる。ガラモン出版は表向きは良心的な小規模出版社だったが、裏ではオカルト愛好家向けの自費出版も請け負っていた。そこへアルデンティ大佐と名乗る男が、テンプル騎士団についての陰謀論を持ち込んでくる。それをきっかけに、カボゾンたちは「計画」に関わっていくのだった……。

「私は出版社に勤めておりますが、出版社には頭の良いのと変なのがやってきます。編集の仕事というのは、そのうちから一目でおかしい連中を見抜くことでしてね、テンプル騎士団の話を持ちかけてくる連中はまず間違いなく狂っていることが多いのですよ」(上 p.103)

やはりウンベルト・エーコの代表作は本作だろう。テンプル騎士団にまつわる陰謀論を中心に、ヨーロッパ文化の知識・教養がたっぷり詰め込められていて、ここまで知的で衒学的な小説を書ける人はなかなかいない。テンプル騎士団は第1回十字軍を由来とする中世の騎士団で、彼らの貯め込んだ金が欲しいフランス王フィリップ4世によって、14世紀初頭、無惨にも壊滅させられてしまった。しかし、そこから伝説は幕を開け、薔薇十字団、フリーメーソンフランシス・ベーコンイエズス会ユダヤ人といった派生的な要素と繋がりつつ、現代の陰謀論にまで至っている。正直言って、この辺の話題にはほとんどついていけなかったのだけど、それでも終わってみると、本作は一言で要約できるくらいシンプルなプロットになっているから驚きだ。冒頭にクライマックス直前の場面を置いて、そこから回想していく構成が見事にはまっている。書物にはページをどんどん捲っていくものと、一行一行じっくり読んでいくものの2種類があると思うけど、本作は間違いなく後者のタイプで、次から次へと出てくる知識の奔流に圧倒されながら読んだ。陰謀論についてだったら永遠に語り続けることができるのではないか、というくらい徹底的に語り倒している。

陰謀論がいかにして形成されるのかといったら、解釈の過剰さにあるのだと思う。本作の登場人物は、頭が良すぎるゆえに一周回って馬鹿になっているんじゃないかと思うくらいのディレッタントで、理屈と膏薬はどこへでもつくみたいな精神で陰謀論を練り上げていく。薔薇十字団からユダヤ人まで、いかにもな話題がてんこ盛りでお腹いっぱい。どれが妥当でどれが無理筋なのか僕にはまったく判断できなかったけれど、下巻でフランシス・ベーコンシェイクスピアの戯曲の著者だというネタが出てきたところで、ああ与太話なんだなということに気づいた。そして、テンプル騎士団の話が「振り子」にまで繋がる壮大さはなかなか感動的であった。本作を読むと、小説においてストーリーは乗り物で、次の場面を出現させる装置なのだということを意識させる。それくらい機能的に場面場面が移っていく。

これからウンベルト・エーコの小説を読もうという人は、まず『プラハの墓地』から入るのがいいと思う。本作と同じく陰謀論を扱っているけれど、こちらは娯楽性が高くて読みやすい。まるでスパイ小説のような面白さである。

シャーロット・P・ギルマン『フェミニジア』(1915)

★★★

ジャングルの探検に来ていたアメリカの若者3人(テリー、ジェフ、ヴァン)が、現地人から「女だけの国」の存在を聞かされる。3人はその国をフェミニジアと名付け、飛行機で乗り込むことに。ところが、到着して間もなく彼らは女たちに拘束されて監禁されてしまう。監禁中に言葉を教えられた3人は、その国に2000年のあいだ男がいなかったことを聞かされる。フェミニジアは女だけのユートピアだった。

この国の母は誰もが神聖な存在だ。彼女たちにとってはいつの世も、母となることは、このうえない愛情とあこがれをもち、心をこめて、つまり「至高の望み」を抱いて子どもを待ち望むことだった。(……)誰もが、母となることをほかの務めよりずっと崇高なことだとみなしている。(p.248)

邦訳は現代書館から出版されているが絶版。

この小説の何がすごいって、フェミニジアが本当にユートピアだったところだ。国の広さはオランダと同じくらいで、人口は300万人ほど(けっこう規模が大きい)。処女生殖によって女だけが生まれるようになっていて、国には文字通り女しかない。ここでは母性がすべての基盤になっており、住人には「女らしさ」が著しく欠乏している。そもそもこの「女らしさ」とは生まれつき持っているものではなく、女が男を喜ばせるために無理やり作り出されたものなのだ。「男らしい」や「女らしい」といった基準が社会に存在しないのは、現代のフェミニズムにも通じる先駆的な見解と言えるだろう。そして、人々は愛国心ではなく、人類愛で結ばれているのだから頭が下がる。女が「女」ではなく、「人」として扱われる社会。その社会構造は完璧だし、人の内面も成熟している。まさに非の打ち所のないユートピアだった。

とはいえ、母性がすべての基盤になっているのは、現代の観点からすれば反PC的と言えるだろう。この社会では女はまるで「産む機械」になっていて、子供を産み育てることが生活のなかで最重要課題になっている。子供を産み育てることが生きがいであり、彼女たちにとっては名誉なのだ。現代では結婚していても子供を持たない夫婦は当たり前のようにいるし、生涯独身で子供を持たない男女もこれまた当たり前のようにいる。「産めよ殖やせよ」とは結局のところ、個人が社会のために奉仕することであり、そういう全体主義的な価値観は、戦後の現代社会ではさすがに受け入れ難い。この辺は時代の制約を感じさせるところで、いくらかケチがつきそうではある。

女のためのユートピアといえば、笙野頼子の『水晶内制度』【Amazon】もあるが、あちらはフェミニズムを通り越してミサンドリーの領域に踏み込んでいた。本作は現代人からすれば多少違和感があるとはいえ、とりあえずはまっとうなフェミニズムを土台にしている。フェミニスト文学の古典として、なかなか興味深い小説であった。こういうのは昔の人の考えを知るうえで大いに参考になる。

閻連科『愉楽』(2004)

★★★★★

住人の大半が身体障害者の受活村。そこを管轄する双槐県では、観光客を呼び込むためにロシアからレーニンの遺体を購入し、魂魄山に安置する計画を立てた。県長は受活村の障害者たちの特殊能力に目を付け、数十名からなる絶技団を結成。全国公演をしてレーニンの遺体を買うための資金を得ようとする。

茅枝婆はさらにあの十三歳の小児麻痺の子供の家に向かった。
「息子はまだ十三になったばっかりじゃろうが」
そこの両親は言った。「もう二、三年したら、こいつの足は瓶の中には入らんようになってしまう。もう子供じゃのうなる。外へ出して世間を見てもらいたいんじゃ」
「子供の片輪を見世物にしてどうするんじゃ」
「これを見せんで、何を見せろというんじゃ」(p.122)

『異形の愛』や『ロートレック荘事件』【Amazon】に並ぶ片輪文学の金字塔である。まず観光客を呼ぶためにロシアからレーニンの遺体を買おうという着想も面白いのだけど、その資金稼ぎに障害者の人間離れした絶技を見世物にするという展開が面白すぎる。受活村の人口は167人。めくらが35人、おしとつんぼが47人、びっこが33人、小人や片手といったその他の障害者が数十人いる。あるめくらは物がどこにどのように落ちたか聞き分けることができるし、あるつんぼは耳元で爆竹を鳴らしても平気の平左でいる。また、ある片足猿は杖を使って軽快に走り回るし、ある片目は捩った糸を5本の針の穴に一気に通すことができる。もちろん、小人たちのショーもあれば、60代の老人を120歳だと偽って見世物にしたりもする。そう、本作は「見世物」がキーワードなのだ。レーニンの遺体も受活村の障害者も、金を稼ぐための見世物として期待されている。この辺が改革開放政策で金儲けに奔走する世相を映しているようで、何とも皮肉なものだと思った。

しかし、本作はこのような狂騒だけを描いているわけではなく、受活村の人たちの受難を通して中国の負の歴史をなぞっている。というか、これがなかったら僕は本作を傑作だとは思わなかっただろう。もともと受活村は明の時代からどこにも所属せずにひっそり存在していたのだけど、共産党政権になってからは土地が国家のものとなって互助組や合作社に「入社」することになる。大躍進政策の時代には、人民公社を名乗る完全人(健常者)から食糧を略奪され、何人も死人を出した。そういう苦い経験から村の幹部は人民公社からの「退社」を希望するようになる。再びどこにも所属せず、静かに暮らしたいと望むようになる。もう誰からも踏みつけにされたくない。昔みたいに平和に暮らしたい。本作はこういったサイドストーリーが物語に奥行きを与えていて、弱者でいることの悲しみを浮き彫りにしている。

彼らの受難は過去だけではなく、それが現在にまで及ぶのだから理不尽だ。絶技団に駆り出された障害者たちも、ショーの大成功から一転、完全人(健常者)から酷い目に遭わされる。本作は障害者が徹底的に踏みにじられる様子を描いているけど、実はこの障害者は共産党政権に翻弄された民衆のアレゴリーで、強固な普遍性を持っている。弱者を収奪する社会構造の本質を、障害者に仮託して描いているわけだ。そして、こういうのは何も中国に特有の問題ではなく、たとえば日本にも同様のものが見られる。世間で不満が渦巻くと弱者がその捌け口にされるし、弱いものがさらに弱いものを叩くなんてことは日常茶飯事だから。我々の社会でも、歪みのしわ寄せがすべて弱者に向かっている。僕は本作を「対岸の火事」としてではなく、自分たちの日常に偏在する普遍的事実として読んだ。

ところで、習近平は歴史教科書から文化大革命を削除しようとしているようだけど、そうすると中国文学への影響も絶大なものになるのではなかろうか。現在のところ、中国では天安門事件がタブーなのに対し、文化大革命大躍進政策は批判的に扱っていいことになっている。それが禁止されるとなかなかきついことになりそうだ。今後どうなるのか注視していきたい。