海外文学読書録

書評と感想

イサベル・アジェンデ『日本人の恋びと』(2015)

★★★

モルドバ出身のイリーナが、バークリー郊外にある高齢者用レジデンス・ラークハウスに就職する。そこで裕福な入所者のアルマに気に入られ、彼女の助手をすることに。アルマは若い頃、第二次大戦直前のポーランドから脱出し、伯父である弁護士の家で暮らすことになった。そこでは日本人の庭師が働いており、いつしかアルマはその息子のイチメイと恋仲になる。

「思い出は死んでなんかはいないのよ、レニー。昔以上に生き生きしているわ。年をとるって、そういうものじゃない? 過去の物語が命を得て、わたしたちの肌にまとわりつくの。あと何年かでも、あなたと一緒にいられて、わたしはうれしいわ」(p.168)

『精霊たちの家』で発揮されたストーリーテリングは健在で、アメリカの移民の物語を軽やかな筆致で描き出していた。最初はわりとやさしい世界が提示されていて、貧しいイリーナは自分に恋したドン・ファン的な老人の遺産を受け取らない無欲さがあるし、また金持ちのアルマは、自分の孫がどこの馬の骨とも知れない移民女(イリーナ)と結ばれてもいいと思っている。僕がイリーナだったら絶対に遺産を受け取っているし、アルマだったら孫の結婚相手は同じ階級の人間を選んでいただろう。特に後者みたいに、社会階級・文化・宗教・経済的レベルを度外視して付き合うことに抵抗がないのは驚きだ。しかし、実はそこにアルマの若かりし頃の経験が反映していたことが判明する。アルマが恋した日系人のイチメイも、社会的にはそれくらい離れた存在だったことが明かされる。このように過去と現在を行き来しながら、その関係がリンクするところが面白い。

本作はそれぞれが暗い闇を抱えた移民の物語だ。イリーナにはある犯罪にまつわる消し難いトラウマがあるし、ユダヤ人のアルマには祖国に残した家族がナチスによって強制収容所に送られた過去がある。また、アルマの恋人イチメイも、戦時中はアメリカの国策によって日系人用の収容キャンプに送られていた。今でこそアメリカは移民によって活力を得ているけれど、過去には差別的な政策が堂々とまかり通っていたうえ、現在のトランプ政権でも移民排斥の風潮が渦巻いている。移民はそんなに邪魔なのだろうか? ただ、それでも本作で描かれた民間レベルでは、異なる民族間で友情や愛情が育まれているので、そういう理想主義的な部分はフィクションならではの救いになっている。

相思相愛のアルマとイチメイが結婚していれば万々歳だったのだろうけど、物事はそう上手くは行かない。そこには非常に人間臭い理由からの別れがあって、その苦味が本作に印象的なアクセントを加えている。前述したようなやさしい世界で終わらないところが絶妙だ。結局、アルマはナタニエルという兄貴代わりの幼馴染と結婚する。このナタニエルの自己犠牲がまた凄まじいのだけど、彼には彼なりの秘密があって、これもなかなか一筋縄ではいかないのだ。本作にはこういう小さなサプライズがいくつか仕掛けられていて、それが物語を効果的に演出している。

本作は老いと移民をテーマにした恋愛小説なので、それらに興味がある人は読んでみるといいかもしれない。

ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー六世』(1588-1591?)

★★★

第一部。ヘンリー六世が治めるイングランドは、シャルル皇太子が率いるフランスと戦争をしている。オルレアンでジャンヌ・ダルクイングランド軍を打ち負かした。イングランドではグロスター公爵とウィンチェスターの司教が対立している。第二部。ヘンリー六世がマーガレットと結婚する。王妃マーガレットとグロスター公爵夫人エリナーが対立。夫人は魔術を使った廉で流刑になり、その後グロスター公爵も大逆罪で逮捕される。第三部。反旗を翻したヨーク公リチャードがヘンリー六世と和解する。ところが、ヨーク公は王妃の軍に攻められて殺されるのだった。ヨーク公の跡を継いだエドワードが戦争に勝利し、イングランドの王位に就く。その後、フランスも巻き込んでヨーク派とランカスター派で争う。

ルーシー こうして内紛という禿げ鷹が

偉大な将軍たちのはらわたをついばんでいるのをいいことに、

眠りこけた怠慢が我らの領土を敗北に売り渡す、

そのご遺体がまだ冷たくなりきっていない我らの王、

永遠に記憶に残るヘンリー五世王が

征服なさった領土だというのに。同胞がいがみ合っているうちに、

いのちも、名誉も、領土も何もかも、たちまち消えていく。(p.136)

ちくま文庫は三部作を一冊にまとめているので、およそ600ページの分厚い本になっている。部によって人物の呼び名が変わっているので、各部の冒頭についている登場人物一覧の存在はありがたかった。こういうのは便利なので一般の文芸小説にもつけてほしい。ミステリ小説にはついているので不可能ではないだろう。

シェイクスピアの史劇を読んだのは今回が初めて。こんなに人がバタバタ死んでいくとは思わなかった。有名な四大悲劇でさえ大して人は死なない。本作は戦争や権力闘争を扱っているから、大量死するのも当然と言えば当然なのだろう。権力を握るのは旨味があってお得だけど、一方では殺されるリスクも高いという諸刃の剣。特にヘンリー六世の場合、先祖が他人から王位を奪う形で即位したから、王権をめぐる火種が燻っている。ランカスター家がヨーク家の王位継承者を殺害して王冠を頂いているから、ヨーク公はそれが不満で最終的には反乱を起こしている。僕は何よりも命が惜しいので、権力の中枢には近づきたくないと思った。そこそこの地位で植物のように平穏に暮らしたい。

最近『Fate/Apocrypha』【Amazon】を見たせいか、ジャンヌ・ダルクは凛々しい聖女というイメージがあった。ところが、本作だと悪霊を召喚する魔女として描かれている。これにはショックを受けた。火刑に処される際には、一時的に刑から逃れるために、誰々の子を身ごもっている*1と言い張って、しかもそれが複数人に及んでいるから、敵からヤリマン扱いされている。こんなジャンヌ・ダルクは見たくなかった……。ともあれ、シェイクスピアの時代はこういうイメージだったと分かって興味深かった。

ソーントン・ワイルダー『三月十五日 カエサルの最期』では、史実を短期間に圧縮して作品の密度を高めていたけれど、そういう改変はシェイクスピアの史劇でも行われている。昔から続くポピュラーな手法なのだということを理解した。なるほど、歴史文学というのは、史実を年表通りになぞる必要はないわけだ。面白くなるのだったら、好きに切ったり貼ったりしてもいい。このジャンルにはあまり詳しくないので勉強になった。

*1:妊娠中の女囚は、出産するまで刑が延期される。

ヤア・ジャシ『奇跡の大地』(2016)

★★★★

18世紀のイギリス領ゴールドコースト。ファンティ族の娘エフィアはその美貌から、新しい首長と結婚することになっていた。ところが、母親の思惑でケープコースト城のイギリス人総督の現地妻になる。エフィアは父親の死の間際に出生の秘密を知ることに。彼女には生き別れの妹エシがいた。しかし、アシャンティ族のエシは奴隷船に乗せられてしまう……。物語はエフィアの子孫とエシの子孫を交互に描いていく。

「白人の神は白人とそっくりだ。白人は自分だけが唯一の人間だと思ってて、同じように、白人の神も自分だけが唯一の神だと思ってる。でも、ニャメ神とかチュクウ神を差し置いて神でいられる唯一の理由は、わたしたちが神にしてやってるからなんだ。わたしたちは白人の神と闘わない。白人の神に疑問をぶつけさえしない。白人は白人の神の道を説き、わたしたちはそれを受け入れた。でも、わたしたちのためになると教えられたものが、本当にためになったことが一度でもあるかい? 連中がおまえをアフリカの魔術師呼ばわりする。それがどうした? 連中に魔術師の何がわかるってんだい?」(pp.161-162)

焦点となる人物は合わせて14人。エフィアとエシの子孫、200年以上にわたる歴史を連作短編集のような形式で描いている。その野心的な意図に感心すると同時に、その壮大な時間軸に感動さえしてしまった。こういうタイプの歴史小説ってありそうでなかったような気がする。読んでいて『百年の孤独』【Amazon】を連想したけれど、冷静に考えると全然違うような気がするし。アフリカで生きるエフィアの子孫と、アメリカで生きるエシの子孫。それぞれがそれぞれの場所で、それぞれの時代を生きている。イギリスから独立しようというゴールドコーストと、奴隷制支配下にあるアメリカ。そこから時は進んで自由を獲得していく。アフリカとアメリカは繋がっているという当たり前の事実を目の前に突きつけられて刺激的だった。教科書で学んだ歴史的事実としては知っていたのに、こうして物語として書き起こされてみると、何か別種の驚きがあるから不思議だ。フィクションの効用は、細部をでっちあげてテーマパークみたいに読者を疑似体験させることにあるのかもしれない。

キリスト教は「赦し」の文化。赦してくださいと祈りながら悪行を重ねる。赦しは事後的なものだから、その前にどんなに悪行を重ねても結果的には正当化される。最後にはどんな悪人でも天国に行けてしまう。これは随分とふざけた理屈である。自分たちの土地を植民地にされ、奴隷として売り飛ばされたアフリカ人からしたら、その罪業くらいはせめて背負ってくれと思うのではなかろうか。死んだら地獄へ落ちやがれ、みたいな。それが全部赦されてしまうのだから、キリスト教とは支配者にとって都合のいい宗教である。アフリカ人から見たキリスト教は手前勝手そのもので、こういう視点で宗教を捉えたのも個人的にはツボだった。

エフェイアとエシの末裔(どちらも7代目)が自由になった世界で偶然出会う。こういうのって現実で起きたら出来過ぎだけど、フィクションだと素直にいい話だなと思う。火と水のイメージを絡めつつ、子々孫々にわたって黒い石を受け継いでいく。この辺はちょっとベタな感じがしたけれども、一方でこういう象徴はそれなりに効果的なわけで、終わってみれば充実した読後感が残った。ゴールドコーストが終盤でガーナという呼び名になっていたのは感動的である。長いスパンで見れば、世界は確実に良くなっているのだ。

マリオ・バルガス=リョサ『つつましい英雄』(2013)

★★★★

(1) ピウラ。運送会社の経営者フェリシト・ヤナケの元に脅迫状が送られてくる。内容は、会社の安全のために月々500ドル払えというものだった。フェリシトは自分のポリシーを守るため、その要求を突っぱねる。彼はマフィアに屈しない英雄として新聞で有名になるも、愛人のマベルが誘拐されてしまうのだった。(2) リマ。保険会社の経営者イスマエル・カレーラは80代。妻は既に亡くなっており、双子の息子は揃ってろくでなしの悪党になっている。双子が自分の死を願っていると知ったイスマエルは、密かにメイドのアルミダと結婚、彼女を遺産の継承者にする。双子は結婚の無効を主張するのだった。

「心理士に頼るのは危険だと君に言っただろう」と、リゴベルトがルクレシアに思い出させた。「いったいいつ、君の言うとおりにしようと思ったのか、わからない。心理士は悪魔そのものよりもっと危険となりうるんだ、フロイトを読んだときから、わかっていたよ」(p.119)

バルガス=リョサの小説って『緑の家』【Amazon】は読みにくかったし、『世界終末戦争』【Amazon】はやたらと長かったしで苦手意識が強いのだけど、本作はまるでハリウッド映画のように娯楽性が高くて面白かった。奇数章と偶数章で2つの異なるプロットが交互に展開、そのどちらもサスペンフルで先が気になるという。奇数章のプロットは、警察がマフィアと思しき脅迫者を追いかけるミステリ小説的な楽しみがあるし、偶数章のプロットも、悪党の双子が非合法的な手段に訴えかけてくるうえ、サブプロットに悪魔騒ぎが盛り込まれていて読ませる。このようにエンタメ度の高いプロットのほか、地域性の強い細部や実験的な会話文の挿入など、非常に厚みのある内容になっていて、ただの娯楽小説では終わらないところが好ましい。この辺はさすが主流文学の書き手という感じがする。本作はバルガス=リョサノーベル文学賞受賞後初の長編だけど、ノーベル賞作家は受賞して名声を極めると、若い頃みたいな尖った小説は書かずに、こういう純粋に面白い小説を書く傾向にあると思う。正直、『緑の家』みたいな複雑怪奇な小説はもう読みたくないから、これはこれでありがたい。本作はハリウッドで映画化されてもおかしくないくらいの出来なので、娯楽性の高いプロットとペルーの土俗性を同時に味わいたい人にお勧めである。

読み終わってみると、親子の情というのが本作のテーマのような気がしてきた。フェリシトと息子のミゲルは実は血が繋がっておらず、終盤では親から子へ酷薄な宣告が言い渡される。日本だと家族は血の繋がりよりも心の繋がりが重要みたいな価値観があるけれど、この社会では血の繋がりがとても重要なのだ。とはいえ、フェリシトとミゲルについては、ある理由から心の繋がりさえないから救いようがないのだけど。さらに、イスマエルと双子の息子は血が繋がっているのに、親子の絆がまったくなく、あまつさえ反目し合っているのが何とも悲しい。本作は(1) と(2) 、どちらのプロットも親子関係が破綻しているところが共通していて、家族とは何なのだろうとちょっと虚しい気持ちになる。ただその一方、イスマエルに長年仕えてきたドン・リベリゴは、息子のフォンチートとしっかり絆を育んでおり、親子関係についてはこれだけが唯一の救いだった。

子育て中の親や、将来子供を生み育てようとしている人は、本作を読むとけっこう身につまされるかもしれない。

マリリン・ロビンソン『ギレアド』(2004)

★★★★

アイオワ州ギレアド。牧師のジョン・エイムズは、己の死期を悟って幼い息子へ手紙を書き始める。ジョンは1880年生まれの76歳。手紙には、南北戦争に従軍して片目を失った祖父や、無神論者の兄エドワード、親友の息子で色々問題を起こしているジャックのことなどを書き記している。ジョンは息子に自分の知っていることを継承しようとしていた。

キリスト教の観点から眺めるとき、現代世界には、それと知らずにふたつの考えが蔓延している。(もちろん、もっと多くあるだろう。しかし他のものは後回しにできる。)ひとつはこう考えている、宗教、また宗教的体験は、幻想にすぎない(フォイエルバッハや、フロイトなど)。もうひとつはこう考えている、宗教自体は幻想ではないが、あなたの信仰、あなたの宗教は幻想だ。ぼくの判断では、二番目のほうがよりひろく、深く浸透していると思う。なぜかといえば、宗教が本物であるか否かの決め手が、宗教的体験に置かれていて、個々の信仰者にとって都合がいいからだ。(p.199)

ピュリッツァー賞、全米批評家協会賞受賞作。

本作はキリスト教文学になるだろうか。といっても、思ったほど押し付けがましくないうえ、三世代にわたるスケールの大きい話で、登場人物の個性が光る小説だった。過去と現在を行き来して断片的に語っていくスタイルがはまっている。個人的には、牧師が世襲的な職業になっているところが注目ポイントだった。日本だと仏教の僧侶も世襲が多いので、こういうのは世界共通なのだろう。ただ、本来だったら牧師を継ぐべき兄のエドワードが、ドイツに留学して無神論者になって帰国するあたり一筋縄ではいかない。敬虔なクリスチャンの家庭の息子が無神論者になるのって、現代日本でたとえるなら、一般家庭で育った子供が新興宗教に入信するくらいショッキングな出来事だろう。そう考えると、心中察するに余りある。

南北戦争に従軍した祖父がなかなかの傑物だった。彼が志願したのは北軍で、奴隷を逃がすための地下道を作るのにも関わっている。このくだりを読んで、『地下鉄道』みたいなのは本当にあったのだなと感心した。もちろん鉄道は走ってないけど、地下道を使って奴隷を逃がすようなことはしている。前半は祖父についての記述が多く、遠い遠い歴史的領域に触れる楽しみがあった。先祖にまつわる話を後の世代に継承していくのは大切だと思うし、僕の家はそういうことがなかったので、語り手がやっていることはとても羨ましいと思ったりする。生きて語り伝えるのは年寄りの責務だと言えよう。

後半は親友の息子ジャックが話の中心に躍り出る。彼は子供の頃から犯罪まがいのいたずらをしている問題児で、長じてからは語り手に信仰についての急所を突いた質問をして困らせている。たとえばプロテスタントの場合、予定論(予定説)はどうも合理的に説明するのが難しい概念のようで、そのやりとりはアメリカに興味がある人なら一読の価値があるだろう。布教の最前線にいる牧師ですら答えられないとは正直思わなかった。

本作のクライマックスはこのジャックに関わるもので、終盤のある場面は、まるで世界と和解したかのような崇高さがあって感動的だった。有名な無神論者のフォイエルバッハですら、洗礼の美しさは認めていたわけだし。現代人は宗教や国家や法律が虚構であることを意識しているから、こういう話は書きづらいと思うのだけど、それを21世紀になって堂々と書いたのはすごいことかもしれない。ただ、時代を半世紀巻き戻す必要はあったけれど。

というわけで、本作は宗教アレルギーがある人でも抵抗なく読めると思う。かくいう僕がそのアレルギー持ちだったので。