海外文学読書録

書評と感想

ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』(2013)

野蛮なアリスさん

野蛮なアリスさん

 

★★★

女装ホームレスのアリシアが、自分が生まれ育った町コモリについて語る。少年だったアリシアは、新築の家が建つまで両親と弟の4人でコンテナ暮らしをしていた。アリシアはクサレオメコの母親から暴力を受けている。町では再開発が行われようとしており、住民たちは補償金の額を釣り上げようとあれこれ画策していた。

おまえ、俺が将来絶対欲しいもの、何だか知ってるか?

何だよ。

冠。

何のために。

それをかぶって、他のトナカイ全員に、おまえらはみんな間抜けだって言ってやるんだ。

それだけ言えりゃ冠なんて要らねえよ。

要るよ、要るんだ。だってただ鼻が赤いだけじゃだれも話を聞いてくれないからな。ルドルフじゃないと。ルドルフになって出世すりゃ、みんな、聞いてくれるんだ。

じゃあ、そうしな。

うん、そうする。(p.24)

日本の純文学みたいだった。暴力が話の中心にあるけれど、それが詩的な文体によって中和されていて、独特の世界観を作り出している。また、語り手が読者に呼びかけるような形式をとっているものの、特に同情や共感を求めているわけでもなく、物語は挿話を交えながらマイペースに進んでいく。個人的には、『ピンポン』『ギリシャ語の時間』と同じく、韓国っぽさをあまり感じさせないところが注目ポイントだった。食用の犬を飼育しているところとか、焼き肉を食べに行くところとか、そういう知る人ぞ知る要素*1が時々出てくるくらい。人物名や地名が韓国っぽくないし、その国ならではの土俗的な要素もさほどなく、無国籍ぶりが際立っていた。韓国の土地開発問題が背景にあることは、著者のあとがきを読んで知ったけれど、だからと言ってその国特有の何かがあるとは思わなかったし。今まで読んできた韓国の現代文学が、どれも無国籍っぽいのはただの偶然なのだろうか。もっとたくさん読んでサンプルを増やしたいところである。

アリシアの父親が家族を連れて焼き肉屋に行くエピソードが印象に残っている。実はその店は、かつて父親が下男をしていたときの家の主で、父親は彼らに食事の世話をさせたくて店に通っているという。下男をしていたときは、馬小屋と変わらない納屋に住まわされて、残飯や古着を投げ与えられて馬鹿にされていた父親。そういう見下していた相手が客として店に来るのだから、焼き肉屋のほうもたまったものではないだろう。客商売においては、商品に対して金を払うほうが一般的に立場が上であることは言うまでもない。下男だった男を店で世話しなければならないかつての主。こういうことがあるから、我々は安易に他人を邪険にすることができないのだ。いつその人物が立場を利用して自分を困らせにくるのか分からないのだから……。たとえば就職の面接でも、落とした相手が将来の顧客や取引き相手になるかもしれないので、あまり下手な対応はできない。圧迫面接なんてもってのほかである。悪い印象を持たれたら、後で復讐されるかもしれない。そういう意味では、資本主義社会は平等なのだと思った。

*1:犬を食べる文化は中国にもあったような気がする。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(1813)

高慢と偏見 上 (ちくま文庫 お 42-1)

高慢と偏見 上 (ちくま文庫 お 42-1)

 

★★★

ベネット家の次女エリザベスは、人間観察に秀でた20歳の独身女性。そんな彼女が、年収1万ポンド(現在の約1億円)の大地主ダーシー氏と知り合う。ダーシー氏は頭脳明晰の美男子だったが、気位が高くてエリザベスの印象はあまり良くなかった。やがてダーシー氏は密かに彼女に好意を持つようになる。ところが、エリザベスは将校のウィッカムに惹かれるのだった。ウィッカムは幼馴染のダーシー氏によって無一文にされたというが……。

「ダーシーさん、あなたはいつか、自分は人を許せない性格だとおっしゃいましたね。一度憎んだら一生憎みとおすような性格だとおっしゃいましたね。そうすると、間違って人を憎まないように注意なさるんでしょうね?」

「もちろんです」ダーシーは強い調子で言った。

「それに、偏見で目が曇らないように注意なさるんでしょうね?」

「もちろんです」

「最初に正しい判断をするのが、自分の意見を変えない人の義務ですわね」

「失礼ですが、この質問の目的は何ですか?」

「ダーシーさんの性格を解明することです」エリザベスは冗談っぽく言った。「どうしてもあなたの性格を知りたいんです」

「で、結果は?」

エリザベスは頭を振った。「うまくいきません。いろんな噂が耳に入って、それがほんとなのか、さっぱりわかりません」(上 pp.163-164)

読んでいる最中はやや冗長かなと思ったけれど、終わってみればそれなりに満足感があって良かった。実を言うと、登場人物の恋愛にはあまり興味がないんだよね。恋愛小説も恋愛映画も特に好きというわけでもないし。ただそれでも、本作は19世紀に書かれた古典なので、当時の価値観や生活習慣を知ることができて興味深かった。たとえば、当時は朝10時にたっぷりとした朝食をとって昼食はなく、午後4時頃から1日の中心的な食事であるディナーをとったとか*1。また、本の抜書きをすることが当時の女性の教養とされていたとか*2。さらには、妻子ではなく遠縁の男子に遺産がいく限定相続という制度があって、それが配偶者(ベネット夫人)を苦しめている。さすがにこれは理不尽だと思った。夫が先に死んだら妻は屋敷から放り出されるわけだからね。ベネット夫人の先行きが心配である。

作中に出てくる結婚観も面白い。エリザベスの親友シャーロットは、教育はあっても財産がないため、結婚を人並みに生きるための唯一の生活手段と割り切り、幸福になれないと分かっているにもかかわらず、財産を持ったクズ男と結婚している。これで飢えだけは免れるというわけ。生存戦略に基づいたとても現実的な行動だ。また、お金のない者同士が好きになっても不幸になるというシビアな結婚観も飛び出してきて、当時の婚活も今と変わらないくらい大変だと思った。そして、なかでも僕が驚いたのは、女性が男性からプロポーズされても、女性のほうに断る権利があるところ。昔の日本みたいに、家の都合で無理矢理結婚させられるわけじゃないのは意外だった。

キャラクターも現代の小説と遜色ないくらい立っていて魅力的だった。ベネット氏の英国人らしい意地の悪いひねくれたユーモアは最高だし、ベネット夫人の頭が悪くてKYな振る舞いも愛すべき性格である。コリンズの高慢なところ、ウィッカムのクズなところも、ドラマを盛り上げる大きな要素だろう。キャラクター絡みだと、コリンズがキャサリンにプロポーズする第十九章は、お互いの気持ちがまったく噛み合ってなくてとても笑える喜劇になっていた。また、第五十六章にあるエリザベスとキャサリン夫人の修羅場も見どころだろう。2人の言い争いはどこか言葉の格闘技といった趣きがある。こうして振り返ると、本作はストーリーよりもキャラの掛け合いのほうが面白かったと思う。

ところで、この小説は書き出しが良かった。

金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中にちがいない。これは世間一般に認められた真理である。

この真理はどこの家庭にもしっかり浸透しているから、金持ちの独身男性が近所に引っ越してくると、どこの家庭でも彼の気持ちや考えはさておいて、とにかくうちの娘にぴったりなお婿さんだと、取らぬタヌキの皮算用をすることになる。(p.7)

実はこの後にベネット氏とベネット夫人の会話が続くのだけど、これが毒と笑いの入り混じった絶妙なユーモアに溢れていて、第一章は丸々引用したくなるくらい気に入った。小説の導入部としてはかなりのものだと思う。特に恋愛小説に興味がない人も、第一章だけ立ち読みすることをお勧めする。

 

*1:午前11時から午後4時までがモーニングと呼ばれた。

*2:余談だが、僕もノンフィクションについては気になる箇所を抜書き・要約して非公開のブログに保存している。こうしておくと必要なときに引用できて便利。

ウィリアム・シェイクスピア『リチャード三世』(1592-3?)

シェイクスピア全集 (7) リチャード三世 (ちくま文庫)

シェイクスピア全集 (7) リチャード三世 (ちくま文庫)

 

★★★★

グロスター公リチャードは、長兄のイングランドエドワード四世が病に伏せるなか、次兄のクラレンス公ジョージを謀殺する。王が死んだ後は邪魔な貴族を処刑し、甥のエドワード五世から王位を簒奪、リチャード三世として即位する。2人の甥を殺害したリチャード三世だったが、やがて各地で反乱軍が蜂起するのだった。

マーガレット お黙り、侯爵殿、でしゃばるんじゃない。

新米の爵位は出来立ての金貨同様、世間では通用しない。

お前みたいな新入り貴族にも、

位を失う惨めさがどんなものか分かってもらいたいものだ。

高々とそびえる樹ほど風当たりは強い、

いったん倒れれば、木っ端微塵に砕けしまう。(p.55)

『ヘンリー六世』の続編。

これは四大悲劇*1に匹敵するくらい面白いんじゃないかな。まあ、そこまでは言い過ぎとしても、とにかくリチャードが比類なきダークヒーローといった感じで魅力がある。漫画家の荒木飛呂彦は『荒木飛呂彦の漫画術』【Amazon】において、漫画の「基本四大構造」にキャラクター、ストーリー、世界観、テーマ(重要な順)を挙げ、キャラクターで一番大事なのは「動機」だと書いていた。ではリチャードの動機は何かといったら、それは世界への憎悪である。のっけから独り言でそのことを表明しており、彼の行いはすべて憎しみに源泉があるのだということが分かる。「どうせ二枚目は無理だとなれば、/思い切って悪党になり、/この世のあだな楽しみの一切を憎んでやる。」(p.11)。僕も仕事の最大のモチベーションは憎しみなので、彼の気持ちはそれなりに理解できる。というか、理解できるところがちょっと怖い。ともあれ、憎しみを燃料にして王にまでのし上がる彼の覇道は、実に冷酷極まりなくて魅力的だ。実の兄を謀殺し、邪魔な貴族を処刑し、幼い甥から王位を奪った挙げ句に容赦なく殺す。のみならず、自分がその夫を殺して未亡人にした女を口説いたりもする。第一幕にあるリチャードとアン(故ヘンリー六世の王子エドワードの未亡人)のやりとり、第四幕にあるリチャードとエリザベス(エドワード四世の妃)のやりとりは、話の流れに意外性があって読ませる。非情な野心家を描いた本作は、漫画化したらかなりヒットしそうだ。

シェイクスピアの魅力はセリフ回しにあるなと思った。たとえば、本作ではマーガレット(故ヘンリー六世の妃)が予言を吐く魔女みたいな役柄になっていて、貴族たちのいる場で呪いの言葉を撒き散らしている。その狂女ぶりは人間を超越した何かを感じさせて不気味だ。さらには、ロンドン塔に来た暗殺者コンビの会話も注目に値する。彼らはリチャードの命令で次兄のクラレンスを殺害しに来たのだけど、その会話はとてもこれから人を殺すとは思えない諧謔にあふれていて、個人的にはヘミングウェイの「殺し屋」【Amazon】を連想した。シェイクスピアが苦手だという人は、是非そのセリフ回しに注目して読んでみてほしい。彼の戯曲はそこが最大の見どころだから。

*1:ハムレット』【Amazon】、『オセロー』【Amazon】、『マクベス』【Amazon】、『リア王』【Amazon】。

ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(1940)

僕の名はアラム (新潮文庫)

僕の名はアラム (新潮文庫)

 

★★★★

連作短編集。「美しき白馬の夏」、「ハンフォードへの旅」、「ザクロ」、「わが未来の詩人」、「五十ヤード競争」、「恋の詩に彩られた美しくも古めかしきロマンス」、「雄弁家、従弟ディクラン」、「長老派教会合唱隊」、「サーカス」、「三人の泳ぐ少年とエール大学出身の食料品屋」、「オジブウェイ族、機関車三十八号」、「アメリカ旅行者への田舎者の忠告」、「哀れ、燃える熱情秘めしアラビア人」、「神を嘲けるものに与える言葉」の14編。

サーカスは私たちのすべてだった。サーカスは冒険であり、旅行であり、危険であり、至芸であり、美であり、ロマンスであり、喜劇であり、ピーナッツであり、ポップコーンであり、チューインガムであり、ソーダ水であった。私たちは象に水を運んで行って、そのままそこに腰をすえ、ひとびとが大きなテントを組みたてて、準備をととのえる有様をながめていた。お客に金を使わせるために世なれたひとたちがめざましい活躍をしている様子を、私たちは何もかも知っているような顔をして眺めていた。(pp.134-135)

晶文社の旧訳(『わが名はアラム』清水俊二訳)で読んだ。引用もそこから。

郷愁をそそるとても良い短編集だった。本作の舞台は、1915年から25年までのカリフォルニア州フレズノ。語り手のアラムはアルメニアからの移民で、彼の9歳から10代後半までの牧歌的な生活を描いている。人々は広大な土地で農業をしながら暮らしているようだけど、それにしても読者である僕とは全然違う環境なのに、ここまで懐かしさをおぼえるのはどういうことなのか。従兄と馬に乗ったり、平日にサーカスを見物に行ったり、学校で教師に鞭打たれたり。また、ちょっと愚鈍な感じの大人と対等にやりとりもしている。僕の子供の頃なんか、野球と缶蹴りとテレビゲームくらいしかやってなかったからね。アラムとはほとんど共通点がない。にもかかわらず、まるで我がことのように懐かしさをおぼえる。おそらく本書に描かれたエピソードには、人類普遍の古き良き何かがあるのだろう。それにアラムの語り口がすごく良いのだ。淡々と出来事だけを語っていて、本来的な意味でのハードボイルドっぽさがある。訳者の清水俊二レイモンド・チャンドラーの小説も訳しているから、こういうのはお手の物という感じ。全体的に深い感動みたいな派手さはないものの、随所に控え目なユーモアが散見されて地味な良作といったところだった。

「美しき白馬の夏」は勝手にご近所さんの白馬を拝借して乗り回す話だけど、盗みがバレたときのご近所さんの反応がとても緩くて微笑ましい。「ザクロ」は砂漠に果樹園を作ってザクロを育てる話。結局事業は失敗してしまい、ラストは何とも言えない寂寥感がある。「恋の詩に彩られた美しくも古めかしきロマンス」は、黒板に女教師を馬鹿にする詩を書いたとしてアラムが濡れ衣を着せられる。アラムと教師のやりとりがとてつもなく理不尽で笑ってしまう。「雄弁家、従弟ディクラン」は、戦争を体験した者ならではの重みがあって、子供(ディクラン)の演説を聞いたおじいさんの論評が胸に突き刺さる。これは全文引用したいくらい。

「オジブウェイ族、機関車三十八号」は本書の中で一番好きかも。まず書き出しが素晴らしい。

ある日、ひとりの男がロバに乗って町にやってきて、そのころ私が一日のほとんどすべての時間をすごしていた図書館のなかをうろつきはじめた。その男はオジブウェイ族の若いインディアンで、背の高い男だった。彼は機関車三十八号という名前であると私に告げた。町のものはみんなこの男は気ちがい病院から逃げてきた男にちがいないと信じていた。(p.168)

実はこの後の展開も意表を突いたもので、アラムとの破天荒なひとときはまるで宝物のようだった。僕も彼みたいな立場だったらこういうことをやってみたい。でも、現代社会じゃ不審者扱いされてとてもじゃないができないだろうなあ……。

というわけで、子供時代の郷愁をたっぷり味わった。

巴金『寒い夜』(1947)

寒い夜 (岩波文庫)

寒い夜 (岩波文庫)

 

★★★

抗日戦争下の重慶。半官半民の出版社に勤める汪文宣は、妻の樹生と喧嘩して家から逃げられていた。文宣は樹生が勤めている銀行の前に行き、彼女と色々あった末に家に帰ってきてもらう。しかし、樹生は文宣の母親と折り合いが悪く、家の中で言い争いをするのだった。やがて文宣は吐血して病の床に着く。折しも日本軍が近くまで迫っているとの噂が広がっていた……。

彼女たちはいったい何でこういつもいつもいがみあっているのだろう? 何でこんな少人数な家庭で、こんな単純な関係のなかで調和を保って行けないのだろう? 何でこの自分が愛しまた自分を愛してくれている女たちが敵同士のように顔を合わせば攻撃し合わねばならないのだろう? (p.252)

集英社版世界文学全集で読んだ。引用もそこから。

これはまた何ともつらいシチュエーションだった。文宣は妻も母も愛しているし、妻と母も文宣のことを愛しているのだけど、女同士でいわゆる嫁姑問題が起きていて、家庭内に不和が生じている。妻の樹生は大学を卒業した34歳の女性で、職場の同僚とダンスに行くくらい進歩的。一方、文宣の母はそれなりに教育を受けてはいるものの、考え方は古風で進歩的な嫁とは反りが合わない。おまけに、母が文宣のことを溺愛しているのも問題だ。そのせいで樹生に対してより当たりが強くなっている。声優の明坂聡美は結婚相手に望む条件として、「長男でない」ことを一番に挙げていたけれど*1、これは圧倒的に正しい判断だと言わざるを得ない。せっかく夫とは相思相愛なのに、姑がああでは幸福な生活は送れないだろう。また、夫は夫で問題があって、妻と母の双方を取り持とうと躍起になっているところが痛々しい。もうここまで来たらどちらかを捨てるしかないのに、文宣は妻には我慢してくれと言い、母には妻のことを本当は良い人なのだと説いている。さらに、彼は自己犠牲の精神も強い。病気になってからは、妻に対して自分から離れて幸せになるよう幾度となく諭している。このお人好しぶりが実に罪深く、妻の良心を苛んで精神的に自由にしない原因になっている。いっそのこと暴君だったら、遠慮なく離婚できるというのに……。

戦時下の庶民の生活を描いたフィクションが好きだ。中国だと、日本軍の占領下にある横丁が舞台の『四世同堂』。日本だと、米軍の爆撃に晒される広島が舞台の『この世界の片隅に』【Amazon】。どちらも非常事態を前にして、力なき者はどういう生活を強いられるのか、そういう僕たち庶民にとって身近なものを描いている。自国が戦場になるとはどういうことなのかを骨の髄まで思い知らされたのだった。そして、本作も戦時下が舞台なので、日本軍の動向が登場人物たちを一喜一憂させている。日本軍が近所まで迫ってきた。やべー。日本軍が近所から撤退した。やったー。日本軍が降伏して戦勝に沸くなか、文宣がひっそりと死ぬところは残酷な対比だと思った。

実は本作の主人公は樹生かもしれない。というのも、これは一人の女が葛藤の末に自由と幸福を選び取る話でもあるからだ。女にとって「家」とは、当人を雁字搦めにする監獄のようなもので、その桎梏をいかにして断ち切るかが本作の重要な課題になっている。お人好しで善人の夫を捨てる。病床で今にも死にそうな夫を捨てる。それは倫理的に非難されるかもしれないけど、しかし、自分が幸福になるためにはやむを得ない決断でもある。こういう女性像は、中国文学でもけっこう珍しいのではなかろうか。我々はもっとエゴイストになって良いのだと思う。

*1:他には、「視力が裸眼で2.0、お酒に飲まれない、女癖が悪くない、ギャンブルは程々で家計に手をつけない、暴力をふるわない、三半規管が強い、食べ物の好き嫌いがない、持病があまりなく健康、貯金をしている、家事が出来る、料理が美味しい、虫退治が出来る」を挙げている。

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ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(1988)

フーコーの振り子〈上〉 (文春文庫)

フーコーの振り子〈上〉 (文春文庫)

 

★★★★★

学生運動に沸くミラノ。大学生のカゾボンはテンプル騎士団をテーマにした卒論を書いていた。その彼がガラモン出版の編集者ベルボとその同僚ディオタッレーヴィと出会い、会社に出入りするようになる。ガラモン出版は表向きは良心的な小規模出版社だったが、裏ではオカルト愛好家向けの自費出版も請け負っていた。そこへアルデンティ大佐と名乗る男が、テンプル騎士団についての陰謀論を持ち込んでくる。それをきっかけに、カボゾンたちは「計画」に関わっていくのだった……。

「私は出版社に勤めておりますが、出版社には頭の良いのと変なのがやってきます。編集の仕事というのは、そのうちから一目でおかしい連中を見抜くことでしてね、テンプル騎士団の話を持ちかけてくる連中はまず間違いなく狂っていることが多いのですよ」(上 p.103)

やっぱりウンベルト・エーコの代表作は本作でしょう。テンプル騎士団にまつわる陰謀論を中心に、ヨーロッパ文化の知識・教養がたっぷり詰め込められていて、ここまで知的で衒学的な小説を書ける人はなかなかいない。テンプル騎士団は第1回十字軍を由来とする中世の騎士団で、彼らの貯め込んだ金が欲しいフランス王フィリップ4世によって、14世紀初頭、無惨にも壊滅させられてしまった。しかし、そこから伝説は幕を開け、薔薇十字団、フリーメーソンフランシス・ベーコンイエズス会ユダヤ人といった派生的な要素と繋がりつつ、現代の陰謀論にまで至っている。正直言って、この辺の話題にはほとんどついていけなかったのだけど、それでも終わってみると、本作は一言で要約できるくらいシンプルなプロットになっているから驚きだ。冒頭にクライマックス直前の場面を置いて、そこから回想していく構成が見事にはまっている。書物にはページをどんどんめくっていくものと、一行一行じっくり読んでいくものの2種類があると思うけど、本作は間違いなく後者のタイプで、次から次へと出てくる知識の奔流に圧倒されながら読んだ。陰謀論についてだったら永遠に語り続けることができるのではないか、というくらい徹底的に語り倒している。

陰謀論はいかにして形成されるのかといったら、解釈の過剰さにあるのだと思う。本作の登場人物は、頭が良すぎるゆえに一周回って馬鹿になっているんじゃないかと思うくらいのディレッタントで、理屈と膏薬はどこへでもつくみたいな精神で陰謀論を練り上げていく。薔薇十字団からユダヤ人まで、いかにもな話題がてんこ盛りでお腹いっぱい。どれが妥当でどれが無理筋なのか僕にはまったく判断できなかったけれど、下巻でフランシス・ベーコンシェイクスピアの戯曲の著者だというネタが出てきたところで、ああ与太話なんだなということに気づいた。そして、テンプル騎士団の話が「振り子」にまで繋がる壮大さはけっこう感動的であった。本作を読むと、小説においてストーリーは乗り物で、次の場面を出現させる装置なのだということを意識させる。それくらい機能的に場面場面が移っていく。

これからウンベルト・エーコの小説を読もうという人は、まず『プラハの墓地』から入るのが良いと思う。本作と同じく陰謀論を扱っているけれど、こちらは娯楽性が高くて読みやすい。まるでスパイ小説のような面白さである。

シャーロット・P・ギルマン『フェミニジア』(1915)

フェミニジア―女だけのユートピア

フェミニジア―女だけのユートピア

 

★★★

ジャングルの探検に来ていたアメリカの若者3人(テリー、ジェフ、ヴァン)が、現地人から「女だけの国」の存在を聞かされる。3人はその国をフェミニジアと名付け、飛行機で乗り込むことに。ところが、到着して間もなく彼らは女たちに拘束されて監禁されてしまう。監禁中に言葉を教えられた3人は、その国に2000年のあいだ男がいなかったことを聞かされる。フェミニジアは女だけのユートピアだった。

この国の母は誰もが神聖な存在だ。彼女たちにとってはいつの世も、母となることは、このうえない愛情とあこがれをもち、心をこめて、つまり「至高の望み」を抱いて子どもを待ち望むことだった。(……)誰もが、母となることをほかの務めよりずっと崇高なことだとみなしている。(p.248)

この小説の何がすごいって、フェミニジアが本当にユートピアだったところだ。国の広さはオランダと同じくらいで、人口は300万人ほど(けっこう規模が大きい)。処女生殖によって女だけが生まれるようになっていて、国には文字通り女しかない。ここでは母性がすべての基盤になっており、住人には「女らしさ」が著しく欠乏している。そもそもこの「女らしさ」とは生まれつき持っているものではなく、女が男を喜ばせるために無理矢理作り出されたものなのだ。「男らしい」とか「女らしい」とかいった基準が社会に存在しないのは、現代のフェミニズムにも通じる先駆的な見解と言えるだろう。そして、人々は愛国心ではなく、人類愛で結ばれているのだから頭が下がる。女が「女」ではなく、「人」として扱われる社会。その社会構造は完璧だし、人の内面も成熟している。まさに非の打ち所のないユートピアだった。

とはいえ、母性がすべての基盤になっているのは、現代の観点からすれば反PC的と言えるだろう。この社会では女はまるで「産む機械」になっていて、子供を産み育てることが生活のなかで最重要課題になっている。子供を産み育てることが生きがいであり、彼女たちにとっては名誉なのだ。現代では結婚していても子供を持たない夫婦は当たり前のようにいるし、生涯独身で子供を持たない男女もこれまた当たり前のようにいる。「産めよ増やせよ」とは結局のところ、個人が社会のために奉仕することであり、そういう全体主義的な価値観は、戦後の現代社会ではさすがに受け入れ難い。この辺はちょっと時代の制約を感じさせるところで、いくらかケチがつきそうではある。

女のためのユートピアといえば、笙野頼子の『水晶内制度』【Amazon】もあるけれど、あちらはフェミニズムを通り越してミサンドリーの領域に踏み込んでいた。本作は現代人からすれば多少違和感があるとはいえ、とりあえずはまっとうなフェミニズムを土台にしている。フェミニズム文学の古典として、なかなか興味深い小説であった。こういうのは昔の人の考えを知るうえで大いに参考になる。