海外文学読書録

書評と感想

オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚』(1979)

キンドレッド―きずなの招喚

キンドレッド―きずなの招喚

  • 作者: オクテイヴィア・バトラー,風呂本惇子,岡地尚弘
  • 出版社/メーカー: 山口書店
  • 発売日: 1992/01
  • メディア: 単行本
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★★★

1976年6月9日。26歳の誕生日を迎えた黒人女性のデイナは、引っ越したばかりの家から突然、河へワープする。そこで溺れていた白人の少年ルーファスを助け、また元の場所に戻る。デイナがワープした場所は奴隷制度下のアメリカ南部だった。さらに、ルーファスはデイナの高祖父であることが判明。以降、デイナはルーファスが死の恐怖を感じるたびに召喚される。

私は奴隷制に関する本を、小説やら、ノン・フィクションやら読みあさった。この問題にはわずかにしか関連していないものでも、家にあるものは全部読んだ。『風と共に去りぬ』まで、部分的にしろ読んだ。でもこの小説の、優しく情愛ゆたかな奴隷制度下の幸せな黒ん坊の図には我慢できなかった。(p.155)

20世紀のアメリカ人が南北戦争前のメリーランド州にタイムスリップし、そこで悲惨な生活を体験する。タイムスリップしたデイナは黒人だから、問答無用で黒ん坊と呼ばれ、基本的には奴隷のような扱いを受けるというわけ。社会全体が自分を敵視する状況は異常という他なく、アメリカの奴隷制はなんて恐ろしいのだと思った。現代人からすれば、白人が黒人を支配する、その正当性がまったく分からないのだけど、それゆえに社会というものの不気味さが感じられる。社会が容認すれば何をやってもいい。黒人を家畜のように扱っても、ユダヤ人を強制収容所で虐殺しても。作中ではナチス南北戦争前の白人の類似性が示唆されていて、西洋の歴史が汚辱に塗れていることを再確認できる。本当にろくでもないよ、西洋人は。

デイナはルーファスを何度も助けたおかげで、彼から好意的に扱ってもらえるのだけど、しかしその好意は破壊的で、デイナに対してしばしば酷い仕打ちをする。ルーファスはデイナに側にいてほしい。そのためには嘘を付いたり、過酷な労働を課したりすることも辞さない。好意的であるがゆえに自分のものにしたいと思っている。このルーファスの子供っぽさは、彼特有の性格というよりも、支配者であることに慣れすぎたからこうなっているのであり、やはり人間にとって環境は重要だと思った。他人を支配するのが当たり前の社会では、相手の気持ちを考えず、ただ支配することだけに心を砕く。結局のところ、我々の内面にある「倫理」や「道徳」は後からインストールされたものであって、本来的には備わっていない。教育がいかに重要であるかがよく分かる。

奴隷制度下のアメリカでは、教育のある黒人が嫌われている。その理由は、主人である白人自身に教育がないからであり、さらには奴隷に自由を吹き込むかもしれないから。奴隷は逃亡できないよう、文字を学ぶことが禁止されているのだ。彼らが本を読むなんて夢のまた夢である。現代でも読書をしない人がたくさんいるけれども、それって自由から最も遠ざかることではないか。たとえば、僕がなぜ読書をするのかと言えば、第一は好奇心を満たすため、第二は社会の奴隷にならないようにするためだ。社会が押し付けてくる「あるべき姿」から自由になるため、そのために書物を通して様々な価値観に触れている。社会というのは自発的な奴隷を作るために、とにかく大衆を洗脳したがるものである。義務教育だったりテレビだったり、子供の頃から従順な家畜を育てようと躍起になっている。僕は昔から「出る杭」だったのでとにかく打たれまくったけれど、とりあえずは折れることなくここまで生きてこれた。周りに左右されない自分だけの「軸」を手に入れることができた。それもこれも読書のおかげなので、自由になりたい人はたくさん本を読むべきだと思う。

マリー・ンディアイ『ロジー・カルプ』(2001)

ロジー・カルプ (ハヤカワepi ブック・プラネット) (ハヤカワepiブック・プラネット)

ロジー・カルプ (ハヤカワepi ブック・プラネット) (ハヤカワepiブック・プラネット)

 

★★★

妊娠中のロジー・カルプが、6歳の子供ティティーを連れてカリブ海に浮かぶグアドループにやってくる。彼女はフランス本土での生活に限界を感じ、事業で成功している兄ラザールを頼ることにしたのだった。空港で待っていると、見知らぬ黒人の男が迎えにくる。やがて物語は彼女の過去へ……。

ジー・カルプという名の若い女が、アントニーの平穏で裕福さを隠した小さな通りを、手入れの行き届いた生け垣に沿って歩いていた。ロジーは、片手を柵の網目と葉の茂みに走らせながらマユミの木の生け垣に沿って歩いているロジー・カルプという名のこの若い女だった。自分がロジー・カルプであることを彼女は知っていた。いま穏やかな足取りで、アントニーの閑静な住宅街のよく刈り込まれた生け垣に沿って歩いているのは、ロジーでもロジー・カルプでもある彼女なのだ。(pp.145-146)

これはなかなか奇妙な小説で、登場人物のほとんどがまともじゃないところが印象的だった。ひとことで言えば、リアルな世界を微妙に歪ませたような感じ。旧来的なリアリズム小説がアナログ写真だとすると、本作はデジタル写真といったところで、現代文学は人物の心の襞にまで注意を払って解像度をあげる反面、様々なフィルターをかけて全体像をぼかす。本作の登場人物はそういう胡乱なフィルターがかかっていて、結果的には奇怪な人物が跋扈するワンダーランド的な小説になっていた。もちろん、フランスではこれがリアルだという反論があるかもしれない。みんながみんな自己中心的で、他人を収奪することに躊躇いがなく、場合によっては殺人まで犯す、そんな人間で溢れているのかもしれない。ただ、今まで読んできたフランス文学にはここまで違和感をおぼえなかったので、やはりこれはまともじゃないのだと推測できる。

とりわけ気になるのが親子関係のドライさだ。ロジーもラザールも親が敷いたレールから外れてしまうのだけど、そこを他人事のように冷たく突き放されてしまう。かと思えば、ラザールが事業を始めようとグアドループに移住するとき、両親もちゃっかりついていったりする。その際、ロジーだけはのけものに。さらに、ロジーはロジーで、具合の悪い息子を放置して瀕死にさせるのだった。これを読むと、家族っていったい何なのかと思う。フィクションでよく見る円満な関係は実はファンタジーで、現実は本作ほどではないにせよ、どこか歪なのではないか。親は親のエゴで子供を産み、子供は子供で親から利益を引き出そうとする。無償の愛なんていうのは嘘っぱち。親子も兄弟もそれぞれ他の家族を収奪の対象と見做している。

これを現代日本にまで敷衍すると、Twitterでよく見かける毒親問題に及ぶのではなかろうか。というのも、Twitterでは過去に虐待を受けた人たちが、親への恨み節をちょくちょくツイートしている。たとえば、子離れ出来ない母親の過干渉だったり、習い事を過剰にやらせる教育虐待だったり、子供の自尊心を奪う罵詈雑言だったり。そういうのを受けて育った人たちが一定数存在している。これらは結局のところ親のエゴが強すぎるから起きているのであり、本人に自覚はないにせよ、子供が収奪の対象になっているわけだ。やはり無償の愛なんていうのは嘘っぱち。現実は現実で地獄なのである。そう考えると、本作は意外とリアルなのかもしれない。

フェルディナント・フォン・シーラッハ『罪悪』(2010)

罪悪 (創元推理文庫)

罪悪 (創元推理文庫)

 

★★★★

連作短編集。「ふるさと祭り」、「遺伝子」、「イルミナティ」、「子どもたち」、「解剖学」、「間男」、「アタッシュケース」、「欲求」、「雪」、「鍵」、「寂しさ」、「司法当局」、「精算」、「家族」、「秘密」の15編。

「人を殺したことはあるか?」男はアトリスとフランクにたずねた。

フランクは首を横に振った。

チェチェン人はポテトチップスと同じだ」ロシア人はいった。

「えっ?」フランクはわけがわからなかった。

「ポテトチップスだよ。チェチェン人は、袋入りのポテトチップスと同じなんだ」

「よくわかんないんだけど」フランクはいった。

「奴らを殺しだすと、やめられなくなるんだ。全員殺すまでな。全員を殺すしかねえ。ひとり残らずだ」ロシア人は笑った。そして突然、真顔になって、指の欠けている自分の手を見つめた。(pp.129-130)

『犯罪』と同様、弁護士を語り手にした犯罪実録風の連作だけど、淡々とした叙述がまるでハードボイルド小説みたいで、静かな迫力をたたえている。この文体はちょっと癖になるかもしれない。

以下、各短編について。

「ふるさと祭り」。夏祭りの最中、17歳の娘が楽団員たちにレイプされる。被疑者は8人いて、そのうちの誰か1人が事件を通報していた。弁護士とは因果な商売で、明らかに犯罪者と分かっていても、そして裁かれるべきだと分かっていても、そちら側の利益に尽くすしかない。軍隊では初めて人を殺したときに「童貞を失った」と表現するけれど、新人弁護士である「私」はこの事件で童貞を失った。もう純潔ではないのだ。

「遺伝子」。カップルが過剰防衛で人を殺すも証拠不十分で釈放、その後結婚してまっとうな社会生活を送る。ところが、科学の進歩によって事件が暴かれるのだった。2人の決断には驚いたけれど、それ以上にラスト一文が意表を突いていてなかなかインパクトがあった。そういう理由で自宅を避けたのか、みたいな。

イルミナティ」。私立の寄宿学校に入学したヘンリーが、ある罪悪を犯したことで生徒たちに首を吊られることに……。こういう秘密結社の儀式はいかにもヨーロッパという感じでけっこう好きだったりする。寄宿学校も同様。当初はヘンリーが殺されるのかと思ったら、そこはちょっと捻ってあった。ヨーロッパの歴史と文化に根ざした文芸風の短編。

「子どもたち」。小学校の女教師と結婚した男が、ある日突然逮捕される。容疑は24件の児童虐待で、被害者は女教師の生徒だった。終盤のどんでん返しはわりとありがちだけど、しかしまあ、けっこうショッキングだったのは確か。振り返ってみると、何でこの受難を避けられなかったのかと思う。本作を読んで足利事件を思い出した。

「解剖学」。男が女を拉致して解剖しようとするが……。運命の一撃ってやつかな、これは。弁護士の「私」が意外な理由でひょっこり顔を出すところがまた良い。

「間男」。社会的地位の高い中年夫婦の性的逸脱。そこから夫が男を灰皿で殴りつけて瀕死の重傷を負わせる。こんなことがあっても夫婦関係が崩れないのがすごいよなあ。性的逸脱をしたのは「中年の危機」のせいかと思ったけど、そんな単純なものでもないみたい。本作はドイツ刑法の解説もあってなかなかお得だった。

アタッシュケース」。婦警がポーランド人の車を検査すると、アタッシュケースのなかから死体の写真が出てきた。警察はポーランド人を勾留して事情を聞く。すごい奇妙な状況でぐいぐい引っ張られた。やっぱ謎がある物語は好奇心をそそられるね。ラストもけっこうなインパクト。思うに、高度に発達した犯罪小説はホラー小説と変わらないのかもしれない。

「欲求」。夫婦関係が冷めて万引きに手を染める妻。万引き依存症って日本でも少し前から話題になっていたけれど、同じことはドイツにもあるようだ。しかしまあ、家族に知られないまま元の鞘に収まるのって、本人にとっては良いことなのかな?

「雪」。麻薬密売の容疑で老人が逮捕される。黒幕が誰か自供するよう迫られるが、彼は黙秘をする。犯罪に手を染めるしかない社会の底辺を、温かく見つめるところが本作の魅力だろう。一方で、黒幕のハッサンは救いようがないのだけど。本作は著者らしい一風変わったクリスマスストーリーだった。

「鍵」。フランクとアトリスがロシア人から麻薬を買おうとするが、それがとんでもないトラブルに発展する。犯罪世界を舞台にした喜劇で面白かった。鍵を巡って二転三転するのだけど、これがまた理不尽極まりない。さらに、登場人物がやたらとキャラ立ちしていて笑える。ロシアの女って怖いなあ……。

「寂しさ」。14歳の少女が父親の友人に強姦されて妊娠、トイレで出産して赤ん坊を死なせてしまう。強姦による望まない妊娠はきつい。でも、こういうトラウマを抱えた人が、大人になってちゃんと子供を生み育てているところに救いがある。

「司法当局」。不具の中年男が人違いで逮捕される。「権利の上に眠る者は保護に値せず」という格言があるけれど、これって司法当局の怠慢じゃないかと思うんだよね。税金もらってるんだから自発的に動けよって感じ。

「精算」。夫のDVに10年間苦しめられてきた妻。ある日、夫が娘を自分の女にすると言い出した。妻は夫が寝ているときに彼を撲殺する。明らかに情状酌量の余地があるのだけど、法律上はそれが適用できない。じゃあどうするかと言ったときに、これを正当防衛にするのはアクロバティックだった。法律と人情の上手い妥協点。

「家族」。大学入学試験で好成績を修めたヴァラーだったが、まもなく父親が事故死する。彼は進学をやめて日本へ。とんとん拍子に出世して金持ちになる。父親違いの弟は犯罪者で、父親もナチス時代に強姦をしていた。当のヴァラーは若くして死んでしまう。こういうのを読むと、人生って何だろうなあって思う。

「秘密」。カルクマンと名乗る男が、自分は諜報機関に追われてると言ってきた。「私」は彼を精神病院に連れていく。オチがまるで落語みたいだった。掉尾を飾る短編がこんなんで良いのかと思ったけど、まあ、読後感が良いのでこれはこれでありかな。

アレクサンドル・デュマ・ペール『モンテ・クリスト伯』(1844-1846)

モンテ・クリスト伯 7冊美装ケースセット (岩波文庫)
 

★★★★★

1815年。マルセイユの船乗りエドモン・ダンテスは、会計士のダングラールと恋敵のフェルナンに妬まれ、彼らの謀略で婚約披露の席上逮捕される。検事代理のヴィルフォールの思惑によってマルセイユ沖のシャトー・ディフに収監されたダンテスは、そこで同じ政治犯のファリア神父と出会い、彼に財宝の在処を聞かされる。ダンテスが脱獄したとき、逮捕から14年が経っていた。財宝を手に入れたダンテスはモンテ・クリスト伯を名乗り、自分を陥れた者たちに復讐する。

メルセデス」と、おうむ返しにモンテ・クリスト伯が言った。「メルセデス! そうでした! なるほどそのお名前を口にすると、わたしはいまでも楽しくなります。そしてああしたずっとむかしから、そのお名前が口から出ながら、きょうほどさわやかな響きをたてたのははじめてです。おお、メルセデスさん、わたしはいつも、悲しみの溜息や、苦しさのうめきや、絶望のあえぎとともに、お名前を口にしていたのでした。牢屋の藁の上にうずくまり、寒さに体を凍らせながら、お名前を呼んでいたのでした。あまりの暑さに苦しめられ、牢屋の敷石の上をころがりながら、お名前を呼んでいたのでした。メルセデスさん、わたしは復讐せずにはいられません。十四年ものそのあいだ、苦しみつづけ、十四年ものあいだ、泣いたり呪ったりしてきたのですから。メルセデスさん、わたしははっきり言いましょう、わたしは、復讐せずにはいられません!」(vol.3 p.197)

新潮社の世界文学全集で読んだ。引用もそこから。

これは誰が読んでも最高の小説と認めるんじゃないかな。さすが19世紀大衆小説の頂点と言われるだけのことはある。中盤まではじっくりと下地を作っていくような感じでいまいち低調だったけれど、復讐が始まる終盤からはえらい快調で、まさに巻を措く能わずだった。本作の特徴はとにかく段取りがしっかりしているところだろう。獄中でエドモン・ダンテスが神父と邂逅するくだりや、脱獄して財宝を手に入れるくだりなど、序盤からディテールが入念に描かれている。長編小説、とりわけ本作のような大長編は、巨大な建築物に似ていると思う。ひとつひとつの場面を丁寧に描きつつ、遥か終盤に向けて巧みに伏線を張り巡らせていく。あらかじめ図面が用意してあって、それに沿って粛々と物語を組み立てていくような感じ。こういうどっしりした面構えの建築物って、現代でもなかなかお目にかかれないだろう。小説という形式は、19世紀で一度は完成したのだと実感した。

越川芳明『アメリカの彼方へ』【Amazon】によると、19世紀の小説は社会的・歴史的なドキュメントだったという。当時の大衆は小説からあらゆる種類の事柄を知った。銀行業務、炭坑、ロンドンのスラム街、田舎の生活や都会の生活など。テレビもラジオもない時代。小説がその役割を果たした。その伝で行けば、本作もドキュメント的な側面が多分にあると言える。船乗りの生活からパリの社交界まで、扱っている事柄は幅広い。特に現代の読者からしたら、19世紀フランスの空気を味わえるところがポイントだろう。昔の人がどのような出来事に関心を持ち、どのような日々を送っていたのか。生活の細部、社会構造の細部。それらを肌で感じられたのが収穫だった。

本作の良いところは、復讐の計画が周到に練られているところだ。エドモン・ダンテスがモンテ・クリスト伯として娑婆に再臨したとき、復讐対象は一人を除いてみな貴族になっていた。それぞれが自分を踏み台にして不当に成り上がっていたわけだ。これはかなりムカつく状況だけど、モンテ・クリスト伯ほどの財力があれば、腕っこきの山賊に対象を拉致させ、地下室に監禁して延々と拷問することも出来た。しかし、彼はそういう無粋なことはしない。相手を社会的に抹殺するため、手の込んだ復讐計画を実行している。結果的にはそれが数々のドラマを生んでいて、報いを受ける者たちも各人各様、終盤は読ませる展開になっている。

本作の最大の見せ場は、エドモン・ダンテスのかつての婚約者だったメルセデスが、モンテ・クリスト伯に自分の息子を殺さないよう頼み込むところで、これはもうせつなさMAXだった。メルセデスモンテ・クリスト伯の復讐対象に嫁いでおり、他の人たちが彼の正体に気づかないなか、唯一ひと目で彼をエドモン・ダンテスだと見抜いている。謀略によって離ればなれになった二人。再会した二人のやりとりを読んで、小説って良いもんだなあと至福のときに包まれた。19世紀の小説はシンプルで面白いから好きだ。

ミュリエル・スパーク『あなたの自伝、お書きします』(1981)

あなたの自伝、お書きします

あなたの自伝、お書きします

 

★★★

1949年。フラー・トールボットは小説第一作を書き上げて、間もなく作家デビューを果たそうとしていた。そんな彼女が自伝協会という組織に雇われ、名士たちの自伝に修正を加えて面白くする仕事に従事する。ところが、そこでトラブルが発生。小説の出版が反故にされた挙げ句、原稿が何者かに盗まれてしまう。

一九四九年に体験したことを語りながら思うのは、同じ人間が相手でも、現実より小説のほうが扱いやすいということだ。小説であれば、勝手に人物たちをこしらえ、都合よく配置できる。ところが、いざ自分の人生を書く段になると、実際に起きたことも、自然と脳裏に浮かぶ人たちのことも、漏れなく話さねばならない。伝記というのは、くだけたパーティに似ている。客の順位も、歓待の規則もない。招待状もない。(p.53)

本作はミステリ小説みたいに謎で引っ張っていく構成だけど、ストーリーは可もなければ不可もなく、しかし一方で作家である語り手の芸術観が散見されて、意外にも芸術家小説として楽しめた。「読者に好かれたくて詩や小説を書いていたのではない。真実や奇跡の存在を自分の言葉で伝えたかっただけだ。少なくとも私自身、その存在を文章も定着させながら感じ取っていた」とか、「小説というものは、神話という枠組みを備えていなければ価値がない。真の小説家、言い換えれば、小説とは一続きの詩であるということを理解している小説家は、まさに神話を生み出していることになる。小説の素晴らしさは、一つの物語を多様な方法で無限に語り直せる点にあり、その意味では神話と変わらない」とか。このように作家の見解が読めるのは読者冥利に尽きるだろう。もちろん、これがミュリエル・スパークの本音なのか、それともフラー・トールボットに与えた韜晦なのか、その辺は分からない。けれども、なかなか真に迫った見解であることは確かで、芸術家の語る芸術観は興味深いと膝を打ちながら読んだ。

それ以外では随所に表れるユーモアとアイロニーが面白かった。何といっても語り手のパーソナリティが良い。化粧を厚塗りしたしわだらけの老婆を「華やかな珍客」と表現したり、「作家の宿痾ともいうべき偏執症など、出版経営者によくある分裂症と比べればかわいいものだ」と毒づいたり。かと思えば、原稿を引き裂いてわあっと泣き出すなんてこともしていて、それまで続けてきた知的で冷静な叙述とのギャップが意外性をもたらしている。こういうユーモアとアイロニーはイギリス文学の伝統で、僕はそこに惹かれて欧米の小説を読んでいるわけだ。なるべくなら世界中の小説を均等に読んでいきたいところだけど、そこはそれ個人の趣味・嗜好があるわけで、困ったときにはつい欧米のものを手にとってしまう。欧米の小説をメインに読んで、飽きたらアジアやラテンアメリカの小説に手を出す。自分がどこに軸足を置いているのか、期せずして再確認することになった。

原稿が盗まれて二進も三進もいかなくなる展開は、いかにも昔の話だなあと思った。フラーは原稿を取り戻した後、バックアップをとるためにいちいちタイプライターで同じ文面を打ち込んでいる。現代では原稿のデータをUSBメモリクラウドに保存するのが一般的だし、一昔前だったらコピー機で原稿を複製していた。そういう時代からすると隔世の感がある。昔の小説を読む醍醐味は、現代とのギャップを感じるところにあるのかもしれない。特にテクノロジーの面で顕著な違いがあって、そこがツボにはまったりする。