海外文学読書録

書評と感想

E・M・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』(1905)

天使も踏むを恐れるところ (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

天使も踏むを恐れるところ (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

★★★

ソーストンの中産階級に嫁いだリリアは、娘アーマを産んでからしばらくして夫を亡くす。リリアとアーマは、夫の家族であるヘリトン家の干渉を受けながら2人で暮らしていた。そんなあるとき、リリアは年下のアボット嬢とイタリアへ旅行することになる。イタリアからヘリトン家にもたらされたのは、リリアが現地人と婚約したとの知らせだった。一家は急遽、長男のフィリップを派遣する。

母親はあまり論理的ではないとフィリップは思ったが、そんなことを言っても無駄だった。「『新しき人生ここに始まる』。覚えてますか? リリアを見送ったときにみんなで言った言葉です」

「覚えてますよ。でも、これがほんとうの『新しい人生』です。ヘリトン家がひとつになったんですもの。あのときは、おまえはまだイタリアに夢中でした。イタリアには美しい絵や教会がいっぱいあるかもしれませんが、国の価値は、そこに住む人間の価値によって決まるんです」(87)

著者のデビュー作。2つの異なる価値観をぶつけるというお得意のテンプレは、デビュー作から既に確立していて、今回はイギリスの中産階級とイタリアの労働者階級をぶつけている。ヘリトン家の長女ハリエットは、文化の違いに馴染もうとしない保守的なイギリス人だし、リリアと結婚したジーノは、金目当ての結婚であることを隠さない享楽的なイタリア人である。唯一この2人の架け橋になりそうなのが、ヘリトン家の長男フィリップで、彼はイタリアかぶれの若き弁護士だ。現代文学では「何を書くか」よりも「どのようにして書くか」が重視されるけれど、本作の場合はちょうどその逆で、「どのようにして書くか」よりも「何を書くか」のほうに興味が向くようになっている。イギリス人とイタリア人、中産階級と労働者階級。この水と油のような両者が交わることでどのような化学変化を起こすのか。本作は単純なプロットながら、なかなか先が気になるような小説だった。

序盤で主要人物を唐突に殺すところもお得意のテンプレという感じ。こういうサプライズを盛り込んだ展開って、古き良き英国文学でもなかなか珍しいのではないかと思う。その一方、婚約を巡ってドッタンバッタン大騒ぎするところは、ジェイン・オースティンP・Gウッドハウスといった伝統的な英国文学を連想させる。E・M・フォースターって自分が作ったテンプレを後々まで頑なに踏襲しているけれど、彼が文学史の中でどのように位置づけられているのか、ちょっと気になってしまった。

強い信念がある人間ほど過ちを犯す。特にその信念が信仰心に裏打ちされている場合は。宗教というのは道徳心を育む反面、行き過ぎた正義感によって視野狭窄を起こすこともあって、これは一筋縄ではいかない劇薬ではないかと思った。終盤でハリエットがやったことは絶対に許されないことで、宗教が彼女をここまで歪ませたと考えると、まったくぞっとする話である。こういうのを読むと、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認したのは間違いだったのではと思ってしまう。実は同じことを、『ローマ人の物語』【Amazon】を読んだときも思ったのだった。今すぐタイムマシンに乗って歴史を修正しに行きたい気分だ。

本作の欠点は、キングクロフト氏の扱いだろう。彼は未亡人になったリリアと親密な関係を築いた紳士で、そのあらましを読む限りでは重要人物と言ってもいいほどである。リリアの良き理解者として、彼女と手紙のやりとりをするキングクロフト氏。しかし、そんな彼も序盤のサプライズの後に影を潜めてしまい、以降本筋にまったく関わってこないのだった。これじゃあいったい何のためにああいう人物を造形したのか分からない。本作はまだまだ習作の段階という感じだった。

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』(2005)

短くて恐ろしいフィルの時代

短くて恐ろしいフィルの時代

 

★★★

<内ホーナー国>は国民が一度に1人しか入れないほど小さく、残りの6人は、<内ホーナー国>を取り囲んでいる<外ホーナー国>内に設定された<一時滞在ゾーン>に身を寄せ合っていた。あるとき、<内ホーナー国>の土地が縮んでしまう。外ホーナー人のフィルは、自分たちの領土にはみ出してきた内ホーナー人から税を徴収することを提案、容赦なく金品を取り立てる。その後、彼は筋肉ムキムキの2人組を部下にして独裁権力を手に入れるのだった。

「わが民よ!」フィルは耳をつんざくほどの大音声で言った。「この者どもがこの世に存在するかぎり、彼らはわれわれに何度でも牙をむくであろう! よって、われわれが完全な平和を見るためには、彼らに完全に消えてもらうしかない! 完全に、永遠に、徹底的にだ! さあ、これよりわれわれは永遠の平和を実現しつつ、同時に卓越した経済観念も発揮しようではないか。すなわち向こう五日ぶんの税金を前倒しで徴収する、すなわち彼らの国の全資産を今この場で没収するのだ!」(115)

人間じゃないよく分からない機械生命体を用いた寓話。独裁権力を風刺した内容で、訳者あとがきでは『動物農場』【Amazon】が引き合いに出されている。

権力を得るにはまず周囲からの承認があって、さらにそれを維持・強化するには暴力が必要不可欠となる。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』【Amazon】の中で、ある主体が国家になるためには暴力の独占が必須の条件になる、みたいなことを述べていた。これは確かにその通りだと思う。北朝鮮や中国のような特殊な例を挙げるまでもなく、日本やアメリカといった現代の民主主義国家にも例外なく当てはまっている。地球上にあるどの国も、警察や軍隊を国家が独占しているから国家として成り立っている。我々が法律に従うのも背景に暴力があるからで、権力は暴力の独占によって維持されているわけだ。問題はどうすれば独裁になってしまうかだが、本作はそこのところを的確に捉えて風刺している。

僕が初めて権力について考えたのは小学3年生のときだった。ある日、全学年が校庭で運動会に向けて行進の練習をしていたのだが、その最中に後ろにいた人とふざけ合いをして教師に見つかり、群衆の輪から連れ出されて練習を見学させられる羽目になった。そのとき、教師に見学を強制されたことに驚いたし、さらには練習を外から眺めていて名状しがたい違和感をおぼえた。同じ服装、同じ体操服を着た子供たちが、不自然な集団行動に従事している……。なぜ、我々はこんなことをさせられているのだろう? 整然と行進することに何の意味があるのだろう? 大人になった今だったらこれを北朝鮮マスゲームになぞらえているところだが、小学3年生の僕にはそんなこと思いもつかない。この気持ちの悪い秩序を支えているのはいったい何なのか。これが権力――当時は権力という言葉もろくに知らなかったが――を意識した初めての出来事だった。その背景に教師による暴力の独占、国家から承認された暴力の独占があることは、大人になった今だからこそ分かることである。学校とは国家の内側にある閉鎖的なプチ国家であるから。

というわけで、国家を支えているのは暴力であることを再認識させられたのだった。

マルカム・ブラドベリ『超哲学者マンソンジュ氏』(1987)

超哲学者マンソンジュ氏 (平凡社ライブラリー)

超哲学者マンソンジュ氏 (平凡社ライブラリー)

 

★★★★

無名の哲学者マンソンジュ。しかし、彼がいなかったらエーコも知られぬまま終わっていただろうし、デリダが生まれることもなかったと言われている。マンソンジュは自身を不在の神と称し、著書に自分の名が印刷されることも禁じていた。彼は性をテーマにした『フォルニカシオン』を刊行後に忽然と姿を消している。学者のブラドベリが、そんなマンソンジュのことを評伝形式で語っていく。

今日、世界の大都市で開かれる学会やカクテルパーティーにおいて、ラカンを受けてデリダで返すこともできぬとすれば、あるいはフーコーの一撃をクリステヴァでフォローすることもできぬとすれば、それはいささか間抜けな話、否、純然たる愚といわねばなるまい。(42)

昔懐かしいポストモダン文学だった。しかも、同時代の現代思想を題材にしているところがたまらなくレトロで良い。僕が哲学に興味を持っていた学生の頃は、ソーカル事件によって既に現代思想は死に体だったので、本作が構造主義ディコンストラクションを生き生きと語り、ソシュールデリダフーコーなどに喜々として言及するところに、幸福な時代の空気を感じて思わず涙が出そうになった(大嘘)。本作は一種の偽史というか、思想史にマンソンジュという架空の人物をねじ込んだ評伝で、虚構である彼の思想を存在するものとしてもっともらしく語っている。様々な思想家や哲学者の名前が飛び交うその衒学的な内容は、読む人が読めば懐かしさと同時に感動を呼び起こすこと間違いないだろう。僕は世代的にニュー・アカデミズムの栄光には浴さず、『構造と力』【Amazon】は既に時代遅れの古典に成り果てていた。義務的にレヴィ=ストロースフーコーは読んでいたものの、それらを引用するのは恥ずかしいという風潮があった。大学の哲学科は精神病患者の溜まり場で、みんな哲学よりも薬物――向精神薬脱法ドラッグ――に詳しかった。僕は哲学科の人間ではなかったのでその闇については詳しくないけれど、文系の中でもっとも拗らせていたのが哲学科だったと記憶している。そして、本作はそんな知的病人が、あの時代は良かったと思いを馳せるための小説と言えるかもしれない。80年代、それは哲学にとって何て幸福な時代だったのだろう!

ロブ=グリエ、ビュトール、サロートといった新しい作家たちの小説は、リアリズムの伝統に全面的異議を唱え、リアリズムとは外の世界に何かがあると思い込んでいる人々のでっち上げにすぎないことを暴こうとした。ヌーヴォー・ロマンサルトルカミュの悲劇的ヒューマニズムを退け、小説は悲劇にかかわるものでもヒューマニズムにかかわるものでもなく、ロブ=グリエの言を借りれば、ただ単に「世界ののっぺらぼうの、無意味、無精神、無道徳な表面」を提示するだけだと宣言する。ということはつまり、小説というものが、ただ単にそこにあって年中われわれを睨みつけている事物によって――<ショーズ>によって、と当時は言ったものである――成立するということになる。もっとも、さらにいえば、そもそもこの新しい小説は内面という異端を退けるものであるからして、そこにはもはや睨みつけられるべき「われわれ」もありはしない。実際、いまや小説は、思考し、物事の意味を構築する「人物」をもつことができなくなってしまった。その代わりに、家具とか虫の死骸とかが物語の責任を負わされるべく導入され、しばしば決して自分に向いてはいない役柄を演じる破目になった。ヌーヴォー・ロマンはまた、超越論的なものを退け、ロブ=グリエも言ったように「形而上学の彼岸への序曲」たることを拒んだ。かくして小説は大きく変容し、ポストモダン的状況のなかに置き去りにされた。小説がその状況のなかで茫然と立ちつくすのを、いまなおわれわれはしばしば目にするのである。(97-8)

ところで、以上はヌーヴォー・ロマンについて要点を押さえた簡潔な説明であり、同時に僕がなぜヌーヴォー・ロマンが苦手なのかも明らかにされている。仏文科も哲学科に負けず劣らず拗らせた人間が集まっていたけれど、それについてはまた別の機会に語ることにしよう。ヌーヴォー・ロマンについてもおいおい語っていきたい。今回はメモとして上の文章を載せておく。

とりあえず、ポストモダン文学もメタフィクションも、たまに読むとすごく面白く感じるということが分かった。本作の語り手はいかにも学者らしく、ボルヘスナボコフベケットに関心を持っている。読者もその3人が好きな人向けになりそう。また、現代思想が輝いていた時代を存分に味わいたい人にもお勧めである。こういうのは古びているからこそかえって新しいのだ。今後、一周回ってまたブームが来るかもしれない。

ポール・ハーディング『ティンカーズ』(2009)

ティンカーズ (エクス・リブリス)

ティンカーズ (エクス・リブリス)

 

★★★

80歳のジョージ・ワシントン・クロスビーは退職後に時計修理の仕事をしており、現在は死の床にあった。彼が子供の頃、父のハワードは貧しいセールスマンをしていたが、ジョージが11歳だった1926年のクリスマスイヴ、癲癇の発作を起こして倒れてしまう。介抱するジョージの指をハワードが噛んだため、ハワードの妻キャスリーンは密かに夫を精神病院に入院させようとする。それを知ったハワードは家出をするのだった。

塗料がはがれかけている安物の皿を太陽が照らす――俺は鋳掛け屋(ティンカー)だ。月は葉のない木立の巣のなかで輝く卵だ――俺は詩人だ。精神病院のパンフレットが化粧箪笥の上にある――俺は癲癇病み、狂人だ。俺は家をあとにしている――俺は逃亡者だ。(131)

ピュリッツァー賞受賞作。

このブログでも何度か書いている通り、アメリカ文学はアメリカを語るか家族を語るかのどちらかが多いけれど、本作は後者に属する小説だった。のっけからジョージの余命があと8日と宣告されていて、それが段々とカウントダウンしつつ、父親ハワードのエピソードが挿入される。基本的には全知の語り手による三人称視点だけど、時々ハワードの一人称で語られる部分もあって、この辺は変幻自在という感じだ。他人の人生について覗き見するような楽しみがある反面、現代文学らしいギミックが効いていて、「何を語るか」と「どのようにして語るか」が程よく両立している。普通のやり方では語らない、ちょっと気の利いた小説だった。

ハワードと隠者ギルバートのエピソードが印象に残っている。森の中に住むギルバートは、虫歯になってハワードにそれを抜いてもらう。実はこのギルバート、ナサニエル・ホーソーンと大学の同級生だったことが自慢なのだけど、もしそれが本当だとしたら、120歳くらいじゃないと辻褄が合わないとハワードに一蹴される。実にアメリカ人らしい大法螺だと思っていたら、ハワードの家にあった『緋文字』【Amazon】の本扉にギルバートへの献辞が書かれていた……。これはいったいどういうことだ、と狐につままれたような気分になった。

2つ上の段落で書いたように、本作には他人の人生を覗き見するような楽しみがある。虚構の中に生き生きとした人間、ひいてはそれを支える世界が存在しているのが堪らないというか。しかも本作の場合、本人の人生のみならず、そのルーツである父親の人生にまで遡っていて、通常よりも奥行きが深い。思うに、レイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドの私立探偵小説が好きな人は、意外とはまるのではなかろうか。特にロス・マクドナルドの小説では、事件を通して家族の歪みを明るみに出すという文学と親和性のある内容になっている。秘密を知りたい、物語を知りたい。こういう好奇心ってどうしようもない人間の性なのだろう。余談だが、この覗き見趣味を露悪的に描いたのがジェイムズ・エルロイで、その情熱は他の追随を許さないものがあって引き込まれる。

本作はラストが良かった。ジョージもハワードも死の運命からは逃れられないのだけど、その中でも最上の結末で、これはハッピーエンドと言っても良いくらいだと思う。とても清々しい気持ちになった。

ジェイムズ・ボールドウィン『もう一つの国』(1962)

もう一つの国 (集英社文庫)

もう一つの国 (集英社文庫)

 

★★★

マンハッタン。ハーレムでジャズバンドのドラムを叩く黒人ルーファスは、南部からやってきた白人レオナと肉体関係を結び同棲する。やがてルーファスはレオナを虐待、発狂した彼女は家族によって南部に連れ去られる。失意のルーファスは投身自殺をするのだった。その後、ルーファスの友人にして白人のヴィヴァルドは、ルーファスの妹アイダと恋仲になる。さらに、彼らの友人にして白人のキャスは、作家になった夫のリチャードと上手くいかなくなり……。

「たいした愛だな」と、リチャードは言った。

「リチャード」彼女は言った「あなたとあたしは、お互いに相手を傷つけあった――難度も何度もね。ときには意識しないでそうなったこともあるし、ときには意識してやったこともあった。あれは、お互いに相手を愛していたから――愛していればこそ――じゃなかったかしら?」(104)

黒人と白人が普通にカップルになっているところと、何人かの男性陣がバイセクシャルで男と寝ているところが衝撃的だった。60年代のニューヨークってこんなに進んでいたのか……。公民権法が制定されたのが1964年だから、公民権運動はまだ存在していたはずなのに、本作にはそういうのが欠片も出てこない。仲間内では白人と黒人が対等に付き合っており、人種絡みの災厄は外側からたまに来るくらいである。

まず黒人のルーファスと恋仲になる女が、人種差別が色濃く残る南部出身の白人レオナで、ここでは黒人が白人に対して加害者になっている。すなわち、ルーファスがレオナを虐待して発狂させている。最近は奴隷制度下のアメリカを舞台にした小説ばかり読んでいたので、この構図はなかなか新鮮だった。仮に南部でこんなことをしたら、ルーファスは近隣住民によって吊るされていたことだろう……。

ルーファスが自殺した後は、白人のヴィヴァルドが黒人のアイダと付き合う。こちらはなかなか複雑な心理状態が展開していて、ヴィヴァルドは自分が黒人を愛しているのは軽蔑されないためではないかと悩んでいるし、アイダに至っては人種問題をこじらせ、白人への憎しみをヴィヴァルドにぶつけている(実はルーファスもレオナに同種の憎しみをぶつけていたのだった)。2人に重くのしかかっているのがルーファスの死で、これが終盤まで尾を引いてそれぞれを悩ませている。

エリックというゲイの俳優がフランスから帰国してからは、同性愛も重要なファクターになる。エリックはかつてルーファスに自分と関係するよう持ちかけていたが、すげなく断られた過去を持っている。ヴィヴァルドはエリックと寝ることで、自分の性的嗜好異性愛なのだと確認する。一方、エリックは人妻のキャスと寝ることで、自分は同性愛者なのだと自覚する。エリックにはフランスに残してきたイーヴという恋人の男がいて、彼がアメリカに来るのを待っていた。

というわけで、ここまで人種間の恋愛、同性間の恋愛が描かれた小説を読んだのは初めてのような気がする。しかも、60年代にこういう小説が書かれていたとは驚いた。結局のところ、我々は恋愛なりセックスなりを通して自分の知られざる一面を確認するわけで、その回路を通常よりも複雑にしたのが本作なのだろう。僕は本作を読んで、自分が保守的な人間であることを自覚した。人種間や同性間の恋愛に衝撃を受けているようではまだまだ駄目なのだと思う。すごい世界を垣間見てしまった、というのが率直な感想である。

ホメロス『オデュッセイア』(750? BC)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

 

★★★

トロイア落城から10年。イタケーの領主オデュッセウスは、漂流先のカリュプソーの島に抑留されていた。その間オデュッセウスの屋敷には、妻のペーネロペイアの元に求婚者たちが押し寄せ、好き勝手に飲み食いして浪費を強いている。オデュッセウスの息子テーレマコスは、アテネ―女神の助けを借りて父の行方を探しに旅に出る。一方、オデュッセウスはゼウスの使者ヘルメースの来訪によってカリュプソーから解放されるのだった。オデュッセウスは船でイタケーに帰ろうとするが……。

あの武士(さむらい)のことを話してくれ、詩の女神(ムーサ)よ、術策(てだて)にゆたかで、トロイアの聖(とうと)い城市を攻め陥(おと)してから、とてもたくさんな国々を彷徨って来た男のことを。たくさんなやからうからの住む町々や気質を、それでともかく識りわけ、海上でもさまざまな苦悩を、自分の胸にかみしめもした。自分自身の命も救い、仲間の者らの帰国の途(みち)もとりつけようとつとめるあいだに。(7)

集英社版世界文学全集(呉茂一訳)で読んだ。引用もそこから。なお、原文は叙事詩(エポス)だが、翻訳は散文である。同じ呉茂一が訳した岩波文庫の旧版では韻文になっているらしい。新版の松平千秋訳は散文のようだ。

あらすじは知っているので、細部を確認するような読み方になった。本作は紀元前750年頃の作品だけど、ほとんど近現代の物語と遜色がないくらいの構築力があってびっくりした。神々が人間社会に介入したり、怪物が出てきたりするのを除けば、リアリズムと言っていいほど条理に適った話であり、登場人物の行動原理は現代人が読んでも納得がいくものになっている。同じ神話的な物語でも、たとえば『やし酒飲み』のようにはぶっ飛んでない。物語の後半は、イタケーに戻ったオデュッセウスがいかにして求婚者たちを排除するかに焦点が絞られており、その段取りは実に論理的である。広間にあった武器を用心のために他所へ隠すくだりがあるし、浮浪人イーロスとの決闘や弓矢試しの段は、オデュッセウスオデュッセウスであること、すなわち彼が英雄であることを示すエピソードになっている。さらに、前半でオデュッセウスが冥界に行って死者と話す場面があるのだけど、これが後半の伏線になっているのには大いに感心した。実に周到に組み立てられた物語ではないか。こんな太古の物語が現代でも通用するくらい考えて作られているのに驚いたし、よくこんな完全な形で現代にまで伝わったものだと感動さえしてしまう。

オデュッセウスが求婚者たちを殺戮する章はすこぶる爽快で、人が大量に死ぬ場面でこんなにスカッとするとは自分でも思わなかった。溜めて溜めて溜めて……ようやくぶっ殺す! って感じなんだよね。こういう読者を焦らしてカタルシスを増大させるような手法も注目すべき点だと思う。オデュッセウスって智将のイメージだったけど、実は武勇にも優れているところがポイント高い。

今回の読書で痛感したのは、名作はあらすじだけで分かった気になっちゃいけないということだ。これを読まなかったらオデュッセウスの名前の由来が「憎悪、敵意を受けるもの」だと分からなかったし、また、ここまで構築力のある物語だということも知らないままだっただろう。古典を読んでおくと近現代の文学の読解が楽になるので、これからも積極的に手を出していこうと思った。たとえあらすじを知っていても読むことにしよう。

2017年に読んだ266冊から星5の12冊を紹介

このブログでは原則的に海外文学しか扱ってないが、実は日本文学やノンフィクションも陰でそこそこ読んでおり、メディアマーカーに評点付きで登録している。 今回、2017年に読んだすべての本から、最高点(星5)を付けた本をピックアップすることにした。読書の参考にしてもらえれば幸いである。

評価の目安は以下の通り。

  • ★★★★★---超面白い
  • ★★★★---面白い
  • ★★★---普通
  • ★★---厳しい
  • ★---超厳しい

星5はオールタイム・ベスト級に付けている。

地図になかった世界 (エクス・リブリス)

地図になかった世界 (エクス・リブリス)

 

翻訳家の柴田元幸が「21世紀に書かれた最高のアメリカ小説」と評していたが、これは僕もまったく同感。文学史に間違いなく残る傑作である。奴隷制度下のアメリカ南部を舞台にした小説で、善悪が並立する世界をありのままに叙述している。善を称揚するのでもなければ悪を非難するのでもなく、ただストイックに世界を構築しているところに凄みがある。

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世界を回せ 上

世界を回せ 上

 

世界貿易センターで綱渡りをしたフィリップ・プティを中心に、地上で暮らす人々の営みを順番に描いていき、彼らのエピソードが思わぬところで繋がることで、世界は回っているのだと示している。構成が素晴らしい。現代文学の一つの達成を見ることができる。

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池上彰・森達也のこれだけは知っておきたいマスコミの大問題

池上彰・森達也のこれだけは知っておきたいマスコミの大問題

 

池上彰は似たような本を粗製濫造しているようなイメージがあるが、森達也と対談した本書はマスコミの問題に鋭く斬り込んでいて読み応えがある。特に西山事件ウォーターゲート事件の違いについて指摘したくだりにははっとした。池上彰の本は、講義録や対談に良書が多いような気がする。現代史や時事問題を解説した本よりも、こういう掘り下げた本をもっと書いてほしい。

アメリカーナ

アメリカーナ

 

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはナイジェリアとアメリカを繋ぐ作家であり、おそらく将来はノーベル文学賞を受賞するだろう。本作を一言で要約すれば、「アメリカに渡って人種を発見し、帰ってきてラゴスを再発見する物語」だ。人種問題という社会派要素とメロドラマという通俗性ががっちり噛み合っていて読ませる。排外主義が横行する今こそ読まれるべき小説。

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国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

本書の内容は以下の引用の通り。

本書が示すのは、ある国が貧しいか裕福かを決めるのに重要な役割を果たすのは経済制度だが、国がどんな経済制度を持つかを決めるのは政治と政治制度だということだ。

というわけで、政治制度を「収奪的な政治制度」と「包括的な政治制度」に分類し、前者がいかにイノベーションを阻害して国家を衰退させるかを論じる。とてもシンプルな主張で分かりやすい。古代ローマ帝国が崩壊し、イギリスで産業革命が起きたこともこれで説明できる。

駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)

駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)

 

車夫という末端労働者を主人公にした小説。生きることの困難さ、さらには人間は経験によっていくらでも悪い形に作られてしまうということをまざまざと描いている。本作の魅力は、庶民の生活に密着しているところだ。中国文学はその泥臭さが癖になる。

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コンビニ人間

コンビニ人間

 

村田沙耶香はこれまでも既存の価値観に一石を投じるような小説を書いてきたが、本作はその極北にして集大成というべき作品。我々が正しいと信じている社会(システム)がいかにグロテスクであるかを容赦なく暴いている。多数派が支持する社会とはどういうものか? 現代社会で生きづらさを感じている人は必読だろう。

戦場の一年 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

戦場の一年 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

 

第一次世界大戦塹壕戦を題材にしている。とにかく指揮官が無能で、部下たちを襲う数々の不条理は『キャッチ=22』【Amazon】を彷彿とさせる。戦争文学には名作が多いが、本作もその一つと言えるだろう。

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戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

 

加藤陽子は注目すべき研究者である。本書はリットン報告書、日独伊三国軍事同盟、日米交渉について詳述しており、学校では教えてくれない現代史の細部を知ることができる。丹念に史料を読み込んで、日本がどのようにして戦争に向かっていったのかを明らかにしているところが好感触。中高生に向けた講義録なので分かりやすい。 

何と言っても、古川日出男の翻訳が秀逸。あるときは戦をプロレスの実況風に語り、あるときは「よう!」や「なあむ!」などと興奮した雄叫びをあげる。琵琶法師の躍動する語りが肌で感じられた。物語は散りゆく平氏に同情的で、鎮魂歌と呼ぶにふさわしい内容になっている。まさに盛者必衰である。

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精霊たちの家 上 (河出文庫)

精霊たちの家 上 (河出文庫)

 

南米らしいマジックリアリズムが横溢したファミリーサーガ。ただし、全編にわたってその手法が使われるのではなく、政治情勢が悪化してからはリアリズムに飲み込まれていく。これはガルシア=マルケスよりもサルマン・ラシュディに近い読み味。世界トップクラスのストーリーテリングが堪能できる。スケールが大きくて、適度に娯楽性を備えていて、その土地ならではの土俗的な雰囲気が味わえるところが魅力。

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13・67

13・67

 

アジアン・ミステリ。香港を舞台にした警察小説であり、同時に本格ミステリと社会派ミステリを高いレベルで融合させた野心作でもある。2013年から1967年までのおよそ半世紀を逆年代記のように辿っていく構成が秀逸。その時々の香港の世相を映すと同時に、登場人物の成長を逆回しで確認することができる。安楽椅子探偵を極めた「黒と白のあいだの真実」には驚かされるし、ラストの「借りた時間に」は感慨深い。

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2017年は新刊をあまり読まずに落ち穂拾い的な読書に終始した。なのでハズレを引くことは少なかったと思う。今後もこの路線で本を選んでいきたい。