海外文学読書録

書評と感想

イアン・マキューアン『憂鬱な10か月』(2016)

憂鬱な10か月 (新潮クレスト・ブックス)

憂鬱な10か月 (新潮クレスト・ブックス)

 

★★★★

胎児の「わたし」が母親の腹の中で外界の様子を探る。どうやら母親のトゥルーディは父親と別れ、彼の弟クロードと愛人関係にあるようだった。しかも、2人は共謀して父親を殺害しようとしている。クロードは「わたし」が産まれたら他所へ養子に出す算段だった。「わたし」は状況を変える術がないまま、事件の推移を物語る。

自分の鼻先数インチに父親のライバルのペニスを突きつけられるのがどういうことか、だれもが知っているわけではないだろう。妊娠末期のこの時期になれば、わたしのために自制するのが当然ではないか。医学的見地から要求されるわけではないとしても、それが礼儀というものだろう。わたしは目をつぶり、歯茎を噛みしめて、子宮の内壁に体を押しつけて踏ん張っている。ボーイング機の翼がもぎ取られかねないほど激しく揺れる乱気流。母は遊園地ぽい絶叫を発して、愛人を駆り立て、鞭を当てる。ロック・コンサートの死の壁みたいなものだ!(p.26)

これは面白かった。プロットは不倫関係の男女が寝取られ男を殺害するありきたりの犯罪ものだけど*1、その様子を胎児が語るというアイデアが秀逸すぎる。語り手はまだ産まれてないので当然のことながら名前がない。名無しの彼は胎児なのに成熟した人格を持っており、大人顔負けの豊富な知識と語彙を駆使して縦横無尽に語り倒している。本を読まない昨今の大学生よりも、遥かに教養が深くて思考力が高いのが可笑しい。こういうのはやり過ぎくらいがちょうど良くて、やはりフィクションにはこれくらいの大胆なはったりが欲しいと思う。ありふれた出来事を特別な方法で語る。現代文学は「何を語るか」よりも「どのようにして語るか」に力点が置かれているけれど、本作はその極北に位置すると言えるだろう。

全体的には手垢のついたプロットではあるものの、父親がトゥルーディとクロードの前に愛人を連れてくるところは捻りが効いているし、殺人が成功するか失敗するかの瀬戸際はけっこうドキドキしながら読んだ。読んでるほうとしては、上手く相手の計画を回避して生き延びろって思うのだけど、一方でもしそうなったら話にならないわけで、本作はその辺の焦らし方が巧妙である。語り手の「わたし」は胎児なので状況に介入できない。基本的にはただ語るだけの存在だ。しかしながら、彼なりに父親の仇を取ろうと意外な行動に出ているのだから油断できない。本作はフィクションならではの逸脱が最高だと思う。

語りの芸で読ませるところは、同じ著者の『初夜』【Amazon】に似ているかもしれない。また、語り手がぶっ飛んでいるところは、スティーヴン・ミルハウザーエドウィン・マルハウス』【Amazon】を思い出した。個人的には、大上段に構えたシリアスな文学よりも、こういう人を食った小説のほうが好みである。

*1:ハムレット』【Amazon】と同じ構図らしいが、実のところよく覚えてない。

リチャード・フラナガン『奥のほそ道』(2013)

奥のほそ道

奥のほそ道

 

★★★

1915年頃にタスマニアで生まれたドリゴ・エヴァンスは、本土の大学で勉強して外科医になり、第二次世界大戦では将官として従軍することになった。ところが、彼は日本軍の捕虜になってタイの収容所の責任者にされる。捕虜たちは全長415キロメートルに及ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出され、飢餓と病に喘ぎながら日本軍にこき使われる。日本の軍人は天皇の名のもと、捕虜に理不尽な暴力を加えるのだった。

彼女といたい、彼女とだけいたい、昼も夜も彼女といたい、彼女の語るどうしようもなく退屈な逸話やわかりきった見解にも付き合いたい、彼女の背中に鼻を走らせたい、彼女の脚がこの脚にからみつくのを感じたい、彼女がうめくようにこちらの名を口にするのを聞きたいというこの欲求、人生のほかのすべてを圧倒するこの欲求はなんなのか。彼女を思うとき腹に感じるこの痛み、胸を締めつけられる感覚、制御できないめまいをなんと名づけたらいいのだろう。彼女のそばに、彼女とともに、彼女とだけいなくてはならない。この直感とも感じられるただ一つの考えにいま取り憑かれているということを、わかりきった言葉以外の言葉で、どう言えばいいのだろう。(pp.213-214)

ブッカー賞受賞作。

これはなかなか気が滅入る読書だった。戦時中の捕虜への虐待が凄まじく、ややもすれば靖国神社の陰に隠れがちな日本人の加害性がこれでもかと暴かれている。『四世同堂』の項でも書いたけれど、原爆の投下や本土の空襲のせいで、日本人は自分たちを被害者だと位置づけがちだけど、実は俯瞰的に見たら加害者としての面が大きいし、世界的にもそれが常識なのだろう。本作は日本の軍人の精神性に驚くほど肉迫していて、その人物像は、日本の読者が読んでもあまり違和感がないと思う。ああ、こういう無茶苦茶な軍人、絶対いたよなって感じ。捕虜には鉄拳制裁で強制労働させ、場合によっては日本刀で首を斬り落とし、物資が足りないのを精神論で乗り切ろうとする。捕虜たちは飢餓と病で青息吐息。にもかかわらず、「天皇陛下のために」と発破をかけ、捕虜たちをボロ雑巾のようにこき使っている。これを地獄と呼ばずして何と呼ぶべきだろう。第二次世界大戦にしても太平洋戦争にしても、オーストラリアはなかなかクローズアップされることがないけれど、こと日本との関係においては、こんな過酷な仕打ちが行われていたのだ。オーストラリア人からしたら、日本の収容所よりもドイツの収容所に入ったほうが遥かにマシだったという。人間が同じ人間に対して残酷な扱いをするのって、国籍関係なく嫌な感じがするけれど、加害者が自分と同じ日本人だと思うと、ますます嫌な感じが募ってくる。小説を読んでこんなに気が滅入るとは思わなかった。

ただ、本作は捕虜の虐待だけではなく、ドリゴの恋愛や戦後の逸話なども描かれている。扱っている物事の幅は意外と広い。大筋では時系列通りに語られているけれど、細かいところでは過去へ行ったり未来へ行ったりしていて、真っ直ぐに進まないところが現代文学らしい。ドリゴが戦後も生き残り、テレビのインタビューを受けて、戦争の英雄として有名になったことが比較的早い段階で明かされている。こういう「どのようにして語るか」という部分も、本作の注目すべき点だろう。個人的には、上に引用したような詩的な表現がぐっときた。日本の有名な文学作品をタイトルにしているだけあって、読み返したくなるような文章がいくつもある。ドリゴの恋愛が道ならぬ恋で、これが彼の人生の中心にあるところが何とも言えない。これが戦争を扱っただけの小説だったら、ここまで詩情を感じることもなかっただろう。

本作は戦犯の死刑についても触れているけれど、死刑囚のなかに朝鮮人と台湾人がいたことにショックを受けた。よくよく考えてみれば、朝鮮も台湾も植民地にされた後、住人たちは日本人として戦争に駆り出されていたのだった。こうやって加害者として巻き込まれた挙げ句死刑に処されるなんて、あまりにも理不尽だと思う。すべて戦争が悪いと言えばそれまでだけど、その状況を作ったのは我々人間なので、人間というのは本質的に罪深い存在だと言える。

なお、この記事は今話題の「HINOMARU」【Amazon】を聴きながら書いた。RADWIMPS野田洋次郎にはぜひ本作を読んでもらいたい。

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(1925)

アメリカの悲劇(上) (新潮文庫 赤)

アメリカの悲劇(上) (新潮文庫 赤)

 

★★★

貧しい伝道師の家庭で育ったクライド・グリフィスは、長じてからカンザスシティでホテルのベルボーイになる。ところが、同僚とドライブに行った帰りに自動車事故を起こして逃亡。その後は金持ちの伯父を頼って、彼の経営するニューヨークの工場に就職する。そこで女工ロバータと男女の関係になるも、金持ちのソンドラとも良い関係になり、ソンドラと結婚して上流階級に入りたいと熱望する。ところが、ロバータの妊娠が発覚してクライドは追い詰められるのだった。クライドはロバータの殺害を計画するが……。

ああいう話には、いったいどんな意味があるんだろう? 神様は存在したのか? マクミラン師が主張するように、人間の雑事に神様が干渉するのだろうか? これまで神をいつも無視してきたというのに、こういうときになって、神様なり、少なくとも創造的な力にすがるというようなことは、果たして可能なことだろうか? 人は明らかにそういうときに助けを必要とするものだ――とても孤独で、法によって命令され支配されている――人間ではなくなっている――ここにいる人はみな、まさしく法律の下僕なのだから。だが、この神秘的な力は、助けの手を差しのべてくれるのだろうか? 実際に存在して、人間の祈りをきいてくださるのだろうか?(vol.2 pp.377-378)

集英社版世界文学全集(宮本陽吉訳)で読んだ。引用もそこから。

いやー、長かった。ハードカバー2段組で合わせて800頁ほどある。アメリカの自然主義文学ということで、クライドがなぜこのような悲劇的な人生を歩むことになったのか、環境要因や性格要因などを踏まえて重厚に描いている。現代文学という甘い果実の味を知った人間にとって、100年前の自然主義文学は退屈に感じないかと心配していたけれど、終わってみればけっこう劇的な話でそれなりに楽しめた。殺人や裁判が最大の焦点になっているところは、さすが犯罪小説の本場という感じ。クライドの境遇は『罪と罰』【Amazon】のラスコーリニコフを、裁判の場面は『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】の同場面をそれぞれ連想したけれど、クライドとラスコーリニコフはだいぶ毛並みの異なった人物だし、後者の裁判も被告人の性格が全然違っているから、それほど似通った印象は受けなかった。裁判については、実を言うとどちらも冤罪なんだよね。『カラマーゾフの兄弟』のミーチャは人を殺してないし、本作のクライドも故意には人を殺してない。クライドの場合、殺意を持って相手を呼び出したものの、結果的には事故によって死なせてしまったのだった。ただ、それを知っているのはクライド本人だけなので、状況はかなり不利になっている。この裁判もだいぶ頁を割いているだけあって、近年のリーガル・サスペンスみたいに読み応えがあった。検察官も弁護士もかなりのやり手で、その筋運びがなかなか面白い。

アメリカの格差社会がクライドの人生を翻弄しているところが興味深い。アメリカン・ドリームという言葉が彼の国にはあるけれど、実際に所属する階級を突き破って成功する人間は、他の先進諸国よりも低いという。貧しい家庭に生まれたクライドが、金持ち連中と関わることによって、彼らの仲間に入りたいと思うのはごく自然な感情だろう。自分と彼らを分かつものが何なのか疑問に思うのもよく分かる。結局のところ、人生の大半は生まれによって決まるのであって、そこから這い上がるには相当な運が必要なのだ。クライドはあともう少しのところまで行った。しかし、女工ロバータを妊娠させたことによって台無しにしてしまった。状況を打開しようと殺人計画を練ることで、さらなる悲劇へはまってしまうのだから、これはもう救いようがない。クライドの人生は最初から詰んでいたんじゃないかと思える。

クライドの魂を救おうと獄中にやってきた牧師が、彼の胸の内を聞いて、「わが子よ! わが子よ! そのとき、きみは心のなかで人を殺した」と言い放つところが印象的だった。つまり、実際に人を殺していなくても、相手が死ねばいいと思った時点で、それは人を殺したも同然なのだ。この辺の理屈は、哲学者のカントみたいだと思った。行為の帰結よりも、行為の動機に重きを置く立場*1。現代の裁判において、動機を重視して量刑を決めるのも、おそらくこれと関係しているのだろう。仮に自分が裁判を担当したとして、情状酌量の余地がどの程度あるかを判断するのは難しそうだ。

*1:というか、聖書に「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイによる福音書)というくだりがあった。

ウィリアム・シェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』(1590?)

★★★★

ローマ帝国の将軍タイタス・アンドロニカスが、ゴート族との戦争に勝利して首都に凱旋する。彼は捕虜にしたゴート人の女王タモーラの長男をバラバラに切り刻んで殺害し、戦死した我が子への生贄にした。やがてタモーラは、新しくローマ皇帝になったサターナイナスと結婚、タイタス・アンドロニカスとその一族への復讐を実行する。

ディミートリアス さてと、その舌でしゃべれるなら、言いつけてこい、

誰に舌を切られ、誰に犯されたか。

カイロン 思っていることを書いて、ばらしちまえ、

その二本の切り株で字が書けるなら。

ディミートリアス 見ろ、腕ふりまわして訳わかんないこと書いてるぞ。

カイロン 家に帰って、きれいな水を持ってこいと言って、手を洗うんだな。

ディミートリアス 言おうにも舌はなく、洗おうにも手はない、

だから、その辺を黙ってほっつき歩かせておこうや。

カイロン これが俺だったら首くくるっきゃないな。

ディミートリアス その縄を綯う手があればな。(p.80)

暴力的な場面が満載で驚いた。まず最初にタイタス・アンドロニカスが、タモーラの長男アラーバスの四肢五体を切り刻んで燃やしたかと思えば、お次はタモーラの下の息子たち(ディミートリアスとカイロン)が、タイタス・アンドロニカスの娘ラヴィニアの両手を切り落としたうえ、ものが言えないよう舌を切り取って強姦している。さらにはタイタス・アンドロニカスが、逮捕された息子の助命を嘆願するため、自身の左手を切り落としているのだから凄まじい。この執拗なまでの肉体欠損はいったい何なのだろうか? 世間ではリョナという性癖があるようで、『メイドインアビス』【Amazon】はそれを取り入れた傑作アニメだったけれど*1、ラヴィニアの両手と舌が切断されるところはまさしくこのリョナに分類されると言える。当時の観客たちは、不具になったラヴィニアを見て性的興奮を覚えていたに違いない。まさか現代で流通しているフェティシズムが、遠い遠い昔のエリザベス朝期にも見られるなんて夢にも思わなかった。ただ、スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』【Amazon】によれば、中世の拷問は大衆娯楽の一形態で、犠牲者が悲鳴をあげて苦しむのを大勢の人びとが大喜びで見物したという。なので、シェイクスピアの時代にその精神が残っていても不思議ではない。人間には凄惨な暴力を目の当たりにしたいという本質的な欲求が備わっている。

全体的に本作は、復讐が復讐を呼ぶ陰鬱な悲劇なのだけど、中にはちょっとずれたユーモラスな会話があって、それが一服の清涼剤というか、ブラックユーモア的なアクセントになっている。具体的には、第三幕第二場にあるハエをめぐるやりとりがそうで、ハエを殺したマーカスに対するタイタス・アンドロニカスの態度は、本気なのか冗談なのか判別がつかない。この人を食ったところがシェイクスピア劇の醍醐味ではなかろうか。前にも書いた通り、戯曲はストーリーよりもセリフのほうに注目すべきで、シェイクスピアが苦手という人は読み方を変えてみるといいかもしれない。いやホント、会話がとても面白いから*2

タイタス・アンドロニカスがタモーラに息子(ディミートリアスとカイロン)の人肉パイを食べさせる場面を読んで、殷の紂王が周の文王に息子(伯邑考)の肉で作った羹を食べさせたエピソードを思い出した。こういうのは洋の東西変わらないのだろうか。ともあれ、本作は残酷な場面が目白押しで、異色のシェイクスピア劇という感じだった。

*1:肉体欠損といえば、アニメ『エルフェンリート』【Amazon】を思い出す。これは『メイドインアビス』を超えるほどのグロさだけど、お世辞にも傑作とは言えなかった。萌えとグロを両立させたアニメである。

*2:わざわざこのようなことを書くには理由があって、それはTwitterで「シェイクスピアの面白さが分からない」というようなツイートを見かけたからなのだった。ツイート主は普段ミステリを読む人で、シェイクスピアは初めて読んだらしい。リプライするか迷ったが、差し出がましいと思ったのでやめた。

『ギルガメシュ叙事詩』(1200? BC)

ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

 

★★★

ウルクの王ギルガメシュは暴君として都城に君臨していた。ウルクの住民が神々に彼の非道を訴えると、大地の女神アルルが粘土からエンキドゥというの名の猛者を造り、都城から少し離れた野に解き放つ。エンキドゥは自然の中で動物たちと野獣のような生活を送っていた。ところが、そこにギルガメシュが娼婦を送って彼を人間らしくしてしまう。やがてギルガメシュとエンキドゥは取っ組み合いの格闘をし、お互いの力量を認め合って友情が芽生える。その後、2人は森の番人フンババを倒しに遠征するのだった。

彼らは牡牛のように強くつかみあった

壁がわれ、戸はこわれた

ギルガメシュとエンキドゥは

牡牛のように強くつかみあった

壁がわれ、戸はこわれた

ギルガメシュは膝をかがめ

両足は地面につけた

彼の怒りは静まり

彼はくびすをかえした

彼がくびすをかえすと

エンキドゥはギルガメシュにむかって言った

「お前の母はお前を第一の者として生んだのだ

猛き牛のなかの強き牛よ

ニンスンナよ

お前の頭は人びとのうえに高められ

人びとに対する王の位を

エンリルはお前に授けられたのだ」(p.52)

最近観た『Fate/Zero』【Amazon】と『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』【Amazon】は、神話や歴史に名高い英雄たちが英霊として現代日本に召喚されて殺し合いをするアニメでなかなか面白かった。大雑把に言えばバトルロイヤルもので、最後に残った1人が聖杯によって願いを叶えてもらえるという枠組みになっている。その英霊の中にギルガメシュ(アニメではギルガメッシュ)が最強のサーヴァントとして登場したため、興味をおぼえた僕は元ネタである本作を読んでみることにした*1。なお、現代人として身につけるべき教養はアニメである。Fateはエンターテイメントでありながら、哲学的な要素も含まれているので、文学ファンが観ても楽しめることだろう。「Fateは文学」とはよく言ったものである。

僕はFateからギルガメシュを知ったので、そのギャップにはかなり面食らった。Fateだと、ギルガメシュは王だから戦士みたいに格闘は得意ではないとされていたけれど、実際は猛者のエンキドゥと互角の戦いを演じている。そもそもFateにはエンキドゥのエの字も出てこなかった。アニメのギルガメシュは王の中の王として描かれており、王とはいかにしてあるべきかをアーサー王イスカンダルに説いている。よく考えたら、古代において英雄とは武力に秀でた者であり、あの智将と呼ばれるオデュッセウスでさえ武力は人並み以上にあったのだから、ギルガメシュも強くて当たり前なのだ。エンキドゥとの友情はなかなか熱いものがあって、ギルガメシュがアニメみたいな俺様キャラじゃないところが新鮮。さらに、神々が人間界に介入してくるところは後世のギリシャ神話を思わせるところがあり、こういうのは全世界共通のパターンなのかと感心した。

一番びっくりしたのは、旧約聖書(『創世記』【Amazon】)に書かれたノアの方舟が、名前を変えて本作にも出てくるところだ。ギルガメシュは永遠の命を求めるべく、方舟を作って生き延びた聖王ウトナピシュティムのもとを訪れる。聖王はギルガメシュに大洪水のことを物語るのだった。こうやってノアの方舟が複数の文献に書かれていることを考えると、古代の大洪水は実際にあった歴史的事実なのだと思えて何だかわくわくしてしまう。そもそも、数千年前に粘土板に刻まれた物語が、こうして現代人のもとに届いていることだって十分感動的だ。こんな昔から物語が存在していたことに文化人類学的な興味をおぼえる。今も昔も、人は物語を必要としている点では変わらないようだ。

*1:ついでに、アニメにはアーサー王も出てくるので、それ関連の書籍を読んだり、映画『エクスカリバー』【Amazon】を観たりもした。

ジェームズ・ロバートソン『ギデオン・マック牧師の数奇な生涯』(2006)

ギデオン・マック牧師の数奇な生涯 (海外文学セレクション)

ギデオン・マック牧師の数奇な生涯 (海外文学セレクション)

 

★★★

スコットランドの出版社にギデオン・マック牧師の手記が持ち込まれる。そこには彼の生い立ちのほか、突如森の中に出現した巨大な立石や、洞窟での悪魔との対話といった超常的な体験が書かれていた。マック牧師は厳格な家庭で育ち、信仰心のないまま牧師になったことを明かしている。彼はベン・アルター山で遺体で発見された。

「どれほどの確信を持つ無神論者でも、死の瞬間には少しくらい恐れるものでしょうね」彼女が言った。「もしかしたら、宗教のことなんてろくに考えない私みたいな人間よりずっとね。もしあなたが無神論者だったら、それを貫き通せると思う?」

私はパスカルのコインを思い出した。そして、確実な死を前にしてもまったく恐れなかったデビッド・ヒュームを。「キャサリン無神論者なんかじゃなかったんだよ」私は言った。「あの人は不可知論者だったんだ。神の存在を否定するのは、神の存在を断言するのに等しく傲慢かつ愚かな行為だと言っていたよ。現実だと分かっているものを信じることこそ、唯一の分別ある道なんだってね」(p.346)

原題は"The Testament of Gideon Mack"。デイヴィッド・コパフィールド式の自叙伝というか遺書なのだけど、そこは出版社に持ち込まれた手記という入れ子構造になっていて、どこまでが本当でどこからが嘘なのか分からない、なかなか面倒な話になっていた。まあ、曲がりなりにも現代文学だから、「信頼できない語り手」を踏まえつつ、ベタな語り方はしないということなのだろう。読んでいる最中は物語に引き込まれて事の真偽なんてあまり気にしなかったけれど、作中にたびたび編者の注釈が入ることでこれが手記であることを再確認させられる。また、エピローグでは違った視点から彼の物語を捉えていて、解釈の余地を残すような工夫が凝らされている。しかし、基本的には自分の人生を語るストロングスタイルの物語なので、古典的な楽しみと現代的な楽しみが味わえる一粒で二度美味しい小説という感じだ。この世で最高の娯楽は、他人の人生を覗き見することである。本作は変則的でありながらもそういうニーズをきっちり満たしてくれるので、デイヴィッド・コパフィールド式の古典的な物語が好きな人ならはまるかもしれない。

主人公が牧師なので、当然ながら信仰が重要なトピックになっている。マック牧師は信仰心がないまま牧師になった稀有な存在なのだった。現代社会においては、牧師は弁の立つ社会福祉士みたいなもので、共同体の世話焼きさえしていれば信仰心は必要ないのかもしれない。僕の知人に住職の跡継ぎがいるけれど、彼が仏教を信仰しているかといえば、答えは否である。たまたま父親が住職だから自分も住職になるだけのことだ。ということは、欧米でも牧師だからといって無条件にキリスト教を信仰しているとは限らないのではないか。世界はもう神も悪魔も必要としていないのだから、職業としての牧師が形骸化するのも仕方がないことだろう。これが果たして良いことなのか悪いことなのか、なかなか判断が難しいところではある。

本作の最大の見どころは、マック牧師が悪魔と対話する場面である。この悪魔が従来の悪魔とは違った造形をしていて、本当に悪魔なのか分からない。悪魔のくせにマック牧師の命を助け、さらには傷まで治してくれる善人ぶりである。思うに、この世に神と悪魔(みたいな超越者)がいるとして、それが果たしてキリスト教の世界観に合致するかと言ったら、その可能性は限りなく低いだろう。キリスト教以外のすべての宗教ともおそらく合致することはないはずだ。というのも、宗教とは人間の想像の産物、すなわちフィクションであるから。結局のところ人類は、フィクションの中に生きてフィクションの中で死ぬ、そんな哀れな存在なのかもしれない。

ソール・ベロー『ラヴェルスタイン』(2000)

ラヴェルスタイン

ラヴェルスタイン

 

★★★★

政治哲学の教授エイヴ・ラヴェルスタインは、著書が世界中でベストセラーになった大金持ちだった。彼はユダヤ人であり、男を愛する自称「性倒錯者」でもある。ラヴェルスタインの友人で作家のチックは、彼からメモワールを書くよう依頼される。ラヴェルスタインはHIVの合併症によって死に瀕していた。

我々はふたりとも、フランスに住んだことがあった。フランス人は純粋に教養人だった――あるいは、かつてはそうだった。今世紀に入り、彼らはひどい敗北を味わった。しかしながら、今なお美しいものに対する真の感性、レジャーに対する感性、また読書と会話に対する感性をもっていた、それでいて生き物としてのニーズ――人間としての基本――を軽蔑することはなかった。私はフランス人に対して、この激励の発言を今度もつづけていくつもりだ。(p.62)

一読した印象としては、まるでフィリップ・ロスが書きそうな小説だった。要はユダヤ人を題材にした小説だけど、欧米の人文学や経済学といった専門知を織り交ぜつつ、ホロコーストやその他の歴史的事象に接近していくところはなかなかスリリングである。最初はラヴェルスタインの強烈な個性が物語の誘引になっていたから、いまいち掴みどころがなかったんだよね。序盤は様々な哲学者や経済学者に言及したり、懐かしのマイケル・ジャクソンが登場したりで、ここからユダヤ人の話に舵を切るとは予想外だった。アメリカ文学はアメリカ国内で閉じているような印象があったけれど、本作はアメリカに足場を置きつつ、ヨーロッパの学問なり文化なりが主体になっている。ユダヤ人とは何かということを考えるには、そこに立ち返る必要があったのだろう。本作が20世紀の最後の年に出版され、さらには著者の遺作になったというのが示唆的で、20世紀の痛ましい問題を総括した小説としてとても興味深かった。

彼がユダヤ思想、即ち、ユダヤの精髄ともいえる小道をたどっていたことが見れ取れた。この頃になると、どんな会話においても、彼がプラトンやトゥキュディデスに言及するのは稀になった。むしろ、今では聖書の言葉で彼は満ちていた。宗教について語り、そして本当の意味で、"人間であること"という困難なプロジェクトについて語り、さらには人間になること、人間にのみなるということについて語った。たまには、理路整然としていることもあった。しかし、ほとんどの場合、彼の言っていることが私にはわからなかった。(pp.232-233)

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』【Amazon】によれば、家庭内から地域、異なる部族や武装集団同士、さらには国家間にいたるまで、さまざまな規模における暴力は、時代が経つにつれて減少しているという。ただ、そうは言っても20世紀の大量虐殺についての記憶は生々しく、どうしてあのような殺戮を許したのかという問題が脳裏から離れない。本作では登場人物の誰かが、アメリカのニヒリズムは底が浅いと嘆いていた。しかし、だからこそアメリカはナチス・ドイツみたいにはならなかったのだろう。ヒトラーの指導原理が根深いニヒリズムにあったことはしばしば指摘される通りである。現代のユダヤ人が自身のユダヤ性について考える場合、どうしてもホロコーストの問題は避けては通れないわけで、それゆえにしばしば文学の題材になっている。こういうのを対岸の火事といって切り捨てず、我々にも関係のある普遍的な物事として考えていくのが重要なのだと思う。

訳者あとがきによると、ラヴェルスタインのモデルはアラン・ブルーム、チックのモデルはソール・ベロー、ダヴァール教授(ラヴェルスタインの恩師)のモデルはレオ・シュトラウスだという。一応、ここにメモしておく。