海外文学読書録

書評と感想

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(1980)

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

 

★★★

語り手のハニチャは35年間、プラハの地下室で故紙や本を潰す仕事をしていた。具体的には、水圧プレスの緑と赤のボタンを押して紙を潰している。ハニチャは職場の本を読むことで心ならず教養が身についていた。彼はナチス政権と社会主義政権を跨いで生きており、その間マンチンカという女性やジプシーたちと関わっている。

そして今度は、僕がまた一人きりになり、孤独の中で仕事のメカニズムだけにはまって、肉蝿の紐に絶えず取り巻かれ鞭打たれていると、イエスウィンブルドンを制したばかりのテニスの優勝者に見え、一方、老子はすっかりおちぶれて、豊富な在庫があるのに何も持っていないように見える商人に似てきた。イエスのすべての暗号や象徴が持つ血まみれの肉体性が見え、一方、老子は経帷子を身にまとって、削っていない木の板を指しているのが見えた、イエスはプレイボーイで、一方、老子は分泌腺に見捨てられた独身老人であるのが見えた。イエスは命令するように手を上げて、力強い手振りで自分の敵たちを呪い、一方、老子は諦念の中で、折れた翼のように両腕を垂れているのが見えた。イエスロマン主義者で老子は古典主義者であり、イエスは上げ潮で老子は下げ潮であり、イエスは春のようで老子は冬のようであり、イエスは実効性のある隣人愛で老子は空虚さの頂点であり、イエスは未来への前進で老子は本源への回帰であるのが見えた……。(57-8)

一つの章を一つの段落で語り切る大変密度の高い文章で、その記述は時に衒学的であり、時に幻想的でもある。本作はエピソードが断片的に散りばめられていて、特に一本筋が通った明確なストーリーはない。全体の長さは中編くらいだけど、文章が濃密で読み通すのにえらい骨が折れた。こういう前衛的な小説を読んだのは久しぶりのような気がする。

マンチンカのエピソードが面白かった。彼女はダンスホールの便所で自分の長いリボンと髪飾りを汚物まみれにしてハニチャと踊り、周囲に汚物を撒き散らして「クソまみれのマンチャ」とあだ名をつけられてしまう。その後、ハニチャと旅行したときには、片方のスキー靴の後ろに大きな糞をつけて歩くなんてこともする……。全体的に本作は暗いイメージなのだけど、こういうブラックユーモアを交えているところが何とも心憎い。マンチンカと縁が深い糞は、たくさんの鼠が生息する地下室とも呼応しているし。それと、冒頭で引用したイエス老子のエピソードも好きだ。ヨーロッパの小説でこの2人を同列に並べて語ったのって初めて読んだかもしれない。

20世紀に入ると、もう19世紀の小説みたいな冒険はないんだなと思った。ハニチャは35年間、淡々と同じ仕事を繰り返しているわけで、つまり現代とはそういう時代なのだろう。生きるというのは長期にわたる労働の繰り返し。毎日毎日自宅と職場を往復する。ハニチャは労働のなかにささやかな楽しみを見出しているけど、大抵の人にとって労働とは、この世に生まれ落ちたことに対する罰なんじゃないかと思う。それこそキリスト教でいう原罪を贖っているというか。サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言っていたけど、我々が選択できる自由なんて実はそんなにない。生まれた国、生まれた時代、生まれた家庭によって生き方は限定される。自分の意思で「生きる目的」を掴み取るなんて幻想ではなかろうか。普通の人は毎日の労働で疲弊してそれどころではないのだ。人間は自由の刑ではなく、不自由の刑に処されていると言えよう。

ネット上の感想を見ると、「カフカ的不条理」という言葉を用いて本作を説明している人が多かった。けれども、この言葉って人によって意味合いが違うというか、定義が曖昧なまま何となく使われていると思う。

僕にとって「カフカ的不条理」は、ミラン・クンデラが『小説の技法』【Amazon】で述べた次の文章がしっくりくる。

カフカ的な世界では、書類はプラトンイデアに似ている。書類が真の現実の代わりになる一方で、人間の身体的な存在は錯覚のスクリーンに映された映像にすぎなくなるのだ。じっさい、測量士Kもプラハの技師も彼らの整理カードの影でしかないのだが、じつはそれ以下のものである。彼らは書類上の間違いの影、つまり影として存在する権利さえもない影なのだから。(143)

卑近な例だと、公的機関で何らかの手続きをするときに「カフカ的不条理」を感じるかな。確定申告とか、運転免許の更新とか。小市民的で申し訳ないけど……。

ミハル・アイヴァス『黄金時代』(2001)

黄金時代

黄金時代

 

★★★

民俗学者の「私」は大西洋の島に3年ほど滞在していた。島民たちは島に名前をつけておらず、さらには島民自身の名前がコロコロ変わっていく。「私」はそんなへんてこな島について語りつつ、話は脱線してパリ在住のチェコ亡命者が女泥棒を捕まえるエピソードを披露する。その後、「私」は島民たちがシェアする1冊の奇妙な「本」に出会うのだった。

島の「本」はその当初から芸術作品としては破綻していた。だが、ほぼ確実に言えるのは、島民たちもこの破綻を後押ししていたということだ。(…)今思うに、「本」は芸術を嘲笑するものであって、芸術のパロディだったのだろう。島民たちは芸術が好きではなかった。芸術という形は無形の信念の前に立ちはだかり、芸術の音は沈黙の音楽を遮断してしまうからだ。(333)

慣れというのは怖いもので、もはや欧米を舞台にした現代小説には異国情緒を感じなくなってしまったけれど、本作は現実にはあり得ない島を描いていて、異国情緒どころか異世界みたいな感覚をおぼえた。「私」が訪れた島はグローバリズムの波に飲み込まれておらず、独自の文化を維持しているのが何とも不思議な気分だ。というのも、だいたいこういう島って欧米の植民地にされて言語も文化も上書きされてしまうからね。かつてはヨーロッパから征服者が来たものの、彼らは島民に同化してしまったという。うーん、はっきり言って信じがたい成り立ちだ。まあ、フィクションだからこういう島があっても良いし、むしろ大歓迎ではある。島の地形には段差があって、水の壁で区切られているところが幻想的。僕も一度は観光に訪れたいと思った。

しかし、実はここまではほんのプロローグに過ぎず、物語の半分に差しかかる第29章からが本番になる。ここで「私」は島民によって書き継がれている「本」に出会うのだった。その「本」には物語が書かれているのだけど、加筆に加筆を重ねて制御できない増殖と膨張を繰り広げている。挿入によって絶えずテクストが変化するところは、まるで無限に変化し続けるインターネットのようだ。僕はWikiを使ったリレー小説を連想したけれど、訳者あとがきではWikipediaが引き合いにだされていたので、自分が思いつくことは大抵他人も思いつくのだなあと軽く落ち込んだのだった。

まあ、それはそれとして、今読んでいるテクストは1年後には跡形もなく消えているかもしれない、1回限りの偶然によって出会ったものであり、後半で「私」が紹介している物語もそういう類のものだと考えると、何か世界の奥行きの深さに触れたような気分になる。人生には同じ瞬間などない、というどうしようもない真実に気づかされたというか。こういう「本」を読むことは最高の贅沢かもしれないと思った。千利休が言ったとされる「一期一会」がしっくりくる。

ところで、『もうひとつの街』ではサメが、本作ではダイオウイカがそれぞれ出てくるけど、著者は水生生物に何か愛着なり拘りなりがあるのだろうか。チェコには海がないのに……。

ウンベルト・エーコ『女王ロアーナ、神秘の炎』(2004)

女王ロアーナ,神秘の炎(上)

女王ロアーナ,神秘の炎(上)

 

★★★

1991年。もうすぐ60歳になる男が病院のベッドで目覚める。彼の名はジャンバッティスタ・ボドーニ(愛称ヤンボ)。ヤンボは事故で記憶喪失になっていた。彼は本を読んだり人から聞いたりして知るようなことは覚えているものの、直接的な体験に結びついたことは覚えていない。妻に迎えられて退院したヤンボは、稼業である古書販売業に戻る。その後、失われた記憶を取り戻そうと、幼少期を過ごした祖父の屋敷へ向かう。

こういうわけでぼくは祈る。「おぉ、よき女王ロアーナよ、あなたのうちひしがれた愛の名において、あなたの何千年ものいけにえをその石のような眠りから再び起こすのではなく、ただぼくにひとつの顔をお戻しください……。ぼくは強制的な眠りの最悪な潟から見るべきものを見ましたが、ぼくを救いの淵へともっと高く引き上げてください」(下 237)

横書きでカラー図版が多数盛り込まれた風変わりな小説だった。主人公のヤンボは素人とは思えないくらい博識で、文学作品や歴史的人物について多彩な言及をする。しかしその一方、自分のことといったら何一つ覚えていない。記憶を失う前は霧についての文章を蒐集しており、作中ではそれらが豊富に引用される。さらに、序盤から『白鯨』【Amazon】や『失われた時を求めて』【Amazon】などの小ネタも盛り込まれていて、まさに読書人の鑑といった感じだ。と、そんなインテリ男が自分探しをする過程で、子供時代を過ごしたファシスト政権期の大衆文化が紹介されていく。本やら歌やら絵やらがカラー図版でずばずば挿入されていく。こういう小説を世間では何と言うのか分からないのだけど、個人的にはリスト小説と呼んでみたい。

というのも、著者は『ウンベルト・エーコの小説講座』【Amazon】で次のように述べているのだ。

ラブレーによって、リストは「歪み」への純粋な愛にもとづく詩的なものへと変化しました。それ以前まで、リストは、あくまでも困ったときの「最後の手段」であり、何か言葉で言い表せないものがあるときに頼るものでした。それは、ある種の苦しみを抱えたもので、ランダムで統一感のない要素の集まりにいつか何らかのかたちで秩序を与えたいという静かな望みを孕むものでした。ラブレーは、「純粋なリストへの愛にもとづくリストの詩学」、すなわち「過剰なリストの詩学」を生み出したというわけです。(200-1)

本作は特に祖父の家で過ごす第2部が「過剰なリストの詩学」に溢れていて、一人の男の人生を形作った「歪み」が提示される。ヤンボにはヤンボのリストがあって、僕には僕のリストがあって、みんなそれぞれ違った文化を栄養にして育っているわけだ。こういう自分史に絡めた大衆文化への偏愛は、たとえば堀江敏幸のエッセイが好きな人には堪らないものがあると思う。読書好きはリストも好きだろうからね。第2部はちょっと読む人を選びそうだけど、「過剰なリストの詩学」と聞いてピンと来る人は問題なく楽しめるはずだ。

あと、第2部で面白かったのは、無政府主義者のグラニョーラが独自の神学論争を展開するところ。神を信じていないのかと思ったらそうではなく、神は邪悪だと主張している。神は人間を奴隷ではなく、自由意志を持った自由人として作った。自由意志があるゆえに、善を為すこともあれば悪を為すこともある*1。それについてパルチザンの活動と絡めてケチをつけていくところは、屁理屈この上ないと感心した。神について語らせたら、キリスト者の右に出るものはいないと思う。

16歳のときに恋した女が、ヤンボにとって永遠の女になっているのには苦笑した。たとえ40年連れ添った妻がいようとも、10代の頃の恋は特別なのだ。男は「名前を付けて保存」、女は「上書き保存」とはよく言ったもので、僕も概ねそういうところがある。ホント、男というのはどうしようもない生き物だよ。いくつになっても思い出の中に生きている。

*1:この自由意志をテーマにした小説が、アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』【Amazon】である。また、『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】に出てくる「大審問官」も自由意志をめぐる話。

ワシーリー・グロスマン『人生と運命』(1980)

人生と運命 1

人生と運命 1

 

★★★★

1942年。ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍の侵攻を食い止めていた。物理学者のヴィクトルは原子物理学の論文が評価されるも、ひょんなことから政治的危機に陥る。ドイツの捕虜収容所にいるモストフスコイは、収容所内で政治活動を展開することになる。軍医のソフィアはドイツの強制収容所に向かうユダヤ人移送列車のなかで、7歳の少年ダヴィッドと出会う。大隊コミサールのクルイモフは、戦場で濡れ衣を着せられて監獄に入れられる……。各自がそれぞれの人生と運命を歩むなか、ソ連軍はスターリングラードで大攻勢を始めようとしていた。

「罪のない人間などという考えは中世の遺物だ、錬金術だ。トルストイはこの世には罪ある者などいないと言ったが、われわれチェキストは、最高のテーゼを提唱したのだ。すなわち、この世に罪のない者などいないし、裁判にもちこめない者などいないというテーゼをね。令状の出される者は有罪であり、令状は誰に対しても出せる。どの人間にも令状をもらう権利がある。生涯にわたって他人に令状を出してきた人間だってそうだ。御用が済めばお払い箱なのさ」(vol.3 35)

ハードカバー全3巻・合計1400ページの大作。作品自体は1960年に完成していたが、KGBに原稿を没収されて生前の出版は叶わず、著者の死後に友人が秘匿していた原稿の写しが国外に持ち出されて出版されたという。そういう曰く付きの物件だけあって、ソ連に対する眼差しは極めてまっとうだった。ソ連ナチス・ドイツと大差ない抑圧的な政治体制であることは、西側諸国の人にとっては周知の事実だろう。しかし、ソ連国内でそれを指摘したらたちどころに弾圧されてしまう。社会主義体制の下では言論の自由などないのだ。最近、日本でもPC絡みで表現規制が話題になっているが、表現の自由を放棄することは、自分たちの社会をナチス・ドイツやソ連と同等のものにすることであり、ファシズムの一翼を担っているということに気づいたほうが良いと思う*1

本作は20世紀版『戦争と平和』【Amazon】と呼ぶにふさわしい重量級の小説だった。『戦争と平和』がナポレオンによるロシア遠征を題材にしていたのに対し、本作はナチス・ドイツによるバルバロッサ作戦、厳密に言えばスターリングラード攻防戦を題材にしている。ただ、戦争が主体になっているかと言えばそうでもなく、戦時下に生きる人たちにスポットを当てることで、その時代の社会体制を包括的に捉えているという感じだ。本作には明確な主人公は存在しない。覚えきれないほどたくさんの人物が登場する*2。実在の人物と架空の人物を織り交ぜて一つの世界を形作るところに迫力があって、ソ連ナチス・ドイツの双方を射程に収め、その鏡像関係を明らかにしているところは圧巻の一言だった。たとえば、ソ連は社会的出自によって差をつける。ブルジョワプロレタリアートのように。一方、ナチス・ドイツは民族的出自によって差をつける。アーリア人ユダヤ人のように。ソ連の中央集権体制は国家の利益に個人が供されるものだが、これは言うまでもなくナチス・ドイツも同様だ。このように社会主義ファシズムには強い類似性が認められる。本作は20世紀後半の小説なのに既に古典の風格を漂わせているが、それはひとえに社会体制に対する問題意識がしっかりしているからだと思う。

ある登場人物が「個人主義には人間愛などない!」と主張していたのにはぞっとした。個人よりも国家の優位性を認めることが社会主義リアリズムであるという。現代人の価値観からしたら実におぞましい考えだ。しかしながら、こういう思想は過去のものではなく、現代の民主主義国家にも未だに燻っている。ヨーロッパでは極右政党が台頭しているし、日本においても状況は他人事ではない。世界はまた暗黒の時代に後戻りするのではないかとちょっと不安になっている。

*1:ソ連にはソ連のPCがあって、ナチス・ドイツにはナチス・ドイツのPCがある。PCは絶対的なものではない。その時々の政治体制によって自在に変化する。

*2:巻頭にある登場人物一覧には助けられた。

コルム・トビーン『ブルックリン』(2009)

ブルックリン (エクス・リブリス)

ブルックリン (エクス・リブリス)

 

★★★

1951年。アイルランドの田舎町エニスコーシーに住むアイリーシュは、まともな就職先がないなか、地元の個人商店で週一の仕事をする。その後、神父の伝手でアメリカに渡り、ブルックリンの百貨店で働くことになるのだった。アイリーシュは下宿先で自分と同じアイルランド人娘たちと交流、ホームシックになったのを機に簿記の夜学に通う。生活が軌道に乗ったある日、彼女はダンスホールでイタリア系のトニーと出会い、彼と恋仲になる。

わが家は悲しみで溢れている。たぶんわたしが気づいている以上に。アイリーシュはそう考えて、それ以上悲しみを増やさないようつとめた。母親とローズがごまかせない相手だというのはわかっていたが、アメリカへ発つ日まで涙を閉め出さなければならないもっと大きな理由があった。涙なんか必要ない。その日まで、その朝まで、微笑みを絶やさずにおくこと。そうすれば、ふたりがわたしの微笑みを覚えておいてくれるから。(47)

歴史小説といえば歴史小説なのだけど、その手のジャンルにありがちな動乱の時代を題材にしているわけではない。一方ではキリスト教の伝統が残りつつ、一方では大量消費社会への道が開けていく時期を描いていて、当時の文化や生活の有り様*1を活写しているところが興味深かった。エニスコーシーとブルックリンの違いは、アイリーシュが仕事をした個人商店と百貨店の違いに表れている。前者が店主の好みによって客を選別しているのに対し、後者はお金があればたとえ黒人だろうと区別をしない。これがエニスコーシーとブルックリンの差であり、田舎と都会の差である。資本主義を推し進めていくと、人種差別は市場の働きによってなくなるのだなあと感心したのだった。何せお金の前では皆平等だからね。この時期はブルックリンに黒人の住民が増えて、百貨店にも彼らが来客するようになったという背景がある。本作はこういう社会的トピックと、アイリーシュが出会う人たちの個性が光っていて、著者の職人芸的な筆致が冴え渡っていた。特に女の性悪な部分にリアリティがあったと思う。

終盤はアイリーシュが2人の男のうち、どちらと結ばれるのかという興味で引っ張っていて、これが予想もつかずとてもスリリングだった。結婚制度というのは残酷で、たとえ結婚後に運命の人と出会っても、その相手と結ばれることはできない。今だったら離婚して再婚するという選択肢があるけれど、キリスト教の伝統が色濃く残る当時のエニスコーシーではそれも不可能なのだった。婚姻届というたった一枚の紙切れで、こんなに人生の幅が狭まってしまうとは何て理不尽なのだろう。結婚とは一生ものの選択なので、一時の感情に流されてはいけない。じっくり考えて決める必要がある。アイリーシュは身をもって痛感したに違いない。

海外文学を読むことは、擬似的に異文化交流をすることなんだなと改めて思った。訳者あとがきには、「読者はページを繰るうちに、アイルランド人特有と思っていた心理の機微が、日本人の伝統的な心性ときわめて似通っていることに気づくだろう。」(338)と書いてあるけれど、そんな共通点なんかはまったく目に入らず、むしろ相違点ばかりが心に残った。やはり場所も違えば時代も違うからね。アイルランド人のアイリーシュがイタリア人のトニーと異文化交流するように、僕も本書と時空を超えて異文化交流したのだった。

*1:若者の娯楽がダンスというのが何ともツボだった。映画で見た世界だ。

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(1975)

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

 

★★★

第二次世界大戦期。ロサンゼルス出身のヘンリー・チナスキーは、ニューオリンズやニューヨーク、フィラデルフィアなど、アメリカ各地を転々としながら、酒と女に溺れつつその日暮らしをする。彼は様々な仕事に就くも長続きしない。戦争が終わってもその生活は変わらず、就職してはクビになりを繰り返している。彼は作家になることを目指して雑誌社に短編を送っていた。

点呼は続いた。こんなに仕事の空きがあるってのはいいもんだな、とおれは思った。でも同時に心配もした――きっとおれたち、何か競争させられるんだ。適者生存だ。アメリカにはいつも、職探しをする人々がいる。使える体は、いつでも、いくらでもいる。そしておれは作家になりたいのだ。ほとんどすべての人間は作家だ。歯医者や自動車の修理工になれるだろうなんて、全員が思いやしない。でも、自分は作家になれるとみんな知っているのだ。この部屋の五十人の男の中でたぶん十五人が、おれは作家だと思っていることだろう。ほとんどすべての人間が言葉を使い、それを紙に書くことが出来る。つまり、ほぼ全員が作家になれるのだ。しかし幸運なことに、ほとんどの人間は作家ではなく、タクシー運転手ですらなく、そして何人か、かなり多くの人間は不幸なことに、何者でもないのだ。(217)

日本だと私小説にカテゴライズされそう。語り手のヘンリー・チナスキーは、無頼派と言えば聞こえはいいけれど、酒と女に溺れるわ、仕事は長く続かないわで、要はだめ人間である。俗に言う「だめんず」ってやつ。でも、職を転々としつつもちゃんと働いて自活しているのだから、昨今のニートよりはマシかもしれない。目立った金銭トラブルもないし、反社会的勢力に属しているわけでもない。ただ、生き方の多様性という面で考えれば、社畜ニートもチナスキーも別に大差ないだろう。一度きりの人生みんな好きに生きればいいと思う。人生に正解などないのだから。

とまあ、本作を読んでいるとそんな鷹揚な気分になってくる。なぜだろう? これはおそらく僕自身、チナスキーみたいな生き方に憧れているからかもしれない。というのも、僕が義務教育を受けていた時代は、工場労働者やサラリーマンを養成するような教育をしていて、集団生活を通して組織への従順さが求められていた。そこから外れる者は不良品として扱われ、チナスキーみたいな生き方は悪だと刷り込まれていた*1。今思えば、これは一種の洗脳なのだけど、さすがに子供だった当時はそれに気づかない。その後、大人になって世界を知ってからは、自分は何て狭い価値観のなかで生きていたのだろうと思い知ったのだった。世の学生たちは見聞を広めるために海外留学すべきだと思うが、さすがにそれは金がかかるので、せめて海外文学を読んで自分の価値観を相対化するといいと思う。自分の知っている世界が全てではないと分かると、人生を生き抜くうえで大きな強みになる。

それにしても、本作を読んでアメリカは移動の文化なんだなと思った。チナスキーは一つの場所に定住せず、ロサンゼルスやらニューヨークやらマイアミやら、アメリカ各地を転々としている。まさに『オン・ザ・ロード』の前史という感じ。それと、戦時中なのに平時とあまり変わらない生活をしているのにも驚く。普通に外出の自由があって経済が回っているし、憲兵が幅を利かせているということもない。こういう国に戦争を吹っかけたのは間違いだったとため息が出る。

*1:ブルーハーツの「ロクデナシII」という曲に、「どこかのエライ人 テレビでしゃべってる/『今の若い人には 個性がなさすぎる』/僕等はそれを見て 一同大笑い/個性があればあるで 押さえつけるくせに」という歌詞が出てくるが、まさにそんな感じの教育だった。

陳浩基『世界を売った男』(2011)

世界を売った男

世界を売った男

 

★★

2003年の香港で、夫と妊婦が惨殺された殺人事件が発生、許友一巡査部長もその捜査に携わっていた。ところが、許が前日の二日酔いから車の中で目覚めると、一晩のうちに世の中は2009年になっていた。どうやら記憶喪失になったらしい。そこへ雑誌記者の女性が取材のために許の元を訪れ、2人は一緒に6年前の事件の関係者に会いに行く。犯人は逃走中に事故死していたが、許は彼が主犯ではなく、他に共犯がいるのではないかと疑う。

「阿一、警官にとって一番大切なことはなんだと思う」

「市民の保護ですか? それとも犯罪者の処罰でしょうか?」

「ははっ。今日、警察学校を卒業したわけじゃあるまいし、そういう表向きだけの模範解答は昇級したあと上司の前で言うために取っておけって。いいか、警官にとってもっとも重要なのは、自分の命を守ることだ」(40)

島田荘司推理小説賞というのが台湾にあるようで、説明文によると中国語の作品を対象にしているようだ。本作はそれの受賞作だけど、何というか悪い意味で日本のミステリ小説みたいだった。

要するにまあ、サプライズのためのサプライズにあまり感心しなかったんだよね。本作は記憶喪失を巡る謎と殺人事件の真相が主な焦点になっているのだけど、前者の部分がちょっと作為的というか、三人称による全知の語りで、さらに過去の挿話を入れる構成で、こういうあからさまな錯誤を作るのはないだろうという不満がある。たとえば、これが一人称視点なら、信頼できない語り手ということで納得できる。しかし、これが三人称による語りだと、わざわざこういう錯誤を作ることの必然性が感じられなくて、結局はサプライズのためのサプライズじゃんって思ってしまう。僕は物語の自然な運動の先にサプライズがあるべきだと思っているので、こういう手段を選ばないタイプの小説はあまり評価できないのだった。

日本のミステリ小説は新本格の登場以降、大人の読むに堪えうるものではなくなってしまったため*1、僕はもうジャンク品だと割り切って漫画感覚で読むことにしている。だから国内ミステリへの要求水準はとても低い。それなりに形になっていれば、読み捨て本として及第点を与えることにしている。その反面、海外ミステリに対しては大人の観賞に堪えうるものを求めているので、どうしてもクオリティの高さが気になってしまう。いくらアジアがミステリ小説の後進地域とはいえ、日本の安っぽい小説を手本にするのはどうかと思うんだよね。どうせなら欧米の本格的な小説を真似てほしいところである。

なお、本作の3年後に書かれた『13・67』はオールタイムベスト級の傑作。作家とはこんな短期間で成長するものかと感動したのだった。

*1:ただし、横山秀夫は例外。彼の登場によって警察小説のハードルは格段に上がった。