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リチャード・パワーズ『エコー・メイカー』(2006)

エコー・メイカー

エコー・メイカー

 

 ★★★

ネブラスカ州。マークがトラックを運転中に事故に遭って意識不明の重体になる。姉のカリンが病院に駆けつけて彼を看病するも、意識を取り戻したマークは彼女のことを偽物だと思い込んでいた。マークはカプグラ症候群という障害を負っており、姉を認めないのはその症状だという。カリンはその道の権威である神経科学者のウェーバーに連絡を取り……。

人間とそのほかの動物が皆同じ言葉を話していた時、鶴の鳴き声は言いたいことを素直に伝えていた。今の私たちは不明瞭な谺の中で生きている。「山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る」とエレミヤは言った。人間だけが神の秩序を思い出せずにいる。(253-4)

全米図書賞受賞作。

家族の絆を中心に据えた、いかにもなアメリカ文学だった。もともとアメリカ文学は家族ものが多かったけれど、最近のは専門知識を交えた家族小説が目立つよなあと思う。といっても本作の場合、家族と言っても姉と弟しかいなくて、しかも2人の関係はカプグラ症候群によって絶望的な状況にあるという……。カプグラ症候群は統合失調症と似たところがあって、自分の違和感を妄想によって埋めてしまうため、正しい現実認識ができない。愛しの姉をよく似た別人だと思い込み、それは何らかの陰謀だとして彼女の献身を拒んでいる。2人の関係が物語を通してどのように変わっていくかが、本作の見どころの一つだろう。

一方で、本作にはミステリ小説的な要素があるところも見逃せない。マークの事故には他に2台の車が絡んでいたがそれらは行方不明だし、マークの病室にはまるで詩のような意味深な置き手紙があった。マークは意識を取り戻すも、事故前後の記憶は喪失している。さらにカプグラ症候群については、神経科学者のウェーバーが探偵のような役どころしてその治療を模索する。600ページもの長尺を読ませるにはいささか弱い謎だし、手紙についてはミスディレクションがないから誰の仕業かバレバレだったけれど、こういう構築の仕方はいかにも現代小説っぽいと思う。

本作は人間関係のあやが丁寧に描かれていて、キャラではなくちゃんと人間を描いているなという気がする。本当にこういう人たちが実在してそうというか。この小説では何度か視点が変わるのだけど、それによってお互いがお互いを誤解しながら何とか関係を保っていることが分かって興味深い。「人間を描く」ことに関しては、日本の現代小説は海外にだいぶ遅れをとっていると思う。

ウンベルト・エーコ『前日島』(1994)

★★★★

1643年。小貴族のロベルト・ド・ラ・グリーヴは、戸板一枚で海を漂流して一隻の船に辿り着く。見たところそこは無人のようだった。船からは島が見えるものの、ロベルトは泳げないので渡ることができない。彼はなぜ漂流したのか? それまでの経緯が語られていく。

「つまり、フェッランテは、あなたの恐怖心と羞恥心の象徴なのです。人間という動物は、往々にして、自分の運命を定めているのが自分自身であることを認めたくないので、あたかも想像力のたくましい無頼漢によって語られた小説のごとく、自らの運命を見たがるものなのです」(93)

ウンベルト・エーコ流のバロック文学といったところだろうか。自然科学やら神学やら妄想やらがボリュームたっぷりに詰め込まれていて、17世紀の西洋世界をここまで再現したのはすごいと感心した。遠い過去を題材にするには、綿密な時代考証とそれを再現する強固な文体が必要だけど、本作はそのどちらも兼ね備えている(翻訳が素晴らしい)。当時の人が世界をどのように認識していたのかが肌で感じられる力作だった。ちょっとこれは並の作家では書けないだろうなと思う。

本作の主筋は、ロベルトがいかにして船から島へ旅立つか? というシンプルなものだけど、さすがにそう簡単には事を運ばせない。物語は若い頃に体験したカザーレの町の包囲戦から説き起こし、その後は枢機卿の奸計に乗せられて<定点>の探索をするはめになり、さらには船内でカスパル神父との様々なやりとりが続く。特筆すべきはフェッランテという架空の兄の存在で、ロベルトは最後まで彼の幻影と格闘することになる。最初の登場からしばらくは鳴りを潜めるものの、終盤の小説論を交えたクライマックスに彼が絡んでくるから油断できない。そして、意外に思ったのが、子午線を決定する方法が重要なトピックになっているところだ。これを発見することが至上命題であり、国家の上層レベルまで関わってくるのだから驚く。「前日島」というタイトルは、この子午線の問題に繋がっているというわけ。この小説の面白さはこういった時代を感じさせるディテールにあるので、17世紀の西洋を体験したい人は必読だろう。

あと、随所にユーモアも織り込んであってちょっとニヤリとした。自作である『薔薇の名前』【Amazon】のエピソードがさりげなく披露されたり、カスパル神父が鐘のなかに入って海底を歩こうとして帰らぬ人になったり(その前の押し問答も笑える)、恋文の代筆をしてくれた親友サン・サヴァンが早すぎる退場をしたり。ロベルトの父親が一騎打ちを申し込んできた敵を剣で相手するのではなく、銃であっさりと射殺したのもウケた。ウンベルト・エーコは本作をけっこう楽しみながら書いたんじゃないかと思う。

ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(2013)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

 

★★★

(1) 19世紀。軍人フレッド・バーナビーと女優サラ・ベルナールは気球で空を飛んだ。(2) フレッド・バーナビーがサラ・ベルナールに結婚を申し込む。(3) 作家の「私」ことジュリアンは妻を亡くして自殺を考えていた。

人生の各段階で、世界はざっと二つに分けられる。まずは、すでに初体験をすませた者とそうでない者。次いで、愛を知った者とまだ知らない者。さらにのちには――少なくとも運がよければ(いや、見方を変えれば、悪ければ、だろうか)――悲しみに堪えた者とそうでない者。この区分けは絶対的だ。いわば回帰線であり、越えるか越えないしかない。(84)

一流の作家が自分の悲しみを題材にして小説を書くとこうなるのかという感じ。発想からして全然違った。物語は3部構成なのだけど、何でのっけから気球のエピソードで始まるのだろうかと疑問に思い、後にそれが本筋である自己のエピソードと上手く噛み合っていることが分かって感心する。本作は日本だと「私小説」に分類されそうだけど、こういう意表を突いた組み合わせ、シナプスが好調に働いたような小説は珍しいような気がする。また、自己の生活をめぐる省察にくわえ、オペラや小説(アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』【Amazon】が登場する!)など、出てくる話題も幅が広くて、個人的な体験を芸術に昇華することの凄みを感じた。僕もアニメばかり見てないで、もっと色々なことに関心をもったほうが良いと思ったよ。

愛する人を失った者の心理を知るという意味でも興味深い。幸運にも僕はまだそういう経験がないので。あと、僕は常々、食うためにプライベートを切り売りしなければならない人は大変だなと思っていた。売文業を軽蔑さえしていた。でも、著者にとっては本作を書くことがグリーフ・ワーク(喪の作業)であり、人生の次の段階へ進む通過儀礼なのだと思うと、自分のこれまでの見識を少し改めるべきかなと殊勝な気持ちになっている。そして、話は戻るけれど、何で自分の悲しみを書くにあたって気球のエピソードを入れようと思いついたのか、著者にインタビューしたいと思った。

キャサリン・ダン『異形の愛』(1989)

異形の愛

異形の愛

 

★★★★

小人で禿のオリンピア・ビネウスキは、サーカスを運営する両親によって奇形になるよう生み出された。他にも、兄はアザラシ少年、姉はシャム双子、弟は超能力者に生まれついている。サーカスでは兄アーティが権力を握り、遂には健常者を心服させてカルト宗教を形成するまでに至る。

「……あなたはきっと、これまで百万回も普通になりたいって願ったでしょ?」

「いいえ」

「え?」

「わたしは頭がふたつ欲しかった。それとも透明になりたかった。足のかわりに魚の尾がついてればって思った。もっとずっと特別なものになりたかった」(50)

ペヨトル工房版【Amazon】で読んだ。

我々が「通常」や「普通」と考えているものとは違った、別の社会規範が堂々とまかり通っている、その独特の世界観がすごかった。ここでは健常者が「フツウ」と見下され、見世物としてより価値のあるフリークスが偉いものだとされている。特に長男アーティのプライドは高く、彼は介護なしで日常生活を送ることができないにもかかわらず、兄弟の間で王様のように振る舞っている。なぜならアザラシ少年である彼のショーは人気だからだ。この世界では人々の耳目を惹くことこそが正義であり、存在の拠り所になる。そして、人の目を向けさせるには奇形度が高ければ高いほどいい(乙武洋匡程度では駄目だろう)。生き抜くためには健常者の世界に適応できないほど重度の奇形、つまり「特別」である必要がある。まさに我々の世界とは価値の逆転が起こっており、『マクベス』【Amazon】の魔女が言っていたきれいはきたない、きたないはきれい」は、ちょうどこのような状況を指しているのだと思う。

後半でアーティが健常者の一部から神格化され、カルト宗教みたいになっていくところもすごかった。オウム真理教もそうだったけれど、人は見た目が浮世離れしている者に何らかの聖性を感じるのだろう。あるいは無垢と言い換えても良い。ともかく、この集団の過激なところはその目的で、信者たちは己の四肢切断を望んでいるのだから半端ない。世の中には欠損フェチなる人がいるらしいけど、もはやそういうレベルではなく、完全に常軌を逸している。僕なんかはここまで来るとまったく理解不能だけど、世界は広いからこういう人たちもひょっとしたら存在するんじゃないかと思ってしまう。何が普通で何が異常なのかが混乱する世界。本作は既存の価値観を揺さぶられたい人にお勧めである。

マヌエル・プイグ『天使の恥部』(1979)

★★★★

(1) 1936年。映画女優の女は、夫によって電流を流した鉄柵のなかに閉じ込められていた。彼女は死者との密約により、30歳になったら他人の心が読めるようになるという。女はスパイの男に恋をして一緒に脱出する。(2) 1975年。メキシコ。癌で闘病中のアンは日記をつけたり、友達や愛人と会話をしたりしている。(3) ポスト原子力時代。セックス治療部に所属するW218はLKJSという男と恋に落ちるも、彼は某国のスパイだった。

でも、世界は男の人たちのもの。法王だって男性、政治家も科学者も。そして、世界はそうしたもの。男の姿に、類似点に合わせて世界は作られている。どれもこれもひどくひどく非人間的で醜悪で荒っぽい。(257)

ペロリストとかペロニズムとか、アルゼンチンの政治についてやたらと会話を繰り広げているので、てっきりこれが主題なのかと思っていたら、案に相違して女性の恋の物語、さらには母と娘の物語だった。まあ一応、そういった政治状況が創造の源になっているのだから、まったく無関係とは言いきれない。強いて言うならば、ライトモチーフといったところだろう。この小説は(2) があるからこそ、(1) と(3) もあるという構造で、そのなかに創造主の願望や欲望の破片を見出すところにちょっとした楽しみがある。こういう状況があるから、こういう物語が生まれたのだなあという感じ。人が物語を作るとはどういうことなのか、ある意味その根源に迫った作品と言えるかもしれない。

スパイ小説風味のメロドラマが意外と面白く、わりとわくわくしながら読んでいったのだけど、それにしても、(1) のあっけない終わり方には面食らってしまった。このまま物語の最後まで引っ張っていくのかと思ったのでびっくり。その後を引き継いだ(3) はSFを取り入れながらもやっぱりスパイが絡んでいて、お前はどんだけスパイが好きなんだよってついツッコミを入れてしまった。たとえば007シリーズは男のハーレクインと呼ばれているけど、実はこれって女性にも需要があるのかもしれない。ここから自分を連れ出していってくれる白馬の王子様として受容されている、というか。

それにしても、本作は終わり方が良かった。世の中にはラスト一行に余韻が乗る小説が多々あるけど、本作もその仲間に入ると思う。小説って終わり良ければ全て良しってところがある。

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』(1534)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

 

★★★★

巨人族の王家に生まれたガルガンチュアは、長じてからパリに留学する。そこへ村人たちの些細ないざこざから祖国が攻め込まれて戦争になっているとの知らせが来た。帰国したガルガンチュアは兵を率いて敵を打ち破る。

先日、われ脱糞しつつ

わが尻に残りし借財を感ず

その香り、わが思いしものにあらずして

われ、その臭さに撃沈さる

 

嗚呼、誰か、

われが脱糞しつつ、待つ貴女を、

連れてきてくれぬものか。

さすれば、われ、女の小用の穴を、

がばっとふさぎて、

女は、脱糞しつつ、

その指にて、わが糞穴をふさがんものを。(118-9)

ドン・キホーテ』【Amazon】の先駆けみたいな愉快な小説で面白かった。訳注や解説によると、本作は当時のカトリック社会におけるアクチュアルな問題を風刺したようだけど、そういうのを抜きにしても、無茶苦茶な騎士道物語といった感じで楽しめる。特に序盤は小学生が好むような下ネタ(糞尿やちんこ)が多くて、何で当代きってのインテリがこんなお下劣な要素を作中に取り入れたのか気になった。小便したら洪水が起きて人間が溺れるとかちょっと神話的でさえある。

本作はルネサンス期の小説だからか、ホメロスソクラテスプラトンといった古代ギリシャの文化が引き合いに出されているのが感動的だった。500年前の人も現代人と同じものを読んでいたのだなあという素朴な感慨。他にもカエサルキケロといった古代ローマ人にも触れていて、当時の知識人が何を拠り所にしていたのか分かって興味深い。ルネサンスというのは、キリスト教と古典文化の幸福な結婚だったのだなと思う。

当時はフランス語が書き言葉として認知されはじめた時期のようで、そのせいか作中にはフランス語で初出の言葉がいくつか出てきた。このように作家が言葉を創造するところは、夏目漱石に代表される明治文学に似ているかもしれない。それと、著者が医者であるせいか、解剖学的描写が妙に詳しいところも特徴的だった。

ところで、『ドン・キホーテ』を読んだときも気になったけれど、この時代のトリッパ(臓物料理)って味はどんなものだったのだろう? どうやら牛の胃腸の煮物らしいけど、たとえば現代のもつ煮込みみたいな感じだったのだろうか。昔の人が何を食べていたのかとても気になる。

ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(1953)

トランス=アトランティック (文学の冒険シリーズ)

トランス=アトランティック (文学の冒険シリーズ)

 

★★★

1939年8月。ポーランドからアルゼンチンに渡航したゴンブローヴィッチは、遠い祖国で戦争が始まったことを聞く。アルゼンチンに残ることにした彼は当座の金を得ようと職探しをするも、その前に奇人変人が立ちはだかる。さらには公使から文豪と祭り上げられるのだった。その後、金持ちでホモのゴンサーロと盟友になり……。

小生は思わず大声を張り上げた。「だまれ。言わせておけば、いい気になりやがって。父親や祖国に小生を歯向かわせようなんて、冗談も休み休み言ってもらいたい。しかも、このような時局だのに!」奴さんはぶつぶつと、「父親だの祖国だの、そんなものくそくらえ! 息子、息子、そうか、やっとわかった! あんた、口癖のように祖国、祖国って言うけれど、それって何なの? それより、孫国の方がステキじゃない? 祖国の代わりに孫国と唱えたら、おもしろいかも!」(89)

荒削りでアッパー系な文章と、戯画的な人物模様が絡み合った「奇書」とも言うべき小説だった。著者は本作で、ポーランドとは何か? を追求したようだけど、僕は彼の国には詳しくないのでその辺については何とも言えない。ただ、第二次世界大戦ポーランドは悲劇に見舞われたのに、そういった被害者意識を一切出すことなく、ここまで喜劇に徹したのはある意味ですごいことかもしれない。ホモのゴンサーロはある青年に色目を使ったことから決闘するはめになったけれど、それは周囲のお膳立てで茶番に終わる。かと思えば、終盤では奇妙な暗殺計画が持ち上がってカーニヴァル的なドタバタになだれ込む。ゴンサーロは唇を赤く塗った変態で、そのキャラはどこかシャルリュス男爵(『失われた時を求めて』【Amazon】の登場人物)を彷彿とさせる。結局のところ、この小説とポーランドとの間に何の関係があるのかいまいちよく分からなかったけど、そのアッパー系な熱狂にはインパクトがあって圧倒された。

著者のゴンブローヴィッチは、ポーランドからアルゼンチンに移住した作家である。そこで一つの疑問が生じるのだが、果たしてこの作家はポーランド文学に分類すべきなのか、それともアルゼンチン文学に分類すべきなのか? こういった例は他にもあって、たとえば『ロリータ』【Amazon】で有名なウラジーミル・ナボコフはロシアからアメリカに亡命した作家だし、ノーベル賞作家のJ・M・クッツェー南アフリカからオーストラリアに移住した作家である。僕がこのブログでアメリカ文学フランス文学といったカテゴリを設けてないのは、越境が容易な現代においてそういう括りが難しくなっているからで、このままグローバル化が進んでいったらいつか無効になるんじゃないかとすら思っている。いつか我々は国民文学の伝統をゴミ箱に捨てる日がやって来るだろう。そのときの混乱がちょっと楽しみではある。