海外文学読書録

書評と感想

グザヴィエ・ドラン『わたしはロランス』(2012/カナダ=仏)

★★

1989年。文学講師のロランス(メルヴィル・プポー)が、テレビ業界で働く恋人フレッド(スザンヌ・クレマン)にカミングアウトする。ロランスはゲイではなく女性が好きだが、性自認は女性だった。フレッドはロランスに理解を示して協力する。ロランスは職場に女装して出勤するも、それが原因でクビになってしまう。その後、いざこざがあってロランスとフレッドは別れてしまうのだった。

最近日本で話題のトランスジェンダーを扱っている。

日本のトランスジェンダーは左右から評判が悪い。右派は伝統的なジェンダー規範から外れているとして差別的だし、左派は女性の安全が脅かされるとしてこれまた差別的である。右派はいつもの右派仕草だから良いとしよう。問題は左派だ。一部のフェミニストトランスジェンダーのことを性自認至上主義と非難して迫害の対象にしているのだ。そのフェミニストはTERFと呼ばれている。Trans Exclusionary Radical Feminist(トランス排除的ラディカルフェミニスト)の略語だ。本来だったら他者の人権を尊重すべき左派がこのあり様なのだから困ったものである。かくして日本社会では右派と一部フェミニストが結託することになった。

本作の時代設定は欧米でもトランスジェンダーが理解されていなかった時代だ。性同一性障害が精神病扱いされていた。女装して仕事しただけで職場をクビになるのだからお察しである。そして、複雑なのがロランスの性的指向だろう。MtFの彼は性自認が女性なのに恋愛の相手は女性なのである。だから女装はするも性的適合手術は受けてない。また、性的適合手術を受けてないのに女性用トイレを使っている(と思われる)。これが現代日本だったらTERFの餌食になっていただろう。彼らのスローガンは「女性専用スペースを守れ」なのだから。ロランスはトランスジェンダーのパイオニアとして飛び越える役割を担った。しかし、現実には別の問題が出来している。

本作ではロランスとフレッドの10年間が描かれる。これが未練がましいバカップルの恋愛劇で見るに堪えない。二人は喧嘩別れしても未練がある。ロランスは新しいパートナーと生活し、フレッドも結婚して一児の母になった。それでもお互い未練がある。お前らいい加減にしろよと思う。じゃあ、何で新しいパートナーなり家庭なりを作ったのか。それは寂しさの埋め合わせに過ぎなかったのか。本当は別れた相手のことが一番好きなのに。ここまで女々しいと作り手の願望充足に感じられてもやもやする。

ロランスとフレッドを見ていたらryuchellとpecoを思い出した。ryuchellも女装しながら女性を恋愛の対象にしていた。ロランスとフレッドが結婚して子供を作っていたらどうなっていただろう? ロランスも夫であることに苦痛を感じて離婚していたのではないか。そして、離婚後はパートナーとして同居して子育てに励んでいたかもしれない。つくづくryuchellの自殺が悔やまれる。