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46歳のフロラン=クロード・ラブルストは、農業食糧省の契約調査員として高給を得ている。彼には20歳年下の恋人ユズがいた。ユズは裕福な日本人だったが、変態性欲の持ち主で、ラブルストは彼女を見限っている。ユズの元から蒸発したラブルストは、精神科で抗鬱剤(キャプトリクス)を処方されたあと、かつての恋人クレールと再会する。ラブルストは薬の副作用で不能になっており……。
キャプトリクスの服用で見られる最も一般的な副作用は、嘔吐と、性欲の喪失、不能などだ。
僕は嘔吐で困ったことは一度もなかった。(p.6)
ミシェル・ウエルベックって一見すると異端のように見えるけど、実はフランス文学の主流に位置するような気がする。つまり、性愛を過大評価しているところが極めてそれっぽいのだ。男として生まれたからには女性の愛を勝ち取らなければならない。露骨に言えば、ヴァギナに挿入する権利を得なければならない。こういった傾向は、騎士道華やかなりし時代にまで遡るのだろう。昔はオブラートに包まれていたものが、現代では明け透けに語られるようになった。でも、おおまかな主張は同じである。愛に生きてこそ人生。日本人の僕としては、幸せの道筋はそれだけではないのだと思うのだけど、フランス人にとっては違うようである。愛を過大に評価している。
語り手のラブルストもそういう人生観の持ち主で、職業人生活よりも女のほうが大事だと思っている。職業人の生活は何の快楽も与えないから価値がないらしい。ところが、ラブルストは抗鬱剤を飲むことによって不能になり、そういった快楽から遠ざかってしまうのだった。男性性の喪失が抗鬱剤によってもたらされるのが実に現代的だ。健康の代償として、その人の生き甲斐を奪ってしまうのだから皮肉である。不能になって以降、ラブルストの人生は凋落の一途を辿るのだけど、これなんかは僕からしたら大袈裟ではないかと思ってしまう。いやだって、人生にはセックスよりも楽しいことがいっぱいあるじゃん。読書だったり、アニメ鑑賞だったり、相撲観戦だったり。この著者の問題意識がいまいちピンとこないのは、僕が充実したおたく生活を送っているからかもしれない。
本作は叙述が面白くて、皮肉の効いた思想や辛辣な言い回しが読んでいて刺激的だった。PCに反するようなことも躊躇いなく述べている。もちろん、これは一人称を隠れ蓑にして行われているのだけど、それにしたって随分と勇気のある書きぶりではないか。日本で同じようなことをしたら、馬鹿な連中にクレームをつけられていることだろう。そう考えると、フランスではまだ言論の自由が生きているのだと思う。僕が何となくこの著者の本を手に取ってしまうのは、日本で失われたものがそこに息づいているからかもしれない。
最後に改めて持論を述べると、ヴァギナに挿入するかしないかなんて人生においてさして重要ではない。なので、たとえ不能になっても悲観すべきではないと思う。他人が決めた価値観に従って生きることほどつまらないものはない。人生は固有のものなのだから、その価値は自分で決めるべきだ。