海外文学読書録

書評と感想

オルハン・パムク『赤い髪の女』(2016)

赤い髪の女

赤い髪の女

 

★★★★

左翼活動家の父が失踪した。息子のジェムは大学進学費用を稼ぐため、期間限定で井戸掘り親方の見習い弟子になる。親方はジェムに対して父親のように接してくれていた。あるとき、ジェムは赤い髪の女を見かける。彼女は移動劇団の女優だった。そして、彼女との出会いがジェムの人生を大きく変える。

私は作家になりたかった。でも、これから語るこの物語が進んでいくにつれ、私は地質調査技師になり、そして建設業者になることだろう。もっとも、私がいま物語をはじめたからといって、それがすでに終わった過去のお話だと思わないで欲しい。それどころか思い出せば思い出すほどに、さまざまな出来事がいまでも心を捕らえてやまない。だからこそ、私は確信している。あなたがたも私と同じように父と子の神秘に魅了されるだろうと。(p.9)

父子の物語を通して、西欧化に邁進してきたトルコの微妙な立ち位置を透かしていて面白かった。『オイディプス王』【Amazon】は子が父を殺す話で、これは西欧的な物語だとされている。一方、『王書』【Amazon】に出てくるソフラーブとロスタムの物語は、『オイディプス王』とは逆で、父が子を殺している。これはアジア的な物語だ。どちらも父子が互いの正体を知らずに争うところが共通しているものの、結末は正反対である。子が父を殺すのが西欧的、父が子を殺すのがアジア的。トルコは西欧とアジアが交差する場所だ。イスラム教国ではあるものの、200年にわたって西欧化を進めて世俗化してきた。西欧とアジア、宗教と世俗。2つの相反する要素がトルコという国に凝縮されていて、その矛盾を突くような話になっているところが面白い。

トルコらしいと思ったのは、近代的人間は父との関係を結べていない、みたいな主張が出てくるところだ。この場合の父とは神のことである。世俗主義は信仰から離れているから、すなわち神を信じていないから父無し子なのだという。一般的に父は子に服従するよう求めるけれど、近代的人間はそれを拒む。神への服従を拒む。そうすることで成熟した自己を確立しようとしているのだ。日本人の僕からすればそれは極めて自然なことのように思えるけれど、イスラム教国のトルコではそうでもないらしい。敬虔なイスラム教徒は世俗主義の人間を苦々しく思っている。父(神)への服従を求めている。子が父を殺すオイディプス王よりも、父が子を殺すソフラーブの物語のほうが、彼らにとってはPCなのだ。『オイディプス王』と『王書』、2つの物語が並立する場所にトルコは存在していて、そこには一筋縄ではいかない問題を孕んでいる。

しかし、皮肉なのは『王書』が一般的なトルコ国民に知られてないところだろう。これって日本でたとえると、現代の日本人が『史記』【Amazon】を読んでいないようなもので、つまり、かつての教養が現代まで継承されていないということである。日本とトルコが共通しているのは、どちらも歴史のある時点から西欧化を目指したところだ。それゆえに近代化を果たした反面、いくつかの伝統も失ってしまった。アジア的なものから離れてしまった。本作を読んで、日本とトルコは意外と似た立場にあるのかもしれないと思った。

赤い髪の女が生まれつきの赤毛ではなく、自らの決断で髪を赤く染めていた。すなわち、近代的人間のように行動していたことが、本作を象徴しているような気がする。また、本作には作劇上の仕掛けが施されていて、これはよくできたミステリ小説のように巧妙である。文学性と娯楽性を兼ね備えた一級の文芸作品だった。