★★★★
大学教授のジャック・グラドニーは、ヒトラー学科を創設した人物。彼は妻のバベットとそれぞれの連れ子4人と暮らしている。あるとき、バベットが奇妙な薬を飲んでいることが発覚。化学薬品を積んだ列車の事故によってジャックが有毒の灰を浴びた後、彼はバベットから薬についての話を聞かされる。それは死の恐怖を取り除く薬だった。
「ぼくは信じるんだがね、ジャック、この世のなかには二種類の人間がいる。殺人者と死者。ほとんどは死者だ。我々には怒りとか少しでも殺人者になろうとする性癖に欠けている。我々は死を許容する。横になり、そして死ぬ。しかし殺人者の場合だとどうなるのか考えてみたまえ。どんなに興奮することか、理論的に、直接目の前にいる人を殺すことがね。もし相手が死んだら、きみは死ねないんだ。相手を殺すことは生の信用貸しを得ることになる。たくさん人を殺せば殺すほど、信用貸しを貯めこむことになる。これでいくつもの大量殺戮、戦争、死刑執行の説明がつく」
「人間は歴史的に見て、他人を殺すことによって、自らの死を治癒してきたと言っているの?」
「明白なことさ」(p.312)
全米図書賞受賞作。
面白かった。あらすじと引用で示した通り、物語の大きな柱になっているのは「死」だが、本作はそこにテレビや環境汚染 といった今日的なトピックを織り込んでいて、なかなか奇怪な小説になっている。
最初はメディアに対する風刺がテーマなのかと思っていた。というのも、第一章のラストではテレビ番組に出演しているバベットを家族が画面越しに眺めるという構図になっているし、また、第二章のラストでは災害に遭った男が自分たちのことを報じてくれないメディアへの不満を述べている。
さらに、それ以前にも語り手はたびたびテレビに言及しており、序盤には次のような直接的なセリフが出てくる。
「ほとんどの人にとって、世界は二つの場所しかないんだよ。自分たちが住んでいる場所と、テレビのなか。テレビで何かが起こっているときは、それが何であろうと、我々はそれに魅了されていい権利を持っている」(p.73)
SNS世代の現代人にはいまいち実感が湧かないが、80年代はテレビに絶大な影響力があった。最近読んだ『思想のドラマトゥルギー』【Amazon】*1という本では、思想家の林達夫がテレビを不自然なくらい高く評価していて、70年代当時はこれが反動的でファッショナブルだったようである。つまり、一億総白痴化に対するアンチテーゼを掲げているわけだ。また、新井克弥『劇場型社会の構造』【Amazon】では小泉劇場について論じており、テレビの影響力は21世紀に入っても健在だったことが覗える。個人的にはテレビを見なくなって久しいので、現在どれくらい影響力があるのかは分からない。しかし、さすがに往時ほどの勢いはないだろう。もうテレビはアクチュアルなテーマになり得ないのだと思う。
死の恐怖を忘れる薬について話すバベットと、有毒の灰を浴びて死に晒されるジャック。両者が交錯する場面が鮮烈だった。死について考えることは、すなわち生について考えることでもある。冒頭の引用みたいに、死をコントロールするために殺人者になるのはさすがに狂ってるとしか思えないが、その思想的背景にうっすらとヒトラーが浮かぶような図式はなかなか巧妙だった。それまではヒトラー学科というおいしいネタがあまり生かされてなかったので、実のところちょっと不満だったのだ*2。だからこういう透かし絵みたいな使い方には不意を突かれた。
それと、終盤ではジャックと尼僧のやりとりを通して、現代における宗教のあり方を皮肉っている。この辺も海外文学らしくていい。信仰を捨てた人たちのために信仰するふりをしてるって、すごく捻くれている。宗教に縋れない現代人は、死の恐怖をどのようにして克服すべきなのか。これはまだまだアクチュアルなテーマだと思う。
2024年12月13日追記。水声社から新訳が出ていた。翻訳は都甲幸治、日吉信貴。
これから読む人は新訳を読んだほうが良さそう。