★★★★
言語学者のブダイはヘルシンキ行きの飛行機に乗ったつもりが、間違って別の便に乗ってしまい、見知らぬ土地で降ろされてしまう。そこはやたらと行列ができる人口密集都市で、ブダイの知らない謎の言語が使われていた。人々は外国語を理解せず、言葉が一切通じない。ブダイは都市を探索して何とか状況を打開しようとする。
彼は憤怒のあまり、ナイトスタンドのガラス製の笠を、力いっぱい床に叩きつけた。するとそれは床に飛びちり、彼は右手を切ってしまった。おびただしい出血だった。手の周りにハンカチを巻き、さらにタオルを巻きつけたが、そこからも血は滲み出てくるのだった。彼はこの都市を憎んだ。なぜなら、この都市はありとあらゆる角度から彼を痛めつけ、傷つけようとしているし、性格の変容を彼に迫ってくるからだった。なぜなら、この都市は彼の身柄を幽閉し、脱出させようとはしないからだった。なぜなら、この都市は彼の血と精魂とを吸い尽してしまったからだった……。(p.84)
硬派な不条理文学ですごかった。なぜ硬派なのかというと、言葉が通じないためほとんど会話文がなく、地の文がひたすら続くからである。意味のある会話文は全部合わせても10行以下だろうか。ブダイは言語学者だけあって、ヨーロッパの諸言語はもとより、トルコ語・ペルシャ語・古代ギリシャ語まで操ることができる。そのうえ、中国語や日本語の素養もあって、まさに言語のエキスパートだ。ところが、そんな完璧超人でもこの都市では無力であり、現地の人たちが何を話しているのかさっぱり分からない。同様に、文字を見ても何を意味するのかさっぱり分からない。パスポートはホテルのフロントが預かったまま返してくれないうえ、空港へどうやって戻るかも見当がつかない。ブダイはあらゆる手段を駆使して言語の解読に奮闘する。本作は紙幅の大半がその様子に費やされていて、これからどうなるのか気になりながら読んだ。
ブダイが状況に抗う様子が本作の読みどころだろう。売春婦と2人きりになって意思の疎通をはかるも失敗。警官に暴力をふるって連行されれば通訳がつくだろうと目論んで実行するも失敗。そうこうしているうちに時は過ぎて金もなくなっていく……。こんな八方塞がりな状況って滅多にないのではなかろうか? といっても、かすかに希望はあって、エレベーターガールと心を通わせたり、地下鉄で同国人を見かけたりはする。ところが、それらは根本的な解決には繋がらず、遂には予期せぬ動乱に巻き込まれてしまう。死線をくぐり抜けた先が実にさわやかで、たとえるなら春先に芽を出した植物を見つけたような気分になった。ブダイの決して諦めない態度が素晴らしい。不条理文学もたまには読んでみるものだと思った。