海外文学読書録

書評と感想

ヘンリー・ハサウェイ『砂漠の鬼将軍』(1951/米)

砂漠の鬼将軍(字幕版)

砂漠の鬼将軍(字幕版)

  • ジェームズ・メイソン
Amazon

★★★

第二次世界大戦。ドイツのロンメル将軍(ジェームズ・メイソン)は、北アフリカ戦線で目覚ましい活躍をして敵から「砂漠の狐」と恐れられていた。しかし、彼はヒトラー(ルーサー・アドラー)の暗殺未遂に加担したとして非業の死を遂げることに。本作はそこまでの経緯をドキュメンタリー風に描く。

原作はデズモンド・ヤング『ロンメル将軍』【Amazon】。

冒頭で原作者本人が登場して「関係者に取材した」と言ってたし、さらにナレーターが「This is true story.」とぶち上げていたので、伝記映画として相当自信があるのだろう。戦後すぐに作った映画にしてはそこそこ見れる代物だった。入門者がアウトラインを知るにはいいと思う。ただ、ヒトラー暗殺計画については、史実だと関与したかどうかは不明だけど、本作ではやや勇み足をしていて、これは大丈夫かと心配になるほどだった。計画を知らされたロンメルは確かに乗り気だったのだろう。しかし、だからといって具体的に何かをしたわけではない。支持を表明しただけで、そこから一歩踏み込むことはなかった。とはいえ、劇中ではロンメルがさも暗殺に関与した英雄みたいに語られていて、こういう勘違いが戦後の評価に繋がったのだろうと納得した。おそらくは自害を強要されたという事実から、本作のように推論したのだと思われる。この辺は慎重に判断したほうが良さそうだ。

『帰ってきたヒトラー』に登場したヒトラーは、世界を丹念に分析する理知的な人物だった。しかし本作を観たら、あの人物像は大きな間違いだと理解した。というのも、晩年のヒトラー占星術にドハマりした狂人だったわけで、だから周囲の人間は困っていたのだ。もし彼が理知的な人物だったら、部下から裏切られることもなかっただろう。暗殺未遂なんて起きることもなかったはずである。ところが、実際は狂人ゆえに殺されかけたわけで、あの小説が物議を醸した理由が何となく分かった。

本作には所々に戦場のシーンが出てくる。気になったのは砲撃の映像がやたらとチカチカしているところで、観ているほうとしては、癲癇の発作が起きるのではないかとヒヤヒヤした。1997年に日本でポケモンショックが起きたけれど、件の映像はちょうどあんな感じある。当時劇場で観た人たちは何ともなかったのだろうか? まさかクラシック映画でこういう危険な画面点滅があるとは思わなかったので、正直なところかなり驚いた。せめてソフト化する際に何とかしてほしかったと思う。

マーク・サンドリッチ『コンチネンタル』(1934/米)

★★★

アメリカ人ダンサーのガイ(フレッド・アステア)が、ロンドンで会ったミミ(ジンジャー・ロジャース)に一目惚れする。彼は再会を求めて町中を探し回るのだった。一方、ミミは実は人妻で、彼女は夫と離婚しようとガイの友人で弁護士のエグバート(エドワード・エヴェレット・ホートン)に話を持ちかける。

アステアはピンでタップダンスをしてもいいし、ロジャースと組んで華麗な舞を披露してもいいし、ダンサーとして万能ではないかと思った。

モブのダンスも見栄えが良く、リゾートホテルで薄着の人たちが踊るのはなかなか楽しかった。また、最大の見せ場は終盤のコンチネンタルだけど、ここではモブのダンスを細かいカット割りで表現していて、その映像手法は新鮮だった。というのも、ダンスシーンは普通、そこそこ長いカットで見せるので。実際、ガイとミミのダンスは、どれも1分くらいのカットの繋ぎ合わせだった。そんなわけで、モブのダンスをなぜああいう風に処理したのかが気になる。

ミミのガイに対する最初の印象は悪いもので、彼女は追いかけてくるガイから必死に逃げている。ガイはそれにもめげず、何とかミミに求愛しようとするのだった。男が逃げる女を追いかけるこの構図は、昔の物語、とりわけ喜劇でよくあるパターンだけど、今ではすっかり見なくなったと思う。なぜかというと、現代の価値観ではストーカー扱いされるから。拒む女を男が深追いするのはご法度なのだ。21世紀においては、男が純愛を貫くことは許されない。相手がこちらに惚れるのを座して待つしかないのである。その一方、漫画やアニメなどのサブカルチャーでは、女が男を追いかける構図が半ばギャグとして採用されている。当然、そのことに対してストーカーという批判はなされない。物語の王道パターンとして確立している。時代を経て男女の役割が逆転しているわけで、この非対称性が興味深い。

登場人物の誤解によって物語を転がすところはオーソドックスな喜劇だ。古くはシェイクスピアも多用していたと思う。また、劇中に出てくる「偶然は運命の申し子」というキーワードは洒落ている。ガイとミミが偶然再会したのも運命なのだ。実にロマンティックなキーワードで、2人が結ばれるのも自然なことだと思わせる。

ミュージカル映画について語るなら、アステア&ロジャースものは全部観たほうがいいかもしれない。今度は意識して追っていこう。

藪下泰次『少年ジャックと魔法使い』(1967/日)

★★★

動物たちと仲良く遊んでいた少年ジャック(中村メイコ)が、悪魔の少女キキ(中村メイコ)によって魔女グレンデル(山岡久乃)が住む古城に連れてこられる。グレンデルは世界中の子供たちを悪魔製造機にかけて悪魔にしようとしていた。ジャックは敵だったキキを助けることになり……。

『ベーオウルフ』【Amazon】を下敷きにしてるらしい。

キャラデザがカートゥーン風になっていて面食らったものの、古城をはじめとする美術がなかなか良かった。魔女が暮らすゴシックの世界。ジャックが旅するサイケデリックな世界。キキが閉じ込められる氷の世界。極めつけはジャックとグレンデルが戦う幻想世界で、ここは言葉で表現するのが難しい不思議な世界だった。こういう映像ならではの表現にチャレンジしたところはとてもいいと思う。子供っぽいキャラデザに反して野心的な作品と言えるのではなかろうか。

見るからに少年のジャックが、軽快に自動車を運転しているのには笑ってしまった。その後、動物たちも運転していて、これは何でもありの世界だと納得させられる。そもそもこの映画、グレンデル以外は大人が一人も出てこないのだけど、これは子供のためのユートピアを表現しているのだろう。存在するのは子供と動物だけで、彼らは始終遊んで暮らしている。唯一の大人であるグレンデルは憎むべき敵で、彼女は子供たちを悪魔に変えて隷属させようとしている。そして、ジャックはそんなグレンデルを倒すのである。本作には大人からの解放が潜在意識としてありそうな気がする。

本作が公開された年はちょうどサイケデリック・ムーブメントの全盛期だ。それが子供向けのアニメにまで波及しているのはすごいことである。劇中でジャックが彷徨うことになる植物をベースにした世界は、明らかにLSDを示唆しており、当時は大人から子供までサイケデリックな世界に親しんでいたことが見て取れる。1960年代。世界中が幻覚に溺れた幸せな時代だった。僕もこの頃にタイムスリップしたいと思う。

ところで、昔のアニメ映画には人間化した動物がやたらと出てくる。彼らは動物の格好をしながらも、人語を話したり、二足歩行したり、可愛らしいマスコットとして画面を賑わせている。このテンプレートは現代まで続いているけれど、発想の大元がどこにあるのかちょっと気になるのだった。

芹川有吾『わんぱく王子の大蛇退治』(1963/日)

★★★

王子スサノオ住田知仁)はイザナギ(篠田節夫)とイザナミ(友部光子)を両親に持つ怪童で、オノゴロ島でトラ(木下秀雄)やウサギ(久里千春)たちと遊んで暮らしていた。ある日、母イザナミが死去。別れを惜しんだスサノオは、母が去ったとされる黄泉の国へ旅立つ。道中、兄のツクヨミ(木下秀雄)や姉のアマテラス(新道乃里子)、そして母の面影があるクシナダ姫(岡田由記子)と出会う。

夜の国や火の国、高天原など、スサノオたちは次々と舞台を移動し、主に武力を用いてイベントをこなしていく。その様子はまるでRPGのようだった。漫画でたとえると、『ONE PIECE』【Amazon】みたいな感じだ。それぞれのステージでイベントをクリアしないと、先には進めない。また、イベントをクリアした際には、後のステージで役立つアイテムが貰える。本作は日本神話を元にした映画だけど、神話とはRPGみたいな構造を持っていることが分かった。逆に言えば、『ONE PIECE』は現代の神話である。あの漫画が大ヒットしてるのも、古来から続く物語の王道をやっているからだろう。神話の力とはかくも絶大なものだと感心した。

今まで観てきた東映の漫画映画は、どれも神話や民話を題材にしている。事情はよく分からないけれど、この頃はまだ本格的なオリジナルストーリーを作れる人材がいなかったのだろう。映画は金がかかっているぶん、コケることが許されない。だから、敢えて人口に膾炙した題材を選んだ。アニメ映画がバラエティ豊かになるのは、もう少し先のようである。

最終ステージの出雲の国では、スサノオが自分と同い年くらいのクシナダ姫と出会う。姫には母の面影があって、そんな彼女がヤマタノオロチの生贄に差し出されている。スサノオは激闘を経てヤマタノオロチを倒し、クシナダ姫を救うのだけど、これは死んだ母を救うのと同じ意味合いがあるのだろう。現実ではなす術もなく母の死を見送ったスサノオが、母に似た少女をその代替として救う。つまり、シンボリックな行為として母を救っているのである。本作はわんぱく王子にすぎなかったスサノオが、冒険を通して英雄になる話だけど、その根底に母親の存在があるのが興味深かった。これぞ少年向けアニメである。

ヤマタノオロチ戦では、スサノオが空飛ぶ馬に乗って敵の頭を一つずつ倒していく。その戦いぶりはなかなか熱かった。また、高天原では、スサノオの粗相が原因でアマテラスが天岩戸に引きこもる。オモイカネをはじめとする住人たちが、一計を案じてアマテラスを引きずり出すのだけど、その際、スサノオが一切関与してないのは笑ってしまった。こうなったのもお前のせいなのに、どこで何をしてたんだよ、と。アマテラスが復帰してからしれっと姿を現しているのが可笑しい。

藪下泰司、黒田昌郎『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』(1962/日)

★★★

中東の港町に住む若者シンドバッド(木下秀雄)と少年アリ(黒柳徹子)が、停泊していた輸送船に密航する。船員に見つかった2人は、ハムディ船長(滝口順平)の許しを得てメンバーに迎えられる。やがて船は王国に寄港。王宮に呼び出された一行は、アーマッド王(永井一郎)とトルファ大臣(川久保潔)から宝物を所望される。アーマッド王は善人だったが、トルファ大臣は悪人だった。大臣はサミール姫(里見京子)に求婚しており……。

『バートン版 千夜一夜物語』は文庫で全11巻【Amazon】あるのだけど、若い頃の僕はそのうち6巻【Amazon】まで読んで力尽きてしまった。シンドバッドの物語は次の7巻【Amazon】に収録されているので、実は元ネタを読んでいない。さすがにこれはまずいような気がした。

昔のアニメ映画が「動き」の快楽を追求していたのって、子供向けのコンテンツとして割り切っていたからだろう。本作だと、シンドバッドによる乗馬アクションや、アリが孔雀の羽で空を飛ぶシーンなど、「おっ」と思わせるシーンがちらほらある。いずれも実写では再現が難しいシーンだ。そして極めつけは、シンドバッドと大臣の決闘で、短剣VS長剣の変則マッチはなかなか手が込んでいた。しかもこの決闘、大臣側には兵士も加勢してくるのだから一筋縄ではいかない。当時としては複雑な構図で「動き」を描いている。

このように「動き」の快楽を追求する姿勢は、後の宮崎駿にも受け継がれていて、周知の通り、彼によってアニメは芸術にまで昇華された。自分は子供向けの娯楽を作っているのだから、『ガンダム』【Amazon】みたいな思想はいらない。アニメとはあくまでアニメーションを見せるものなのだ。こういう考えって娯楽が多様化した現代では否定されがちだけど、僕はそのアナクロニズムに惹かれるところがあって、今に至るまで態度を決めきれないでいる。アニメの肝となるのは動きなのか? 思想なのか? 萌えなのか? いずれにせよ、宮崎駿が死んだら、「動き」の快楽を追求する姿勢もアニメ界から消えてしまうだろう。それはそれで寂しいと思う。

終盤に出てくる宝島の風景は、荒野と岩山が基本で、そこにサボテンやら食人植物やらが配置されている。そして、怪鳥とクラゲの化け物が辺りを徘徊しているのだった。この風景は思ったよりも弾けてなくて、正直なところ物足りなかった。アニメなのだからもっとすごい幻想を見せてほしいと思う。ここが唯一不満な点かな。

ラストでシンドバッドがお姫様に告白して結ばれるのは、この手の物語のお約束だろう。どんな宝石よりも素晴らしい宝なのがお姫様というオチ。とてもロマンティックである。でも、男性が女性を選び取る図式に疑問をおぼえる声も近年ではあって、それをディズニーがPCの衣に包んで再生産しているのだった。アニメ表現も不変ではない。古いアニメを観て、現代のアニメの地殻変動に思いを馳せた。