海外文学読書録

書評と感想

河瀨直美『東京2020オリンピック SIDE:B』(2022/日)

★★★

2021年に開催された東京オリンピックの公式記録映画。SIDE:Bでは非アスリートを中心に描く。

周知の通り、2020年の東京オリンピックはコロナ禍によって開催が1年延期された。本作は開催までの道のりを描いている。

ドキュメンタリーとしては余計なナレーションやBGMがないぶんNHKスペシャルよりも上等だし、マイケル・ムーア監督の映画よりも上品である。本作のテーマは「多様性」で、映像素材をモザイク状に配置することでそれを炙り出している。しかし、一般の観客はリテラシーがないので意図を読み取れないだろう。そういう意味では大衆向けとは言えず、公式記録映画にしては尖っている。ともあれ、日本の映画監督にこれ以上は望めない。ジェンダーや多様性というテーマは河瀨直美だからこそ表現できたわけで、彼女に制作を依頼したのは最良の選択だったと思う。

序盤でIOC会長のトーマス・バッハが言う。「多様性とは弱さではなく強さ」と。オリンピックは世界の対立や分断をひとつに繋ぎ、多様性を認める役割を担っている。理念としてはとても美しい。しかし、国民はオリンピック開催に冷淡だ。税金の無駄遣いが取り沙汰されたうえに、コロナ禍によって自分たちの命が脅かされている。いくら美辞麗句を旗印にしたとしても、それで世論を納得させることはできない。国民もバカじゃないから、オリンピックを金儲けのための興行だと見抜いているのだ。本作の白眉は随所に反対デモの様子を取り入れているところで、当時の気分を忖度なしでフィルムに反映させた事実は大きい。東京オリンピックは国民の合意を得て行われたものではなかった。当時はまだ新型の疫病に対してヒステリックだったわけで、ニューノーマルへの過渡期を捉えた映画として非常に価値がある。

森喜朗の女性蔑視発言もクローズアップされている。彼の失言は批判されて当然だが、一方、それによって日本固有の問題が浮き彫りになった。すなわち、ジェンダー平等の問題である。日本は先進国の中でジェンダー平等が決定的に遅れている。森喜朗の失言の後、JOCは女性理事を12人増やした。これで問題が解決されたとは言い切れないものの、少なくとも国民にジェンダー平等を意識させるきっかけにはなっている。森喜朗は日本社会が前進する捨て石としてその役目をまっとうしたのだった。

国民とオリパラの架け橋になれる人がいなかった、とある人物が言っていた。東京オリンピックへの逆風は果たしてそういう問題だったのだろうか。というのも、インターネットの普及によって娯楽が多様化した現代において、オリンピックの価値は著しく下がっている。今や国民一丸となってテレビに齧りついて選手を応援しよう! という時代ではないのだ。読書、映画鑑賞、ソーシャルゲーム。貴重な余暇の時間は自分の趣味に費やしたい。かくいう僕もオリンピック期間中はいつも通り読書や映画鑑賞をしていた。オリンピックにチャンネルを合わせなかった。消化すべきコンテンツが多すぎてそれどころではなかったのである。娯楽が多様化した現代においては、オリンピックもワンオブゼムに過ぎない。運営と国民の意識の乖離は、コロナ禍以前に時代の要請なのだと思う。

印象的だったのが、来日したトーマス・バッハが街頭で反対デモをしている女性のところに歩み寄ったシーン。強者の余裕と言えばそれまでだが、当時は稀代の悪人として目の敵にされていたわけで、意外な側面を見た気がした。彼は彼で自分の信念に基づいてやるべき仕事をやったのだろう。そういう覚悟が窺える。

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河瀨直美『東京2020オリンピック SIDE:A』(2022/日)

★★★

2021年に開催された東京オリンピックの公式記録映画。SIDE:Aではアスリートを中心に描く。

2021年2月3日。当時、森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長だった。彼はJOCの臨時評議員会で次のような女性蔑視発言をする。

「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの『恥』を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた、5人います。女性っていうのは優れている所ですが、競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。私共の組織委員会に女性は何人いますか? 7人位おられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです」

本作はこれを受けてか、女性アスリートの女性性に肉薄している。具体的にはアスリートであることと母親であることの両立だ。

出産して競技に臨んでいるアスリートが何人かいて、彼女たちにだいぶ尺を割いている。母乳育児について語る人もいれば、妊娠中に練習してお腹を痛めたことについて語る人、自分が頑張ることで子供に何かを残すことについて語る人もいる。東京オリンピックでは巨額のハコモノを作る際に「レガシー」が強調されたけれど、子供というのは最大最高のレガシーだろう。子供たちにできるだけ良いものを残す。生きていて良かったと思わせる。オリンピックとは実質的に醜い商業主義ではあるが、それでもなお「平和の祭典」という建前を堅持しており、選手個人に焦点を当てれば美しいヒューマニズムが息づいている。そういう意味ではちょっとずるい。劇中である男が「アスリートも人間だ」と語る通り、本作はアスリートの人間性に迫っている。

また、別の男は「人は誰もが物語を持っている」と発言している。それが示す通り、本作では多種多様な物語が披露されている。

道家のサイード・モラエイはイラン出身。亡命してモンゴル国籍を取得し、モンゴル代表としてオリンピックに出場した。なぜ亡命したのかというと、2019年の世界選手権のときに当局から棄権するよう強要されていたからだ。イランはイスラエルのことを国家として認めておらず、自国の選手がイスラエルの選手と試合することを容認していなかった。そのいざこざに巻き込まれたのである。亡命したモラエイは東京オリンピックにモンゴル代表として出場し、銀メダルを獲得した。

女子体操競技選手のオクサナ・チュソビチナはウズベキスタン代表。それまでソ連代表、ドイツ代表としてオリンピックに出場し、今回祖国ウズベキスタン代表として出場することになった。46歳、8度目のオリンピックである。メダルこそ獲得しなかったものの、この年齢で跳馬をする様はなかなかすごかった。

女子陸上選手のガブリエル・トーマスはアメリカ代表。ハーバード大学を卒業した後はテキサス大学の大学院に進学し、免疫学を学ぶ傍ら学生アスリートとしてオリンピックに出場した。文武両道の天才である。彼女は陸上女子200mで銅メダル、陸上女子400mリレーで銀メダルを獲得した。

こうして見ると、スポーツはスポーツ単体で楽しむものではなく、選手の物語込みで楽しむものなのだろう。そりゃそうだ。競技するのは機械ではなく人間である。人間の持つ人間性、あるいは物語性を無視するのは片手落ちと言わざるを得ない。本作はそういった視角も含めてヒューマニズムの映画に仕上がっている。

東京オリンピックは税金の無駄遣いが取り沙汰されたうえ、コロナ禍での開催によって反対デモが巻き起こった。その映像を随所に入れているところも印象に残る。そもそも本作は森喜朗のアンチテーゼをやっているわけで、公式記録映画にしては反骨精神が旺盛だった。

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新海誠『天気の子』(2019/日)

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
Amazon

★★★

6月。16歳の森嶋帆高(醍醐虎汰朗)が離島から家出して東京にやってくる。彼は住み込みでオカルトライターのアシスタントをすることになった。そんな帆高がもうすぐ18歳になるという天野陽菜(森七菜)と出会う。折しも東京は異常気象で雨天続きだったが、陽菜は祈ることで晴れ間を出すことができた。2人はその力を使ってビジネスをする。ところが、力には代償があり……。

作画は凄まじく綺麗だったものの、ストーリーは予定調和のセカイ系でいまいちだった。ヒロインか? セカイか? の二択だったら前者を選ぶのが当たり前で、これでは捻りがなさすぎる。お決まりの結論になるのは仕方がないにしても、もっと切実なコンフリクトが欲しかった。東京が水没するなんてどうってことないし。言ってみれば、極めて安全な「危機」である。思うに、セカイ系というジャンルも引き出しが少なくてもはや伝統芸能になりつつあるのではないか。愛好家は様式美を楽しんでいるだけ。くだらない、実にくだらない。セカイ系なんて滅んでしまえばいいのに。

前作『君の名は。』と正反対なことをやっているのは興味深い。『君の名は。』は不可避的な災害からヒロインを救う話だった。それに対して本作は、ヒロインを救うことで永続的な災害を招いている。どちらも災害は東日本大震災を想起させるものだが、わずか3年でその扱い方が変わっているのが面白い。新海誠にとっての優先順位は明白である。セカイよりも何よりもヒロインの存在が優先されるのだ。前向きなエゴの肯定。前作から災害という軸をずらしてその哲学を表現しているところは好感が持てる。

帆高と陽菜にとっての障害はパターナリズムだろう。2人とも未成年だから大人が介入してくる。特に警察は敵だ。「息苦しい」という理由で家出した帆高にとっては、その原因たる秩序の体現者である。警察はこちらの事情も聞かず、一方的に帆高の邪魔をしてくる。法という枠組みに押し込めようとしてくる。まるで分からず屋の父親のような態度だ。帆高はこういったパターナリズムを乗り越えてヒロインを救おうとする。そうすることで活劇が生まれ、セカイの紊乱者としてのポジションを確立する。一連の騒動は反抗期の象徴で、これを経たからこそ大人になれたのだろう。子供っぽいエゴを肯定しつつ、大人になる道筋も示す。そう考えると、本作は意外と悪くない映画に思える。

綺麗な作画によって東京を再現するところに拘りが感じられる。風景はもちろん実在の場所だし、小物についてはマクドナルドやヤフー知恵袋のみならず、月刊ムーまで出てくる。ここまで細部に拘るのだったらもはや実写で撮ったほうがいいのでは、と思える。しかし、実写だとファンタスティックなストーリーと噛み合わないし、何より実写の東京はアニメの東京よりも汚い。アニメによって理想化された東京だからこそ芸術的な価値があるわけで、このリアルな作画はそれだけで眼福である。

陽菜の実年齢についてはそれまでの蓄積を反転させたものになっていて驚きもひとしおだった。またいつもの年上趣味かよ、と思わせてこれである。新海誠って意外とメタ認知能力が高いのではないか。作家性を活かした設定に感心した。

なお、本作には小説版もある。

 

朴性厚『劇場版 呪術廻戦 0』(2021/日)

★★★

幼少期。乙骨憂太(緒方恵美)は幼馴染の里香(花澤香菜)と結婚の約束を交わしたが、里香が交通事故で死んでしまう。それ以来、里香が呪いとして乙骨に取り憑いた。長じてからは事件を起こして秘密裏に処刑されそうになった乙骨だったが、呪術高専の教師・五条悟(中村悠一)がそれを助ける。乙骨は呪術高専に通って鍛錬すると同時に里香の呪いを祓おうと決意する。そこへ呪詛師の夏油傑(櫻井孝宏)が容喙してきて……。

原作は芥見下々の同名漫画【Amazon】。

制作はMAPPAだが、予想よりもリッチなアニメーションになっていて驚いた。同じMAPPAでも、昨年放送された『チェンソーマン』【Amazon】とは力の入れようが違う。もちろん、『チェンソーマン』がテレビシリーズなのに対し、本作は劇場版だから当然だろう。しかし、そもそも『呪術廻戦』はテレビシリーズもリッチだった。『チェンソーマン』は原作のスカした感じを上手く表現していたが、それでも『呪術廻戦』ほど優遇されてなくて不憫に思う。

序盤の乙骨は碇シンジみたいにおどおどしていて、緒方恵美がキャスティングされたのも納得である。乙骨は里香が死んで以来、ずっと受け身で生きてきた。彼は大いなる力を宿しているがゆえに、それを使って人を傷つけるのを拒んでいる。だから積極的に人と関わりたくなかった。本作はそういう自閉的な少年が、学校生活を通して自己肯定感を上げていく。誰かと関わって生きていいという自信を得ていく。彼のストーリーは極めて王道で、王道であるがゆえに確固たる快楽がある。結局のところ、自己肯定感とは人と関わり、信頼関係を構築することでしか得られないのだ。ひきこもっていたら一生閉じたままである。そういう意味で学校という場が上手く機能していた。

敵役の夏油は度し難い選民思想の持ち主である。彼は呪力のない一般人をサル呼ばわりし、呪術師による呪術師のための世界を作ろうとしていた。強者が弱者に適応する社会に不満があったのである。この辺はサドやニーチェを彷彿とさせるものがあり、エンタメにありがちな分かりやすい「悪」だ。面白いのは、そんな夏油が悪のカリスマになっているところだろう。彼は宗教団体の長として君臨し、数名の仲間を率いている。遠大な野望を持った「悪」も一人では何もできない。事を為すには同士を集めて組織化する必要がある。悪人も一人では通り魔しかできないが、複数人集まれば社会を転覆させることができるのだ。数の力に自覚的なところがクレバーで、多くのエンタメ作品に出てくる悪の組織も、作劇の都合だけに収まらないリアリティがある。

序盤で五条悟が「愛ほど歪んだ呪いはないよ」と乙骨に言う。この時点では里香の愛――重すぎる愛――のことだと思われたが、終盤で見事に反転する。このどんでん返しが面白かった。里香のヤンデレみたいな言動がミスディレクションになっていて心憎い。

新海誠『君の名は。』(2016/日)

★★★★

17歳の男子高校生・立花瀧神木隆之介)は東京の四ツ谷で暮らしていた。一方、17歳の女子高校生・宮水三葉上白石萌音)は飛騨地方の糸守町で暮らしている。そんな2人がどういう因果かたびたび入れ替わることに。当初はその状況に反発していた2人だったが、いつしか相手に好意を抱くようになる。そんな矢先、ティアマト彗星が地球に接近してきて……。

新海誠の映画はジメジメした陰キャアニメという感じで苦手だが、本作は例外的に好きな映画である。いつも通りのボーイミーツガールものでありながら、エモーションを最大化する手並みに長けていて、エンターテイメントとして優れている。かつてヒッチコックは言った。「映画づくりというのは、まず第一にエモーションをつくりだすこと、そして第二にそのエモーションを最後まで失わずに持続するということにつきる」と(『定本 映画術 ヒッチコックトリュフォー』【Amazon】)。本作はそのお手本のような映画である。

男女の出会いなんてどれも運命なのだが、本作はそれが極めて劇的である。というのも、男女が入れ替わってお互いの生活を体験するのだから。おまけに災害というビッグイベントもある。お互いのことが分かりかけた途端、災害によって有無を言わさず喪失してしまうのだ。その際、時間差トリックを使ったのは見事である。入れ替わったときにカレンダーを見ないのは不自然とはいえ、それは入れ替わりによって生まれる巨大なエモーションに比べたら瑕瑾にもならないだろう。「結び」というキーワードが示すように、2人は時空を超えて結ばれている。なぜこの2人が選ばれたのかは分からない。しかし、それは一般的な男女の出会いがそうであるように、2人の出会いも運命なのである。

そして、そんな運命の前に別の不可避的な運命が顔を出す。それは災害だ。三葉の時間軸からすればこれから起きる出来事であり、瀧の時間軸からすれば既に起こった出来事である。通常だったら過去は変えられない。しかし、時空を超えて結ばれた2人だったら変えることができる。この設定が絶妙で、瀧が口噛み酒を飲んでから2人が直接会話するまでのシークエンスはエモーションを最大化にした見せ場だ。一旦は失われたものが元に戻るかもしれない。そういう希望を持たせてくれる。災害とその克服は、男女の間の喪失と回復に対応しているわけで、このイベントを織り込んだことで2人の関係が劇的になっている。

すれ違うと思わせて再会するラストも上手い。電車ですれ違うシーンも階段ですれ違うシーンもドキドキ感がある。しかし、2人には強力な運命が、神がかった「結び」があるのだった。本作は最後までエモーションを持続させているところが素晴らしい。SF要素を巧みに用いた極上のエンターテイメントだった。

なお、本作には小説版もある。