海外文学読書録

書評と感想

河瀨直美『東京2020オリンピック SIDE:A』(2022/日)

★★★

2021年に開催された東京オリンピックの公式記録映画。SIDE:Aではアスリートを中心に描く。

2021年2月3日。当時、森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長だった。彼はJOCの臨時評議員会で次のような女性蔑視発言をする。

「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの『恥』を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた、5人います。女性っていうのは優れている所ですが、競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。私共の組織委員会に女性は何人いますか? 7人位おられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです」

本作はこれを受けてか、女性アスリートの女性性に肉薄している。具体的にはアスリートであることと母親であることの両立だ。

出産して競技に臨んでいるアスリートが何人かいて、彼女たちにだいぶ尺を割いている。母乳育児について語る人もいれば、妊娠中に練習してお腹を痛めたことについて語る人、自分が頑張ることで子供に何かを残すことについて語る人もいる。東京オリンピックでは巨額のハコモノを作る際に「レガシー」が強調されたけれど、子供というのは最大最高のレガシーだろう。子供たちにできるだけ良いものを残す。生きていて良かったと思わせる。オリンピックとは実質的に醜い商業主義ではあるが、それでもなお「平和の祭典」という建前を堅持しており、選手個人に焦点を当てれば美しいヒューマニズムが息づいている。そういう意味ではちょっとずるい。劇中である男が「アスリートも人間だ」と語る通り、本作はアスリートの人間性に迫っている。

また、別の男は「人は誰もが物語を持っている」と発言している。それが示す通り、本作では多種多様な物語が披露されている。

道家のサイード・モラエイはイラン出身。亡命してモンゴル国籍を取得し、モンゴル代表としてオリンピックに出場した。なぜ亡命したのかというと、2019年の世界選手権のときに当局から棄権するよう強要されていたからだ。イランはイスラエルのことを国家として認めておらず、自国の選手がイスラエルの選手と試合することを容認していなかった。そのいざこざに巻き込まれたのである。亡命したモラエイは東京オリンピックにモンゴル代表として出場し、銀メダルを獲得した。

女子体操競技選手のオクサナ・チュソビチナはウズベキスタン代表。それまでソ連代表、ドイツ代表としてオリンピックに出場し、今回祖国ウズベキスタン代表として出場することになった。46歳、8度目のオリンピックである。メダルこそ獲得しなかったものの、この年齢で跳馬をする様はなかなかすごかった。

女子陸上選手のガブリエル・トーマスはアメリカ代表。ハーバード大学を卒業した後はテキサス大学の大学院に進学し、免疫学を学ぶ傍ら学生アスリートとしてオリンピックに出場した。文武両道の天才である。彼女は陸上女子200mで銅メダル、陸上女子400mリレーで銀メダルを獲得した。

こうして見ると、スポーツはスポーツ単体で楽しむものではなく、選手の物語込みで楽しむものなのだろう。そりゃそうだ。競技するのは機械ではなく人間である。人間の持つ人間性、あるいは物語性を無視するのは片手落ちと言わざるを得ない。本作はそういった視角も含めてヒューマニズムの映画に仕上がっている。

東京オリンピックは税金の無駄遣いが取り沙汰されたうえ、コロナ禍での開催によって反対デモが巻き起こった。その映像を随所に入れているところも印象に残る。そもそも本作は森喜朗のアンチテーゼをやっているわけで、公式記録映画にしては反骨精神が旺盛だった。

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