海外文学読書録

書評と感想

エリック・ロメール『美しき結婚』(1982/仏)

美しき結婚

美しき結婚

  • ベアトリス・ロマン
Amazon

★★★★

大学院で美術史を学んでいるサビーヌ(ベアトリス・ロマン)は、ル・マンの古美術商で使い走りの仕事をしていた。そんな彼女が愛人だった画家のシモン(フェオドール・アトキーヌ)と別れ、婚活を始めることになる。サビーヌは親友のクラリスアリエル・ドンバール)から弁護士のエドモン(アンドレ・デュソリエ)を紹介してもらい、彼に猛烈にアプローチするのだった。

婚活クソ女の生態を活写していて面白かった。玉の輿に乗ろうというサビーヌの結婚観は明らかに間違っているのだけど、映画はそれを断罪せず温かく見守っている。へんてこな人間が、へんてこな価値観を元に、へんてこな行動をする。本作は差し詰め人間観察映画といった趣である。

婚活女の何が間違っているのかというと、結婚が目的になっていることだ。相手を愛しているから結婚するのではない。専業主婦になって自由を得たいから結婚するのである。案の定、親友からは「結婚が目的で結婚するわけではない」と窘められているし、元カレからは「稼がないと相手に依存することになる」と痛いところを突かれている。ところが、周りが何を言ってもサビーヌの考えは覆らない。その後も愛を置いてきぼりにしてひたすらターゲットにアプローチしている。サビーヌがエドモンに狙いをつけているのは、彼が高収入の弁護士だからだ。決して人間性に惚れているわけではない。エドモンは35歳と高齢だからチャンスは十分にある。若い自分なら性的魅力で落とせるだろう。そういう不純な思惑で彼に近づいている。この徹底した愛の欠如はまるでサイコパスで、婚活女とはつまり究極の利己主義者なのだろう。愛がなければ相手を思いやることもない。だから欲望の赴くまま突っ走る。現代でも婚活は盛んだけれども、こんな昔から婚活女の闇に焦点を当てていたとは驚きである。

自由というのが本作のキーワードになっている。サビーヌにとっての自由は結婚することで得られる自由だ。エドモンと結婚すれば働かなくていい。そのうえ、エドモンが忙しければ自分は自由になれる。一方、エドモンにとっての自由は結婚によって失われる自由だ。女から解放されて好きな仕事に打ち込みたい。サビーヌとは恋人関係ではなく友人関係でいたい。当然のことながらこんな両者がくっつくはずもなく、結局は話し合いの末に別れることになる。2人のすれ違いはそのままジェンダーのすれ違いと言っていいだろう。自分の利益だけ求めると婚活は上手くいかない。婚活には利益を越えた何か、すなわち愛が必要なのである。

婚活が失敗したサビーヌは、結婚には一目惚れが重要だと悟る。婚活クソ女が苦い経験を経て自分の間違いに気づいたのだ。この成長ぶりには思わず感動してしまった。

エリック・ロメール『飛行士の妻』(1980/仏)

飛行士の妻

飛行士の妻

  • フィリップ・マルロー
Amazon

★★★★★

大学生のフランソワ(フィリップ・マルロー)は東駅の郵便局で夜間のアルバイトをしていた。フランソワには年上の彼女アンヌ(マリー・リヴィエール)がいる。ところが、フランソワはアンヌがパイロットのクリスチャン(マチュー・カリエール)と密会しているところを目撃するのだった。フランソワはすぐさまクリスチャンを尾行する。そしてその途中、女学生のリュシー(アンヌ=マリー・ムーリ)と出会い、一緒に探偵じみたことをする。

会話劇と探偵劇、両者のバランスが素晴らしかった。会話劇は日常であり、生活に溶け込んだ静的な行為である。一方、探偵劇は非日常であり、生活から浮いた動的な行為である。本作は日常と非日常の混じり合い、静と動の配合が絶妙で、ヌーヴェルヴァーグ恐るべしと感じ入った。さらに、雑に撮っているようでその実計算され尽くした構図も目を引く。80年代にこういう映画が製作されていたとは意外だった。

月並みな言い方だけど、愛の力は偉大でしばしば人を動かす燃料になる。フランソワを探偵行為に駆り立てているのはアンヌへの愛からだ。アンヌを愛しているからこそ恋敵が気になり、真実を探りたいと願うのである。人間は愛のためならどんなに不合理なことでもする。また、どんなに滑稽なことだってする。愛は人間から世間体という衣服を脱がせ、丸裸の欲望をさらけ出させるのだ。人間を揺さぶる動力としての愛。この世界に愛を扱った映画が多いのも、それが物語を前進させるのに便利なうえ、人間の本質を容赦なく暴き出すからだろう。そう考えると、恋愛映画もそうそう馬鹿にできたものでもないと思う。

本作は年下の彼氏と年上の彼女、その付き合いの面倒さが繊細に描かれている。女にとって年下の男は性格が幼くて難儀する。男の無思慮な言動にイライラすることが多い。おそらくアンヌにとっては年上のクリスチャンのほうが性に合うはずで、クリスチャンが妻帯者でなければそちらとよりを戻していたはずだ。序盤のアンナはそれくらいフランソワにうんざりしている。しかし、面白いのはそのまま関係が悪化するわけでもないところだ。終盤でフランソワがアンヌの部屋に押しかけ、2人は口喧嘩をする。このままま関係が破綻するのかと思いきや、紆余曲折を経て最後には和解する。本作はその様子を長回しの会話劇で捉えているのだからすごい。山の天気のように移ろう女心を精緻に描写していて圧巻だった。

フランソワの尾行の顛末も特筆すべきだろう。カフェで張り込みをするフランソワ。しかし、相手が向かいの建物から出た後タクシーに乗り込んだことであっけなく追跡を断念するのだから笑える。所詮は付け焼き刃の素人仕事だと言いたげなシーンだ。愛とは時に人を道化に仕立てるのだから面白い。

チゴズィエ・オビオマ『小さきものたちのオーケストラ』(2019)

★★★

ナイジェリア。イボ人のチノンソはウムアヒア郊外で養鶏を営んでいた。ある日、彼は橋から飛び降りようとしていた女性を助ける。女性の名前はンダリ。2人は紆余曲折を経て恋仲になり、間もなく結婚を誓い合う。ところが、ンダリの家族は地元の名士で、チノンソが貧乏人かつ低学歴であることを理由に侮辱してくるのだった。チノンソはンダリのために稼業を畳み、キプロスに渡って学位を得ようとする。

ンダリは鶏舎のほうに戻ってきて、宿り主をそっと押し、ニワトリたちの泣いている声に耳を傾けた。こちらに向き直ると、まぶたから涙がこぼれ落ちそうになっていた。

「ああ! ノンソ、そうよ! ハーモニーを奏でているみたい。葬送の歌に似ている。まるでコーラスね。そう、この子たちが歌っているのは哀歌よ。耳を澄ましてみて、ノンソ」ンダリはしばらく無言のまま立ち尽くすと、わずかにうしろに下がって、指をパチンと鳴らした。「お父さまが言われたとおりよね。小さきものたちのオーケストラ」(p.319)

本作の面白いところは、チノンソに取り憑いている守り神を語り手にしているところだろう。この守り神はイボ人の信仰を元にした存在で、土着の語りが西洋の小説形式と融合している。ただ、形式とは違和感なく馴染んでいるものの、語り手の所属する世界観は極めて異質だ。そして、形式と世界観のギャップが読み手に異化効果をもたらしている。これがとても刺激的で面白い。白人の世界とイボ人の世界。両者の世界観は根本的に違うものの、今やグローバル化によって生活圏が繋がっている。だから否が応でも折衷せざるを得ない。本作はそのような事情を特殊な語りの形式にまで昇華しているのが良かった。

とはいえ、語りの面白さに比べると物語は可もなく不可もなしである。本作は守り神が精霊界の法廷でチノンソの罪を弁明するという枠組みのため、一応先が気になるようにはなっている。けれども、終わってみればどうってことのない愛憎劇で、革命的な語りには今一歩及んでいなかった。本作の意図としては、市井の人間の愚かさを愛おしむところにあるのだろう。だから等身大の愚行を用意した。しかし、それにしては現代文学らしい捻りがなく、やはり語りの特殊性に比べると物足りない。これは贅沢な要求かもしれないけれど、語りと物語、両者が同じくらい面白ければ満足度が上がっていた。本作の場合、語りのオリジナリティが突出していてバランスが悪いと思う。

チノンソは旧友に騙されてキプロスの地で立ち往生するのだけど、それを現地の同胞たちが助けてくれている。これが『チョンキンマンションのボスは知っている』【Amazon】を彷彿とさせて面白い。つまり、自分が困らない範囲での気軽な助け合いをしているのだ。異国の地で同胞たちが義務と責任を負わずにカジュアルな互酬性を発揮する。その結果、国境を越えた巨大なセーフティーネットが構築される。『チョンキンマンション~』は香港のアフリカ人コミュニティを題材にしたノンフィクションだけど、それがキプロスを舞台にしたフィクションでも見られて興味深かった。

チノンソを騙した旧友が回心して熱心なクリスチャンになっているところは風刺が効いていた。チノンソの人生を台無しにしたにもかかわらず、「なにもかも、ほんとうにすまなかった。主はこんなぼくを許してくださった。きみも許してくれるかい?」で済まそうとしている。これは懺悔すれば犯した罪が許されるというキリスト教への皮肉だろう。旧友の場合、ちゃんと金を返したから許されたけれど、これが言葉のみの謝罪だったらかなり悪質だった。このエピソードではキリスト教の不誠実さに肉薄している。

道を歩いていたチノンソがキプロスの子供たちに「ロナウジーニョロナウジーニョ!」言われて囲まれるくだりは思わず笑ってしまった。

2021年に読んだ374冊から星5の15冊を紹介

このブログでは原則的に海外文学しか扱ってないが、実は日本文学やノンフィクションも陰でそこそこ読んでおり、それらを読書メーターに登録している。 今回、2021年に読んだすべての本から、最高点(星5)を付けた本をピックアップすることにした。読書の参考にしてもらえれば幸いである。

評価の目安は以下の通り。

  • ★★★★★---超面白い
  • ★★★★---面白い
  • ★★★---普通
  • ★★---厳しい
  • ★---超厳しい

 

光文社古典新訳文庫を立ち上げた編集者・駒井稔が、同文庫の訳者たちにインタビューしている。元は紀伊國屋書店で行われたイベント。全14章。

以下、本書に登場した訳者たち。

どうにもいけ好かないタイトルだが、中身は良かった。「100分de名著」を複数回見たくらいの濃密さで、作品を読み解く手引になる。各章は時代背景や文学的意義の説明だけでなく、翻訳におけるこだわりなども述べている。

個人的にもっとも参考になったのがロブ=グリエ『消しゴム』の章で、ここでは訳者の中条省平が、ロブ=グリエの問題意識を分かりやすく解説している。

ロブ=グリエに先行するカミュサルトルは人間中心主義の価値観だった。ところが、その後に出てきた構造主義ヌーヴォー・ロマンは、人間中心主義から脱却した正反対の価値観を打ち出している。そしてそれゆえに、ロブ=グリエの小説は意味づけを拒むような難解な作風になっているのだ。

それで、なぜロブ=グリエが映画を撮り始めたかというと、映画というのは意味づけをしなくても済む。つまり、カメラを向けただけで世界が映っちゃう。ところが、小説の場合はなぜそういう世界を描いたかと意味づけしなければならない。そういう意味づけ自体が、既に人間中心主義だとロブ=グリエは考えるんです。だから、そういうのはやめようと。

そういうことをやめると『嫉妬』になっちゃうわけです。つまり、一人の男が自分の女房が浮気しているんじゃないかと思って、ブラインドの陰から、ずっと見ていて、ああでもないこうでもないと、延々と言い続ける。普通、人間中心主義的に考えれば、女房が浮気していて、亭主が怒るという話になって、喧嘩が起こったりします。これが従来の小説だとすると、ロブ=グリエの場合は、その女房が浮気しているかどうかなんて、表面的にはわからない。だからひたすら見続ける。世界に嫉妬という人間的な概念を導入して、理解した気になってはいけないというのが、ロブ=グリエの考え方なんです。(pp.77-78)

さらに、ロブ=グリエバルザックを否定したかった。

つまり、バルザックは、世界を描いているように見えるけれども、情念とか感情とか、そういうもののドラマとして世界を描いていると言うわけです。でも、現代人がバルザック的な情熱とか、情念を持てるかと、彼は考える。嫉妬するにしろ、お金が欲しいにしろ、あるいは女に狂うとか、ごく当たり前の人間的な情熱にしろ、それをあたかも素晴らしい人間的な価値であるかのように書いちゃうバルザックの小説は嘘だと言うわけです。人間はもっと平板な世界をみみっちく生きていて、なぜその真実に近づかないんだと言った。(pp.79-80)

この先駆者として中条はカフカの名前を挙げている。門外漢としては腑に落ちる解説だった。

それと、ナボコフの小説を訳した貝塚哉が、「小説は物語じゃない」と言い切っているのも痛快だった。

小説には言葉しかない。それを逆手に取って、言葉の面白さで小説を作っていけば、小説は映画を負けずに売れるんですね。ストーリーだけで勝負しようと思ったら、負けてしまいます。なので、二十世紀の心ある作家たちは、そのことをすごく意識した。いかに言葉自体を面白くするかということにこだわったわけです。(p.398)

こういう態度が読書界のデフォルトになればいいと思う。最近は猫も杓子も物語を求めすぎなので。

 

上下巻。

古代ペルシアの時代から9.11後の現代まで幅広く扱っている。

本書を読んで分かるのは、人類の歴史が欲望の歴史であることだ。人々が移動したり交易したりするのは、富を求めることに原因がある。古代ローマも十字軍も、東にある富を求めて戦争してきた。そして、戦争によって異なる文化の輸出入が促進されている。現代人からすると違和感があるかもしれないが、実際のところ、戦争が人類の発展に貢献してきたのだ。さらに、宗教がどのように伝播していったのかも重要なトピックで、キリスト教イスラム教・仏教などの勢力争いにも目が離せない。

中世においては、ヨーロッパよりもイスラムやモンゴルのほうが文明的な国家を作りあげていて、これらが世界征服をしたら人類は幸せだったのではと思えてくる。人類史最大の失敗は、キリスト教が覇権を握ったことだ。キリスト教は不寛容で多様性を排除する。一方、たとえば初期のイスラム教は異教徒を迫害せず包摂してきた。現代とはイメージが正反対である。

本書が文句なしに面白いのは中世までで、大航海時代が始まってからはヨーロッパの覇権が決定的となって平板になる。ほとんどヨーロッパ史の再確認みたいになって退屈だった。

ただ、しばらくはだれたものの、20世紀に入り中東の石油を巡って綱引きをするようになってから持ち直した。イギリスは収奪的な支配体制を敷いて原住民から嫌われてるし、その後介入してきたアメリカはソ連をこの地域に近づけたくなくてあれこれ画策している。各国の思惑が錯綜していて面白かった。

今後は中国の一路一帯がシルクロード復権の鍵になるという。国際政治がどうなるか気になるところである。

以下、本書で印象的だった記述。

ヨーロッパの中世は十字軍と騎士道、そして教皇の権力増大の時代とみるのが一般的だが、これらは遠い東の世界で起きた大規模な戦いに比べれば取るに足りないものだった。モンゴルは部族制度によって世界征服を目前にし、アジア大陸の大半を支配した。残るはヨーロッパと北アフリカだ。特筆すべきは、モンゴルの支配者が狙いを定めたのは後者だったという事実だ。つまりヨーロッパは、獲物としては最良の選択肢ではなかったのである。モンゴルはエジプトの豊かな農産物と、あらゆる方面へ向かう交易路が交わるナイルの掌握を目指すが、そこに立ちはだかったのは同じくステップからやってきた男たちが指揮する軍隊だった。これは単なる権力闘争ではなく、政治的、文化的、社会的システムをめぐる衝突だった。中世世界の最大の軍事衝突は、中央アジアと東アジア出身の遊牧民族同士が主人公だったのである。(上 p.214)

やはり世界史は西洋が覇権を握る前が面白い。

 

新興宗教の教祖になるマニュアル本の体になっているが、書いてあることは宗教とは何なのか、どのような仕組みで成り立っているのか、そういう本質的な説明をしていて参考になる。何よりくだけた口調で読みやすいところがいい。宗教とは信者をハッピーにするものであり、それは例外なく現世利益を謳っている。神も仏も信者をハッピーにするための機能にすぎない。本書は身も蓋もない言い方でずばり核心を突くところが面白かった。

新興宗教が反社会的になる理由が奮っている。

なぜ、新興宗教が反社会的になるかというと、そもそも新興宗教はその社会が抱える問題点に根差して発生するものだからです。なので、どうしても反社会的にならざるを得ませんし、また、そこにこそ宗教の意義があるとも言えます。イエスは徴税人や売春婦と交わりましたが、彼らは当時穢れた職業と考えられていました。今の感覚で言えば職業差別ですが、当時の社会では彼らを差別することこそが、むしろ「正しい」ことだったのです。ですから、彼らのような社会的弱者を救済し、神の祝福を与えるイエスは、どうしても反社会的にならざるをえないわけです。安息日に病人を癒したのも、神殿で商人相手に暴れ回ったのも彼なりの信念によるもので、「安息日に人を助けられないってバカじゃないの?」「神聖な神殿で商売するってバカじゃないの?」という意味があったのです。これも今の感覚からすれば納得できる話ですが、当時ではやっぱり反社会的だったわけです。

社会が正しいとは言い切れないから反社会的になる。宗教の役割は社会に迎合することではなく、あくまで信者をハッピーにすることにある。このテーゼが一貫しているところに感心した。

この続きを読むには
購入して全文を読む

モナ・アワド『ファットガールをめぐる13の物語』(2016)

★★★

連作短編集。「宇宙にさからう時」、「最大のファン」、「全身写真」、「そんなことなら」、「わたしの嫌いなあの子」、「それって欲張り」、「母にとってのセクシーな人」、「Fit4U」、「あの子はなんでもしてくれる」、「ファン・ファステンバーグとわたし」、「カリビアン・セラピー」、「アディション・エル」、「海のむこう」の13編。

宇宙はわたしたちに冷たい。理由はわかっている。だからマックフルーリーのおかわりを買って、しばらく自分たちがどれだけ太っているか話し合う。もちろんいくら議論しても、たとえ何度メルが自分なんて脱いだらばかでかいクジラだよと力説しても、知っている。太さで勝つのはわたしのほうだ。しかもかなりの差で。メルはお尻が大きい。それは認める。でもうなずいていられるのはそこまでだ。(p.10)

以下、各短編について。

「宇宙にさからう時」。晴れた午後。エリザベスとメルがマクドナルドで雑談していると、近くに3人組のビジネスマンが。メルが彼らにアプローチをかけようとする。若者らしい自意識過剰ぶりがすごかった。見知らぬ人が自分に関心を抱いていると思い込むのは誰もが通る道だろう。本作はその心性をポップな語りで表現していて面白い。あと、欧米人ってADHDが多いと思う。本作のメルなんて衝動的かつ多動的ではなかろうか。普通はあんな思いつきを軽く実行したりしないので……。

「最大のファン」。ミュージシャンのロブがおでぶちゃんの家に行く。おでぶちゃんはロブのファンだった。ところが……。真相がなかなか残酷で、信仰心を独占できていなかったという事実はダメージが大きい。これは近年の推し文化に通じるものがある。すなわち、単推しかDD(誰でも大好き)か。ミュージシャンとしては単推しであってほしいわけだ。

「全身写真」。エリザベスがネット恋愛している彼氏に全身写真を送ることになった。この短編、チャイナにストーカーするステッペンウルフ男とか、母親の恋愛問題とか、リジーのネット彼氏が元俳優で現在は全身麻痺とか、短かい中に色々なネタが詰まっていた。ところで、肥満女性を主人公にした小説ってあまり見かけない。そもそも日本に住んでいると肥満女性もあまり見かけない。エリザベスは自分の体型を嫌っているものの、だからといって痩せる気もなく、その辺の心理がよく分からなかった。あと、チャイナが施した「スモーキーなメイク」とやらは今流行りのエンパワーメントなのだろうか。母親に「まるで殴られたあとみたい」と言われたのは可笑しかった。

「そんなことなら」。エリザベスがバイト先の同僚アーチボルドと体の関係になる。ところが、アーチボルドには恋人ブリッタがいて彼女が乗り込んでくるのだった。アーチボルドが屈託のない態度でエリザベスを性的対象にしたのに驚いたのだけど、後で登場したブリッタの体型を知って納得。彼はデブ専だったのだ。需要と供給はしっかりマッチするのだなあと感心した。そしてラスト、病院の待合室でよそよそしく会話するエリザベスとブリッタには哀愁があった。

「わたしの嫌いなあの子」。エリザベスの同僚兼友達はクソ女だった。節制してるエリザベスを食事に誘ってはなぜサラダを食べるのか聞いてくる。そのクソ女はエリザベスと違って痩せていた。女同士の機微が分からないのだけど、やはり優越感を満たすためにそういうことを言ってるのだろうか。でも、大抵の人には「太ってる人間にはたくさん食って欲しい」という願望があるから、その表れかもしれない。真相は藪の中だ。ともあれ、ポイントは嫌ってるくせに友達であるところで、この辺に女同士の複雑さがある。ところで、節制してるエリザベスに対し、メルが「そのままで愛されるべき」と言ってるのには痺れた。某ディズニー映画【Amazon】に出てきた「ありのままで~」というやつだろう。美容業界の圧力、引いては資本主義の圧力に屈しない姿勢がいい。

「それって欲張り」。エリザベスが服飾店の店員に服を合わせてもらう。エリザベスは店員のアドバイスに欺瞞を感じて内心では不満たらたらだけど、接客業というのはそういうものだから仕方がない。店員も欺瞞に欺瞞を重ねているうちに何が本質なのか見失ってしまったのだろう。資本主義の奴隷。むしろ、エリザベスは店員を憐れむべきだ。

「母にとってのセクシーな人」。エリザベスと母が会食に行く。ここまで読んで思ったけれど、固有名詞が大量に出現する語りはポップな雰囲気を醸し出す反面、資本主義の窮屈さも感じられてなかなかつらいところがある。音楽にせよファッションにせよ、我々は資本主義の作り出した商品から逃れられない。それはつまり、我々の生活が欧米の価値観に支配されていることを意味する。果たしてこれでいいのだろうか?

「Fit4U」。亡くなった母がクリーニング店に預けていたワンピース。エリザベスがそれを引き取る。母と娘の関係は父と息子の関係とは違い、おそらく似姿に近いものがあるのだろう。父と息子の関係はどうしてもよそよそしくなってしまうけれど、母と娘の関係は晩年まで親密だ。息子が父を超える必要があるのに対し、娘はそんなことをする必要がないから。僕は時々、母と娘の関係が羨ましく思う。

「あの子はなんでもしてくれる」。ディッキーがファットガールとのガストロ・セックスについて語る。それをうんざりしながら聞いていたトムは妻エリザベスが待つ自宅に帰る。エリザベスが痩せていて驚いた。確かにその背景には夫のさりげない態度や何気ない視線が影響したのかもしれない。しかし、肥満は美醜の問題のほかに健康の問題にも関わるので、結果としては痩せて良かったのではないか。連作ではもっぱら前者にだけ触れていて、後者はなかったことにされてるけど。

「ファン・ファステンバーグとわたし」。エリザベスが服飾店でファン・ファステンバーグのドレスを試着する。店員からはファットガールにそれは無理と思われてるような気がする。女性が痩せるメリットは可愛い服が着られることで、ファン・ファステンバーグのドレスはその象徴なのだろう。プラスサイズの服は往々にしてダサい。美しく着飾ることが女性の証とされているのは何とも窮屈なことである。

「カリビアン・セラピー」。エリザベスがハンドトリートメントの施術を受ける。いつも通り相手は肥満女性キャシーを指名した。無理して痩せたエリザベスよりも、ありのままの姿で生きているキャシーのほうが幸せそうという図式。キャシーは太ったままでも夫に愛されている。一方、エリザベスにとって痩せる意味とは何だったのか。というのも、エリザベスの夫はデブ専で今でもこっそり若いファットガールの動画を見ているのだから。夫に愛されるだけなら痩せる必要はなかった。エリザベスの境遇はどこか物寂しい。

「アディション・エル」。痩せたエリザベスがプラスサイズの服を試着する。この連作で面白いのは肥満がファッションと結びついてるところだ。僕は標準体型だけどファッションには興味がなくて、だいたいはユニクロで済ませている。そんな僕にとってエリザベスがファッションを気にするのが不思議でならない。これはジェンダーの問題だろうか?

「海のむこう」。フィットネスセンターの器具を巡ってちょっとした言い合いになる。最終話だけあって黄昏れている。中盤まで目立っていたポップさもだいぶ抑え気味だ。思えばこの連作、肥満大国ならではのテーマ設定だった。