海外文学読書録

書評と感想

及川啓『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』(2021)

★★★★

シンボリルドルフ田所あずさ)に憧れてトレセン学園に入学したトウカイテイオーMachico)は、チームスピカに所属することになった。チームメイトにはメジロマックイーン大西沙織)がいる。テイオーは無敗の3冠ウマ娘を目指し、マックイーンは天皇賞の連覇を目指すが……。

ウマ娘 プリティーダービー』【Amazon】の続編。前作ではスペシャルウィーク和氣あず未)とサイレンススズカ高野麻里佳)に焦点を当てていた。

このシリーズは競走馬を女体化したスポ根アニメで、レースの結果や怪我のタイミングなど実話に沿っている。シリーズにおける最大の発明は、複数のウマ娘に関係を持たせたところだろう。競走馬は動物なので、そのままだと馬同士で何か関係を結ぶということはない。しかし、人間化することで友情関係やライバル関係といった繋がりを強調することができる。元々スポーツとは筋書きのないドラマで、ご多分に漏れず競馬にもそれはあった。このシリーズではそこにアングルを持ち込むことで、よりドラマを膨らませ、感動を大きくしている。

シーズン2はトウカイテイオーメジロマックイーンを主人公にしている。テイオーは無敗の3冠ウマ娘を目指し、マックイーンは天皇賞の連覇を目指していた。本作のいいところは、2人の目標があっけなく潰えてしまうところだろう。安易なサクセスストーリーを回避し、挫折をいかにして乗り越えるかに焦点を当てている。もちろん、これは史実を踏まえたストーリーだ。そして前述の通り、ウマ娘たちには関係がある。テイオーとマックイーンはチームメイトであると同時にライバルであり、お互いを目標として切磋琢磨するのだった。テイオーが怪我で苦しんでいるときは、マックイーンが背中を見せて奮起させる。逆にマックイーンが怪我で苦しんでいるときは、テイオーが背中を見せて奮起させる。やっていることはスポ根ドラマであり、史実にこうした関係を持ち込んだところが本作の長所になっている。

チームをまとめるのがトレーナー(沖野晃司)だ。これがアイドルアニメにおけるプロデューサーのポジションになっていて面白い。このシリーズはアイドルアニメを範にしたところがあって、たとえば、レース終了後には勝者によるウイニングライブが行われている。キャラソンもアイドルアニメ並に多い(そもそもキャラが多い)。このシリーズはキャラクター消費を意識した作りになっているので、競馬に詳しくなくても面白く観ることができる。

イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』(1949)

★★★★

短編集。「ある日の午後、アダムが」、「裸の枝に訪れた夜明け」、「父から子へ」、「荒れ地の男」、「地主の目」、「なまくら息子たち」、「羊飼いとの昼食」、「バニャスコ兄弟」、「養蜂箱のある家」、「血とおなじもの」、「ベーヴェラ村の飢え」、「司令部へ」、「最後に鴉がやってくる」、「三人のうち一人はまだ生きている」、「地雷原」、「食堂で見かけた男女」、「ドルと年増の娼婦たち」、「犬のように眠る」、「十一月の願いごと」、「裁判官の絞首刑」、「海に機雷を仕掛けたのは誰?」、「工場のめんどり」、「計理課の夜」の23編。

「戦争は? 戦争はどんな具合だ?」

「戦争なら、ずいぶん前に終わったよ、バチッチン」

「そいつはよかった。それで、戦争の代わりになにが訪れたんだ? どのみち、俺は戦争が終わったなんて信じないね。これまでだって何度も終わったって言いながら、そのたびに別のかたちで始まったじゃないか。ちがうか?」

「いいや、正しいよ」(p.58)

以下、各短編について。

「ある日の午後、アダムが」。新しくやってきた庭師はまだ少年だった。少年は小間使いの少女に色々なプレゼントをしようとする。この少年は15歳なのだけど、年齢よりも無垢で妖精みたいな印象である。少女にカエルやヘビなどをあげようとするのもまた幼い子供みたいだ。しかし、この溢れんばかりの生き物は自然の豊穣さを表していて面白い。オチはまるで魔法だった。

「裸の枝に訪れた夜明け」。マジョルカ男のピピンが妻と交代で柿の木の警備をする。ピピンはヴェネツィア人のサルタレルと知己であり……。今回は柿の木だったけれど、この手の畑泥棒は現在でもいるからとかく農業は難しい。日本でもいちごや大根などがよく盗まれている。収穫物が白日の下にあり、そこへのアクセスが物理的に自由だからこういうことが起きている。農業って産業としては欠陥が大きすぎる。

「父から子へ」。ずんぐりした牛を飼っているナニンが子供たちに堅信式を受けさせようと思い立つ。そのために立派な服を用意してやろうと算段するが、現実にはそれを用意する金がなかった。現実と空想の境目が曖昧になって突拍子もないことを口走るのはよくあることだ。そして、それを見越したかのように牛が現実を思い出させようと乱入する。

「荒れ地の男」。「僕」が父さんと野兎を狩るべく二手に別れる。「僕」は〈至福のバチッチン〉と出会い、彼と話をする。バチッチンは田舎で暮らすにはちょっととろくて家族を養えるかどうかも怪しい。彼と話すことで「僕」のたくましさが際立っている。それにしても、バチッチンの話と狩りの様子が合流する結末が何とも言えない。

「地主の目」。地主の息子が父に命じられて小作人の監督をしにいく。しかし、地主の息子は小作人を怒鳴らないうえ、小作人は地主の息子を余所者だと認識しているから、みんなだらだらとお喋りをするのだった。こういう原始的な共同体に必要なのは威厳で、威厳の元となるのが共同体に利益をもたらす指導力なのだろう。だから地主は厳しくても小作人から認められている。ところで、今回は戦争が背景にあった。

「なまくら息子たち」。アンドレアとピエトロは父の仕事を手伝わずにぐうたらしていた。父は地主をしている。19世紀のロシア文学を彷彿とさせるニート小説だった。2人はいわゆる「余計者」だけど、特に世間に迷惑をかけていないだけマシだろう。だいたい暇を持て余した奴なんてろくなことやらないから。ともあれ、本作は2人の生活感覚がいい。

「羊飼いとの昼食」。裕福な一家が羊飼いを呼んで食卓を囲む。高校生の「僕」は羊飼いが置かれた状況を察して気を揉む。階級や文化の違いは男同士の連帯を持ってしても糊塗できない。それを象徴しているのが兵役だ。すべての男性に共通して降りかかる兵役でさえ、一家と羊飼いでは断絶が横たわる。そのことに気づかない大人衆は無神経だ。

「バニャスコ兄弟」。旅好きでよく家を空けるバニャスコ兄弟。そんな彼らは地元で嫌われていた。弟による冷静な語りと兄弟による無軌道な振る舞い。両者にギャップがあって面白い。こういうのは一人称小説の醍醐味だろう。

「養蜂箱のある家」。人里離れた一軒家で孤独に暮らす男の独白。彼には何か訳がありそうだった。これはいわゆる「信頼できない語り手」ってやつかな。女を巡る話では明らかに嘘をついているのだけど、結局は真偽不明のまま終わる。奇妙な後味を残す短編だった。

「血とおなじもの」。SSに母親を逮捕された兄弟が〈コミュニスト〉のグループへ。戦時中の反乱分子が集まる場所を描いていて、その乾いた雰囲気が何とも言えない。パルチザンやレジスタンスってヨーロッパではよく見る題材だけど、日本ではまずお目にかかれない。だからこそ貴重に思える。

「ベーヴェラ村の飢え」。1944年のベーヴェラ村。砲弾が飛び交う中、老人がラバに乗って町まで食糧を調達してくる。村人たちはそれを喜ぶのだった。やがてドイツ軍が撤退し、村に黒シャツ隊がやってくる。この老人がどこか浮世離れした存在で、物語も何かの寓話に思える。最後にラバもろとも倒れるところが映画的だ。

「司令部へ」。丸腰の男が武装した男に連れられ司令部へ向かう。丸腰の男はスパイのリストに載っていた。ところが、武装した男は必ず釈放されると太鼓判を押す。最後まで読んでから振り返ると、武装した男の態度は食えないし、あのラストには不条理すら感じる。発砲までの間がすごい。

「最後に鴉がやってくる」。少年が男たちから銃を借りて水面の鱒を撃つ。少年の腕前に感心した男たちが、自分たちの陣営に彼を連れていく。道中、少年は様々な動物を撃つ。そして……。少年はパルチザンでもなければドイツ兵でもなく、降りかかる火の粉を払ってる感じ。最後に鷲の紋章を撃ち抜くところは皮肉が効いている。鴉は死兆星みたいなものかな。

「三人のうち一人はまだ生きている」。3人の罪人が村人たちに処刑されようとしていた。そのうち2人は射殺されて井戸に落ちていったが、1人は撃たれる前に飛び降りて井戸の底で生き伸びる。村人たちは処刑をやり直そうと彼にロープを投げる。え、この状況から助かっちゃうんだ? って思った。てっきり洞窟から抜けた後に射殺されるだろう、と。ともあれ、ラストの喜びはよく分かる。

「地雷原」。ズアーヴ兵風のズボンを穿いた男が地雷原を歩く。最後の一段落が引用したくなるほどいい。これは不可避的な結末である。

「食堂で見かけた男女」。食堂で成金の太った女と没落貴族の老人が同席する。それを観察する「僕」はトラブルを予感する。老人の空回りぶりがドストエフスキー的で、誰か止めてやれよと思いながら読んだ。観察者の「僕」もヒヤヒヤしている。女と老人、戦後になって力関係が逆転しているのもせつない。老人にはもう過去の栄光しか残されていないのだ。

「ドルと年増の娼婦たち」。近所の店にアメリカの水兵たちがやってきた。エマヌエーレは妻のイオランダを使ってリラとドルの両替を目論む。ところが、イオランダは娼婦に間違われて水兵たちに囲まれてしまった。エマヌエーレが策を講じる。戦後間もない敗戦国はどこもこんな雰囲気だったのだろうな。兵士と性欲は切っても切れない関係で、日本でもパンパンが求められた。

「犬のように眠る」。駅の宿泊所で男女が雑魚寝する。個人的には、熟睡してるときに起こされるのはギルティなのだが、本作のイタリア人はトイレの場所を教えてもらうために寝てる男を起こしていて恐ろしすぎると思った。あと、普段ベッドで寝てる僕は雑魚寝なんて絶対したくない。

「十一月の願いごと」。全裸にミリタリーコートを羽織った男が、服を貰いに司祭のところにやってくる。周囲のご婦人連中はその出で立ちに大騒ぎだった。新品の下穿きがチクチクするっていうのがよく分からない。昔の服はそうだったのかな。そして、毛皮のコートは確かに感触が良さそう。僕も全裸の上に羽織ってみたい。

「裁判官の絞首刑」。裁判官オノフリオ・クレリチはイタリア人を見下していた。イタリア人もそんな彼を嫌っている。町で不穏な空気が流れるなか、裁判が行われる。もし現実に処刑するとしたらこういう手続きはまず踏まないと思うので、本作は極めてフィクショナルな不条理劇だと言えよう。そして、そのぶん気が利いている。ところで、裁判官によるイタリア人の素描はネオレアリズモっぽい。

「海に機雷を仕掛けたのは誰?」。財産家の屋敷で歓談中に老夫が荷物を持ち込んでくる。それは機雷だった。そういえば、『ヒトラーの忘れもの』は捕虜にしたドイツ軍の少年兵に地雷を撤去させる話で、あれはかなり残酷なシチュエーションだった。本作はそれに比べるとぬるいものの、似たような意趣返しはイタリア人も思いつくのだなと感心する。

「工場のめんどり」。警備員が工場で一羽のめんどりを飼っていた。それが原因で一騒動起きる。滑稽と不安がないまぜになった居心地の悪い短編で、人生において喜劇と悲劇は紙一重なのだと思わせる。

「計理課の夜」。夜の計理課では清掃会社の社員が掃除の仕事をしていた。少年も母親に連れられ職場にやってくる。現場には残業している計理士がいて……。昼と夜とで職場の顔ぶれが様変わりするのって、高校が全日制から定時制に変わるような感じだろうか。それはともかく、計理士が少年に打ち明けた計算ミスの話がぞっとする。バレたら会社が吹っ飛ぶぞ。

グザヴィエ・ドラン『トム・アット・ザ・ファーム』(2013/カナダ=仏)

★★★★

ホモセクシャルの青年トム(グザヴィエ・ドラン)が、恋人ギヨームの葬儀に出席すべく彼の実家へ赴く。そこは田舎の農場だった。ギヨームの母アガット(リズ・ロワ)は息子が同性愛者であることを知らず、恋人はサラという女性だと思い込んでいる。そこへギヨームの兄フランシス(ピエール・イヴ・カルディナル )が登場。トムに暴力を振るい、話を合わせるよう強要する。

田舎を舞台にしたサスペンス。今回はケレン味のある演出は控えめで、かなりベタなことをやっていた。たとえば、空撮で田舎の風景を流すとか、劇伴でスリルを煽るとか、危機的場面で画面の上下幅を狭くするとか。総じていつもより娯楽映画に寄せているような印象がある。しかし、かといって職人に徹しているわけでもなく、同性愛やマザーコンプレックスといった監督ならではの題材も見て取れる。くわえて、本作ではマチズモの悲哀も取り込んでいた。本作は娯楽映画の枠組みでいつもの作家性を発揮しているところが面白い。

田舎の何が怖いのかというと、いざというときに逃げ場がないからで、だからこそサスペンスの舞台にふさわしいのだろう。トムはフランシスの暴力によって、物理的にも精神的にも監禁状態に置かれてしまう。フランシスは地域で孤立しているような狂人で、母親への愛情が深かった。彼が田舎に残っているのも寡婦である母親の面倒を見るためであり、トムに嘘をつくよう強いるのも母親を悲しませないためである。30歳のフランシスが老いた母親と同居しているのは異常な状況だ。これだけでも恐怖に値する。

フランシスは暴力によってトムを支配しようとしている。しかし、この暴力は実のところ弱さの裏返しで、彼はトムのことを切実に必要としていた。ちょうどDV夫が妻を離したがらないのと同じ構図である。フランシスは母親に依存し、トムに依存し、出口のない関係の虜になっている。こんなことになっているのもフランシスが地域で孤立しているからだろう。被害者のトムからしたらいい迷惑で、暴力とは幼児性の発露に他ならないと痛感させる。

トムの女友達サラ(エヴリーヌ・ブロシュ)は、フランシスの暴力に屈しない頼もしい性格をしている。サラの登場によって、唯々諾々とフランシスに従うトムの弱さが浮き彫りにされるのだった。サラなら簡単にトムを救えそうだが、そこはちゃんと救えないようにできていて、希望と絶望のジェットコースターになっている。サスペンスとはこういうものだと感心した。

グザヴィエ・ドラン『胸騒ぎの恋人』(2010/カナダ)

★★★★

フランシス(グザヴィエ・ドラン)とマリー(モニカ・ショクリ)は親友同士。そんな2人が金髪イケメンのニコラ(ニールス・シュナイダー)と出会う。友情を育む3人だったが、その過程でフランシスもマリーもニコラへの想いを募らせていく。恋のライバルとなった2人はそれぞれニコラに告白するが……。

学生の自主制作映画を高級にしたような感じだ。色々な技法を意欲的に使っていて、監督の才気が迸っている。中には滑った表現もあるが、総じて編集のセンスが良くて見栄えがいい。何より元になる映像が一流なので、序盤の印象ほどには退屈しなかった。こういうのってオーソドックスな商業映画ではなかなかお目にかかれないから貴重だ。

序盤はアンチロマンというか、どういう話なのか掴ませない編集になっていて、実のところ先行きが不安だった。インタビュー形式だったり、スローモーションだったり、原色のフィルターだったり、とにかく奇を衒った演出が目立つ。しかし、そういった迷路を抜けると一転して話が見えてくるようになる。本作で描かれていることはとても単純だった。これは単純な話だからこそ編集に工夫が必要だったわけで、その工夫が映画の充実感に繋がっている。

ニコラを真ん中に置いて3人が横並びになる構図が微笑ましい。しかし、愛が絡むことでその関係が破綻してしまう。愛とは一時の熱情で、それに取り憑かれている間は対象が世界のすべてだ。ところが、何らかのきっかけで対象から距離が離れると、燃え上がった執着心もなくなってしまう。ひとことで言えば、目が覚めてしまう。そういう心理は「スワンの恋」(『失われた時を求めて』【Amazon】所収)でも描かれていた。フランシスとマリーはそれぞれニコラに振られた。そこで関係が途切れてしまった。普通だったら振られた相手に未練が残るものだが、過ぎ去った時間がそれを押し流してしまう。一年ぶりにニコラと再会したときの2人がまた奮っていて、人間とはつくづく現金な生き物だと感心する。

3人でブランコに乗ってゆらゆらしているシーンが最高だ。こういう関係がいつまでも続けばいいのにと願ってしまう。それと、ニコラ役のニールス・シュナイダーがとんでもないイケメンで、主演のグザヴィエ・ドランを食っていた。実を言うと、最初はニコラが主役だと思ったほどだ。それくらい画面に映えている。

グザヴィエ・ドラン『マイ・マザー』(2009/カナダ)

★★★★

ケベック。17歳の少年ユベール(グザヴィエ・ドラン)は、母親(アンヌ・ドルヴァル)と二人暮らしをしながら学校に通っていた。ユベールと母親は些細なことからよく口論している。ユベールには同性の恋人(フランソワ・アルノー)がおり、それを知った母親はショックを受けるのだった。その後、ユベールの素行の悪さに手を焼いた母親は、彼を寄宿学校に追いやる。

これはすごかった。母親と息子が適切な関係を結ぶのは確かに難しくて、母子家庭なら尚更だろう。ユベールにとっては母親のがさつさが許せない。食べ方も、服装も、無責任な言動も。一方、母親にとっては息子がやることなすこと文句をつけてくることに苛立っている。両者とも無神経なところが共通していて、たとえば息子はレンタルビデオ店で45分も母親を車で待たせたりしている。また、母親に至っては息子を寄宿学校に放り込むのだからやりすぎだ。お互いに愛情はあるものの、肝心なところで相手を気遣ってない。むしろ、その愛情が――愛情がもたらす甘えが――捻じれに捻れて軋轢を生んでいる。

結局のところ、ユベールも母親も不器用なのだ。ユベールは息子の役割を上手く演じられないし、母親は母親の役割を上手く演じられない。もし父親がいれば2人の間の緩衝材になったはずだが、そこは母子家庭だからダイレクトに衝突してしまう。ユベールによると、「小さい頃は友達みたいな親子だった」そうで、そのままの意識で時が経つとこうなってしまうのだろう。親子関係は子供の成長に応じて更新し続ける必要があり、それが失敗すると取り返しのつかないことになる。

ユベールがウエディングドレス姿の母親を追いかける。母親は必死に逃げているため、その手を掴もうとしても掴めない。終盤でそういうイメージが挿入される。母親を女として見るあたり、『オイディプス王』【Amazon】的な倒錯を感じるけれど、ここで面白いのはユベールが同性愛者であるところだ。そこには性的な要素を排除した純粋な愛情が見て取れる。いずれにせよ、母親と息子は反発しながらも愛情は失っていない。従って、憎もうとしても憎みきれない。それがかえって2人の関係を複雑なものにしている。

母親が授業中の教室に乗り込んで「私は死人なの?」とユベールを罵ったシーンが可笑しかった。随分と大人気ない行動だけど、欧米人ならこういうことをするだろうと納得してしまう。恥も外聞もないというか。日常に潜む異質さこそ外国映画を観る醍醐味である。