海外文学読書録

書評と感想

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』(2013)

★★★★★

イボ人のイフェメルはナイジェリアからアメリカに渡って13年が経っていた。帰郷する予定の彼女はヘアサロンで髪を結ってもらい、その最中に過去の出来事が語られていく。ラゴスで共に過ごしたオビンゼとの恋だったり、奨学金を得てアメリカに渡って大学に入るも仕事探しに苦労したり、新たな恋人とオバマ大統領の誕生を祝ったり。彼女は人種問題を題材にしたブロガーとして有名になっていた。

「僕がアメリカの本を読むのは、アメリカが未来だからさ、母さん。あなたの夫はそこで教育を受けたんだろ」(p.79)

全米批評家協会賞受賞作。

これは素晴らしかった。アメリカ文学、あるいはアフリカ文学の枠組みに収まらない、広い意味での黒人文学の傑作といったところだろうか。本作を一言で要約するならば、「アメリカに渡って人種を発見し、帰ってきてラゴスを再発見する物語」であり、さらには人種問題という社会派要素とメロドラマという通俗性ががっちり噛み合っていて、分厚い本でありながらも、最後まで読ませる充実した内容になっている。教育を受けたナイジェリアのエリート層が母国でどのような生活を送り、アメリカやイギリスといった先進国でどのような苦労に直面するのか? 移民側の視点で描かれた本作は、各地で排外主義が横行する今こそ読まれるべきだと思う。

黒人にはアメリカ黒人と非アメリカ黒人(アメリカン・アフリカンとアフリカン・アメリカン)の2種類がいる、という指摘には目から鱗だった。前者はアメリカに住む奴隷を祖先に持つ黒人で、後者はアフリカから移民してきたエスニックな黒人。どちらもアメリカの最下層で謂れなき差別と苦労を強いられている。この小説は「髪の毛」が重要なモチーフになっていて、女性の場合、丹精に編み込んだ髪型が彼女たちのアイデンティティになっている。だから本作はヘアサロンの場面から始まっているのだけど、それにしても、黒人の髪型に詳しくないので具体的なイメージが著者近影の写真くらいしかなかった。ナイジェリアの黒人女性は皆、あんな素敵な髪型をしているのだろうか。ミシェル・オバマのストレートな髪型が黒人らしくない、という指摘には「へー」という感じだった。

V・S・ナイポール『暗い河』(1979)【Amazon】を巡るやりとりが印象に残っている。ある人物がこの小説を読んで、「現代アフリカのことが本当に理解できた」と述べるのだけど、それを聞いたイフェメルは鋭く反駁する。実は僕も『暗い河』を9年前に読んで感想を旧ブログに書いた。そして、アフリカを理解した気になっていた。あの小説には、第三世界の駄目っぷりとそこで暮らす個人の無力さが描かれていたのだ。『暗い河』は世間では名作とされているので、それに新たな光を当てたところは評価すべきだろう。

というわけで、世界を越境する黒人を描いた本作は、アメリカ文学としてもアフリカ文学としても新しいんじゃないかと思う。このまま行けば、著者は30年後くらいにノーベル文学賞を受賞しているだろう。これは推測でも願望でもなく予言である。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはノーベル文学賞を必ず獲る。

フランソワ・ラブレー『第三の書』(1546)

★★★

領主になったパニュルジュは財産を使い果たした後、結婚しようと思い立つ。しかし、彼はあちこちに相談に行くも、コキュ(寝取られ男)になることを心配して決心がつかない。ついには宮廷道化師の話を聞き、聖なる酒びんの信託を受けに航海の準備をする。

信じてほしいのは――あんたは、本当じゃないものは、信じないわけだからね――、俺さまのなにがだね、この聖なる直立男根だがね、つまりアルベンガ特産の、この一つ目入道さまがですね、世界最高のしろものっていうことだよ。(p.320)

『パンタグリュエル』の続編。

この巻は英雄譚だった前2作とは随分と毛色が違っていて、主にパニュルジュの結婚を巡ってひたすら議論が続いている。結婚の話題はだいたい紙幅の8割くらいだろうか。パニュルジュを相手に、登場人物が入れ代わり立ち代わりの長広舌を繰り広げている。パンタグリュエルはあまり活躍してなくて、この巻の主人公はパニュルジュと言っても過言ではない。とにかくみんな饒舌で、言葉の奔流に流されまくりだった。

コキュ(寝取られ男)については野崎歓『フランス文学と愛』【Amazon】で触れられていたけれども、実作で正面からテーマにしたものは今回初めて読んだかもしれない。我らがパニュルジュはとにかくコキュになることを恐れている。結婚はしたいが、コキュにはなりたくないというわけ。キリスト教の社会って不倫には厳しそうなイメージだけど、こんなに心配するということはNTRは一般的だったのだろうか。いずれにせよ、当時の結婚事情が垣間見えてなかなか興味深い。

前2作と方向性は違えど、ルネサンス的な雰囲気は健在で、例によって昔の故事やら書物やらが多数引き合いに出されている。古代ギリシアの哲学者、古代ローマの皇帝なんかはその好例。ここまですらすら古典を参照するのは、情報化社会の現代ならともかく、ようやく活版印刷といった当時だと調べるのも大変だったと思う。こと歴史に関しては、現代のインテリとさほど知識レベルは変わらないかもしれない。

下ネタも健在だった。合計10ページ以上にわたって「たまきん」を連呼するところは期待通りといった感じ。毎回思うのだけど、なぜ著者はこのシリーズに下ネタを入れようと決めたのだろう? その発想の源泉はいったい? ここまで幼児的下ネタに溢れた小説もなかなか珍しいと思うのだけど。ともあれ、下ネタに関しては作中で揶揄されていたクラウディウス・ガレノス『精子論』が気になった。

イサク・ディーネセン『アフリカの日々』(1937)

アフリカの日々 (河出文庫)

アフリカの日々 (河出文庫)

 

★★★★

アフリカ滞在の記録。1914年にデンマークから移住した著者は、以後17年にわたって広大な農園でコーヒー栽培をする。人々の営み、動物、自然。最後は経営が立ち行かなくなり、農園を売り払ってアフリカから去ることになる。

目のさめている状態で夢にいちばん近いのは、誰も知人のいない大都会ですごす夜か、またはアフリカの夜である。そこにはやはり無限の自由がある。そこではさまざまのことがおこりつづけ、周囲でいくつもの運命がつくられ、まわりじゅうが活動していながら、しかも自分とはなんのかかわりもない。(p.95)

池澤夏樹編集の文学全集【Amazon】で読んだ。引用もそこから。

最寄りの都市がナイロビなので、植民地時代のケニアが舞台ということになる。

何で男爵夫人ともあろうお方が、わざわざヨーロッパからアフリカなんていう不毛な土地に移住したのか謎なのだけど、北方の人間は南方に魅力を感じるみたいなことが書いてあったから、アフリカには西洋人を惹きつける何かがあるのだろう。実際、ここに描かれているアフリカはなかなか興味深く、著者のまなざしもやさしくて心地いい。近所に原生林が生えていて、野生のヒョウ・猿・ライオンなどが当たり前のように闊歩し、白人と黒人、キリスト教徒とイスラム教徒が平和に共存している。文明と野生の境界が曖昧で地続きになっている世界。現代よりも当時のほうが治安が良かったのではないかと思えるほどで、パクス・ブリタニカとはこういうことなのかと感心したのだった。今のアフリカでこんな生活を送っていたら間違いなく強盗に殺されている。

猟銃事故のエピソードが印象的だった。子供が誤って散弾銃を発射して複数の友達を死傷させるのだけど、それを巡る交渉が面白い。被害者の親族が、加害者の親族に対して家畜で賠償を要求するのである。羊が40頭で、仔牛が10頭で……とかそんな感じ。これが植民地政府の司法とは独立したルールで行われていて、アフリカの部族社会は昔ながらの伝統を維持しているんだなと感心した。

あとはキクユ族とかソマリ族とか色々部族がいるなかでマサイ族だけは別格だったり、ンゴマという踊りの大会がやけに弾けていたり、アフリカならではの情景が興味深かった。『けものフレンズ』【Amazon】でお馴染みのサーヴァル・キャットも登場するが、彼女は鶏を襲う害獣として紹介されて速攻で射殺されている。

というわけで、本作を読んでアフリカを疑似体験できたのが収穫だった。自分では住みたいとは思わないからこそ、こういう滞在記は貴重なんだと思う。

エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』(1952)

★★★

やし酒飲みの「わたし」は仲間と一緒に毎日大量のやし酒を飲んでいた。ところが、ある日やし酒造りが死んでやし酒が飲めなくなってしまう。ジュジュを身にまとった「わたし」は、死んだやし酒造りを探しに旅に出る。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。(p.419)

河出書房新社の世界文学全集【Amazon】で読んだ。引用もそこから。

アフリカ土着の伝統文学をこの世に蘇らせたような小説でなかなかインパクトがあった。ガルシア=マルケスに代表されるラテンアメリカ文学魔術的リアリズムとするなら、本作はさしずめ呪術的リアリズムといったところだろう。「わたし」は「この世のことはなんでもできる神々の<父>」を自称していて、実際ジュジュを使って鳥に変身したり、死神と超能力対決したりしている。ストーリーは複数の童話や民話を繋ぎ合わせたようなファンタスティックな感じで、一つのエピソードに固執せず、すぐに別のエピソードに移るという展開の速さが目立つ。その一方、原始的な物語と思わせながら、長さの単位がフィートやマイルで、お金の単位もポンドなのがギャップを誘う。そういえば、爆弾がどうのと言ったり、銃をぶっ放したりもしていた。野生と文明の混交。この辺の節操の無さが本作の魅力かもしれない。

突然、妻の親指から子供が生まれたと思ったら、そいつが剛力かつ食いしん坊で村に迷惑をかけ、あまつさえ村人たちを焼き殺そうとする。だから「わたし」は逆に子供を殺してしまうのだけど、このエピソードはいったい何なのだろうかと首を捻ることしきりだった。他にも、「恐怖」と「死」を金で売って冒険するところが印象に残る。「恐怖」だけ買い戻して、「死」は預けたままだから死ぬ心配はないとか、何てぶっ飛んだ論理だろう。さらに、飲み食いできないと分かるや友達が去っていくところなんか世界共通の現象で、ここに我々と同じ人間がいると少し感動してしまった。

本作はアフリカに文化人類学的な興味を持っている人にお勧め。個人的には、前半は文句なしに面白かったけれど、後半で失速したのが残念だった。

フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル』(1532)

★★★★

巨人王ガルガンチュアの息子パンタグリュエルは、長じてからパリへ留学する。そこで従者のパニュルジュが一騒動を起こした後、ディプソート人がアモロート人の国に侵入したとの知らせを受けてパリを出発する。パンタグリュエルは巨人ルーガルーと一騎打ちをし、これを打ち破るのだった。

おお、なんたる香りよ、なんたる発散物よ! 若い遊び女たちのヴェールに、うんちの臭いをつけるのに最高ではないか!(p.376)

物語の時系列としては『ガルガンチュア』の続編になるが、先に執筆・出版されたのは本作のほうである。

この巻はパニュルジュのトリックスターぶりが印象的だった。トルコ人に丸焼きにされそうになったエピソードは荒唐無稽で可笑しいし、イギリス人の大学者と身ぶり手ぶりで論戦するところはナンセンスの極みである(後者では卑猥なジェスチャーも混ざっていたような)。それと、パリの貴婦人に振られた腹いせにいたずらを仕掛けていたけれど、これは随分と理不尽じゃないかと思った。人妻に言い寄るほうが悪いと思うのは僕だけだろうか? それとも、当時のフランスも現代日本と同じく「不倫は文化」だったのだろうか? ともあれ、本作と『ガルガンチュア』の一番の違いは、パニュルジュがいるかいないかの違いであり、彼は当代の文学を代表するトリックスターとして僕の記憶に刻まれた。

多言語で話す人が出てくるエピソードも印象深い。彼はドイツ語、イタリア語、スコットランド語、バスク語オランダ語スペイン語ヘブライ語ギリシア語、ラテン語、そして架空の言語で話をするのだけど、そのすべてがちゃんとそれぞれの言語で書かれている。作者のラブレーはこれら複数の言語に通じていたのだろうか? Google翻訳のない当時にあって、これだけの言語を駆使して会話文を作るのはおそらく容易ではなく、その無駄に手間のかかった所業に何とも言えない感慨をおぼえた。さらに、訳注では架空の言語を解読したものが紹介されていて、あれをどうやって解読したのかとても気になる。

一番の見どころは、パンタグリュエルとルーガルーの大立ち回りだろう。それまで数章にわたってパニュルジュが活躍していたので、ここで真打ち登場といった感じである。パンタグリュエルはなかなかのアクションを見せていて、素早さのパンタグリュエルVS怪力のルーガルーといった対称の妙味が味わえる。それと、小便で大洪水を起こして敵を溺死させるのも健在だった。この独特の世界観はなかなか癖になる。