海外文学読書録

書評と感想

閻連科『愉楽』(2004)

★★★★★

住人の大半が身体障害者の受活村。そこを管轄する双槐県では、観光客を呼び込むためにロシアからレーニンの遺体を購入し、魂魄山に安置する計画を立てた。県長は受活村の障害者たちの特殊能力に目を付け、数十名からなる絶技団を結成。全国公演をしてレーニンの遺体を買うための資金を得ようとする。

茅枝婆はさらにあの十三歳の小児麻痺の子供の家に向かった。
「息子はまだ十三になったばっかりじゃろうが」
そこの両親は言った。「もう二、三年したら、こいつの足は瓶の中には入らんようになってしまう。もう子供じゃのうなる。外へ出して世間を見てもらいたいんじゃ」
「子供の片輪を見世物にしてどうするんじゃ」
「これを見せんで、何を見せろというんじゃ」(p.122)

『異形の愛』や『ロートレック荘事件』【Amazon】に並ぶ片輪文学の金字塔である。まず観光客を呼ぶためにロシアからレーニンの遺体を買おうという着想も面白いのだけど、その資金稼ぎに障害者の人間離れした絶技を見世物にするという展開が面白すぎる。受活村の人口は167人。めくらが35人、おしとつんぼが47人、びっこが33人、小人や片手といったその他の障害者が数十人いる。あるめくらは物がどこにどのように落ちたか聞き分けることができるし、あるつんぼは耳元で爆竹を鳴らしても平気の平左でいる。また、ある片足猿は杖を使って軽快に走り回るし、ある片目は捩った糸を5本の針の穴に一気に通すことができる。もちろん、小人たちのショーもあれば、60代の老人を120歳だと偽って見世物にしたりもする。そう、本作は「見世物」がキーワードなのだ。レーニンの遺体も受活村の障害者も、金を稼ぐための見世物として期待されている。この辺が改革開放政策で金儲けに奔走する世相を映しているようで、何とも皮肉なものだと思った。

しかし、本作はこのような狂騒だけを描いているわけではなく、受活村の人たちの受難を通して中国の負の歴史をなぞっている。というか、これがなかったら僕は本作を傑作だとは思わなかっただろう。もともと受活村は明の時代からどこにも所属せずにひっそり存在していたのだけど、共産党政権になってからは土地が国家のものとなって互助組や合作社に「入社」することになる。大躍進政策の時代には、人民公社を名乗る完全人(健常者)から食糧を略奪され、何人も死人を出した。そういう苦い経験から村の幹部は人民公社からの「退社」を希望するようになる。再びどこにも所属せず、静かに暮らしたいと望むようになる。もう誰からも踏みつけにされたくない。昔みたいに平和に暮らしたい。本作はこういったサイドストーリーが物語に奥行きを与えていて、弱者でいることの悲しみを浮き彫りにしている。

彼らの受難は過去だけではなく、それが現在にまで及ぶのだから理不尽だ。絶技団に駆り出された障害者たちも、ショーの大成功から一転、完全人(健常者)から酷い目に遭わされる。本作は障害者が徹底的に踏みにじられる様子を描いているけど、実はこの障害者は共産党政権に翻弄された民衆のアレゴリーで、強固な普遍性を持っている。弱者を収奪する社会構造の本質を、障害者に仮託して描いているわけだ。そして、こういうのは何も中国に特有の問題ではなく、たとえば日本にも同様のものが見られる。世間で不満が渦巻くと弱者がその捌け口にされるし、弱いものがさらに弱いものを叩くなんてことは日常茶飯事だから。我々の社会でも、歪みのしわ寄せがすべて弱者に向かっている。僕は本作を「対岸の火事」としてではなく、自分たちの日常に偏在する普遍的事実として読んだ。

ところで、習近平は歴史教科書から文化大革命を削除しようとしているようだけど、そうすると中国文学への影響も絶大なものになるのではなかろうか。現在のところ、中国では天安門事件がタブーなのに対し、文化大革命大躍進政策は批判的に扱っていいことになっている。それが禁止されるとなかなかきついことになりそうだ。今後どうなるのか注視していきたい。

イサベル・アジェンデ『日本人の恋びと』(2015)

★★★

モルドバ出身のイリーナが、バークリー郊外にある高齢者用レジデンス・ラークハウスに就職する。そこで裕福な入所者のアルマに気に入られ、彼女の助手をすることに。アルマは若い頃、第二次大戦直前のポーランドから脱出し、伯父である弁護士の家で暮らすことになった。そこでは日本人の庭師が働いており、いつしかアルマはその息子のイチメイと恋仲になる。

「思い出は死んでなんかはいないのよ、レニー。昔以上に生き生きしているわ。年をとるって、そういうものじゃない? 過去の物語が命を得て、わたしたちの肌にまとわりつくの。あと何年かでも、あなたと一緒にいられて、わたしはうれしいわ」(p.168)

『精霊たちの家』で発揮されたストーリーテリングは健在で、アメリカの移民の物語を軽やかな筆致で描き出していた。最初はわりとやさしい世界が提示されていて、貧しいイリーナは自分に恋したドン・ファン的な老人の遺産を受け取らない無欲さがあるし、また金持ちのアルマは、自分の孫がどこの馬の骨とも知れない移民女(イリーナ)と結ばれてもいいと思っている。僕がイリーナだったら絶対に遺産を受け取っているし、アルマだったら孫の結婚相手は同じ階級の人間を選んでいただろう。特に後者みたいに、社会階級・文化・宗教・経済的レベルを度外視して付き合うことに抵抗がないのは驚きだ。しかし、実はそこにアルマの若かりし頃の経験が反映していたことが判明する。アルマが恋した日系人のイチメイも、社会的にはそれくらい離れた存在だったことが明かされる。このように過去と現在を行き来しながら、その関係がリンクするところが面白い。

本作はそれぞれが暗い闇を抱えた移民の物語だ。イリーナにはある犯罪にまつわる消し難いトラウマがあるし、ユダヤ人のアルマには祖国に残した家族がナチスによって強制収容所に送られた過去がある。また、アルマの恋人イチメイも、戦時中はアメリカの国策によって日系人用の収容キャンプに送られていた。今でこそアメリカは移民によって活力を得ているけれど、過去には差別的な政策が堂々とまかり通っていたうえ、現在のトランプ政権でも移民排斥の風潮が渦巻いている。移民はそんなに邪魔なのだろうか? ただ、それでも本作で描かれた民間レベルでは、異なる民族間で友情や愛情が育まれているので、そういう理想主義的な部分はフィクションならではの救いになっている。

相思相愛のアルマとイチメイが結婚していれば万々歳だったのだろうけど、物事はそう上手くは行かない。そこには非常に人間臭い理由からの別れがあって、その苦味が本作に印象的なアクセントを加えている。前述したようなやさしい世界で終わらないところが絶妙だ。結局、アルマはナタニエルという兄貴代わりの幼馴染と結婚する。このナタニエルの自己犠牲がまた凄まじいのだけど、彼には彼なりの秘密があって、これもなかなか一筋縄ではいかないのだ。本作にはこういう小さなサプライズがいくつか仕掛けられていて、それが物語を効果的に演出している。

本作は老いと移民をテーマにした恋愛小説なので、それらに興味がある人は読んでみるといいかもしれない。

ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー六世』(1588-1591?)

★★★

第一部。ヘンリー六世が治めるイングランドは、シャルル皇太子が率いるフランスと戦争をしている。オルレアンでジャンヌ・ダルクイングランド軍を打ち負かした。イングランドではグロスター公爵とウィンチェスターの司教が対立している。第二部。ヘンリー六世がマーガレットと結婚する。王妃マーガレットとグロスター公爵夫人エリナーが対立。夫人は魔術を使った廉で流刑になり、その後グロスター公爵も大逆罪で逮捕される。第三部。反旗を翻したヨーク公リチャードがヘンリー六世と和解する。ところが、ヨーク公は王妃の軍に攻められて殺されるのだった。ヨーク公の跡を継いだエドワードが戦争に勝利し、イングランドの王位に就く。その後、フランスも巻き込んでヨーク派とランカスター派で争う。

ルーシー こうして内紛という禿げ鷹が

偉大な将軍たちのはらわたをついばんでいるのをいいことに、

眠りこけた怠慢が我らの領土を敗北に売り渡す、

そのご遺体がまだ冷たくなりきっていない我らの王、

永遠に記憶に残るヘンリー五世王が

征服なさった領土だというのに。同胞がいがみ合っているうちに、

いのちも、名誉も、領土も何もかも、たちまち消えていく。(p.136)

ちくま文庫は三部作を一冊にまとめているので、およそ600ページの分厚い本になっている。部によって人物の呼び名が変わっているので、各部の冒頭についている登場人物一覧の存在はありがたかった。こういうのは便利なので一般の文芸小説にもつけてほしい。ミステリ小説にはついているので不可能ではないだろう。

シェイクスピアの史劇を読んだのは今回が初めて。こんなに人がバタバタ死んでいくとは思わなかった。有名な四大悲劇でさえ大して人は死なない。本作は戦争や権力闘争を扱っているから、大量死するのも当然と言えば当然なのだろう。権力を握るのは旨味があってお得だけど、一方では殺されるリスクも高いという諸刃の剣。特にヘンリー六世の場合、先祖が他人から王位を奪う形で即位したから、王権をめぐる火種が燻っている。ランカスター家がヨーク家の王位継承者を殺害して王冠を頂いているから、ヨーク公はそれが不満で最終的には反乱を起こしている。僕は何よりも命が惜しいので、権力の中枢には近づきたくないと思った。そこそこの地位で植物のように平穏に暮らしたい。

最近『Fate/Apocrypha』【Amazon】を見たせいか、ジャンヌ・ダルクは凛々しい聖女というイメージがあった。ところが、本作だと悪霊を召喚する魔女として描かれている。これにはショックを受けた。火刑に処される際には、一時的に刑から逃れるために、誰々の子を身ごもっている*1と言い張って、しかもそれが複数人に及んでいるから、敵からヤリマン扱いされている。こんなジャンヌ・ダルクは見たくなかった……。ともあれ、シェイクスピアの時代はこういうイメージだったと分かって興味深かった。

ソーントン・ワイルダー『三月十五日 カエサルの最期』では、史実を短期間に圧縮して作品の密度を高めていたけれど、そういう改変はシェイクスピアの史劇でも行われている。昔から続くポピュラーな手法なのだということを理解した。なるほど、歴史文学というのは、史実を年表通りになぞる必要はないわけだ。面白くなるのだったら、好きに切ったり貼ったりしてもいい。このジャンルにはあまり詳しくないので勉強になった。

*1:妊娠中の女囚は、出産するまで刑が延期される。

ヤア・ジャシ『奇跡の大地』(2016)

★★★★

18世紀のイギリス領ゴールドコースト。ファンティ族の娘エフィアはその美貌から、新しい首長と結婚することになっていた。ところが、母親の思惑でケープコースト城のイギリス人総督の現地妻になる。エフィアは父親の死の間際に出生の秘密を知ることに。彼女には生き別れの妹エシがいた。しかし、アシャンティ族のエシは奴隷船に乗せられてしまう……。物語はエフィアの子孫とエシの子孫を交互に描いていく。

「白人の神は白人とそっくりだ。白人は自分だけが唯一の人間だと思ってて、同じように、白人の神も自分だけが唯一の神だと思ってる。でも、ニャメ神とかチュクウ神を差し置いて神でいられる唯一の理由は、わたしたちが神にしてやってるからなんだ。わたしたちは白人の神と闘わない。白人の神に疑問をぶつけさえしない。白人は白人の神の道を説き、わたしたちはそれを受け入れた。でも、わたしたちのためになると教えられたものが、本当にためになったことが一度でもあるかい? 連中がおまえをアフリカの魔術師呼ばわりする。それがどうした? 連中に魔術師の何がわかるってんだい?」(pp.161-162)

焦点となる人物は合わせて14人。エフィアとエシの子孫、200年以上にわたる歴史を連作短編集のような形式で描いている。その野心的な意図に感心すると同時に、その壮大な時間軸に感動さえしてしまった。こういうタイプの歴史小説ってありそうでなかったような気がする。読んでいて『百年の孤独』【Amazon】を連想したけれど、冷静に考えると全然違うような気がするし。アフリカで生きるエフィアの子孫と、アメリカで生きるエシの子孫。それぞれがそれぞれの場所で、それぞれの時代を生きている。イギリスから独立しようというゴールドコーストと、奴隷制支配下にあるアメリカ。そこから時は進んで自由を獲得していく。アフリカとアメリカは繋がっているという当たり前の事実を目の前に突きつけられて刺激的だった。教科書で学んだ歴史的事実としては知っていたのに、こうして物語として書き起こされてみると、何か別種の驚きがあるから不思議だ。フィクションの効用は、細部をでっちあげてテーマパークみたいに読者を疑似体験させることにあるのかもしれない。

キリスト教は「赦し」の文化。赦してくださいと祈りながら悪行を重ねる。赦しは事後的なものだから、その前にどんなに悪行を重ねても結果的には正当化される。最後にはどんな悪人でも天国に行けてしまう。これは随分とふざけた理屈である。自分たちの土地を植民地にされ、奴隷として売り飛ばされたアフリカ人からしたら、その罪業くらいはせめて背負ってくれと思うのではなかろうか。死んだら地獄へ落ちやがれ、みたいな。それが全部赦されてしまうのだから、キリスト教とは支配者にとって都合のいい宗教である。アフリカ人から見たキリスト教は手前勝手そのもので、こういう視点で宗教を捉えたのも個人的にはツボだった。

エフェイアとエシの末裔(どちらも7代目)が自由になった世界で偶然出会う。こういうのって現実で起きたら出来過ぎだけど、フィクションだと素直にいい話だなと思う。火と水のイメージを絡めつつ、子々孫々にわたって黒い石を受け継いでいく。この辺はちょっとベタな感じがしたけれども、一方でこういう象徴はそれなりに効果的なわけで、終わってみれば充実した読後感が残った。ゴールドコーストが終盤でガーナという呼び名になっていたのは感動的である。長いスパンで見れば、世界は確実に良くなっているのだ。

マリオ・バルガス=リョサ『つつましい英雄』(2013)

★★★★

(1) ピウラ。運送会社の経営者フェリシト・ヤナケの元に脅迫状が送られてくる。内容は、会社の安全のために月々500ドル払えというものだった。フェリシトは自分のポリシーを守るため、その要求を突っぱねる。彼はマフィアに屈しない英雄として新聞で有名になるも、愛人のマベルが誘拐されてしまうのだった。(2) リマ。保険会社の経営者イスマエル・カレーラは80代。妻は既に亡くなっており、双子の息子は揃ってろくでなしの悪党になっている。双子が自分の死を願っていると知ったイスマエルは、密かにメイドのアルミダと結婚、彼女を遺産の継承者にする。双子は結婚の無効を主張するのだった。

「心理士に頼るのは危険だと君に言っただろう」と、リゴベルトがルクレシアに思い出させた。「いったいいつ、君の言うとおりにしようと思ったのか、わからない。心理士は悪魔そのものよりもっと危険となりうるんだ、フロイトを読んだときから、わかっていたよ」(p.119)

バルガス=リョサの小説って『緑の家』【Amazon】は読みにくかったし、『世界終末戦争』【Amazon】はやたらと長かったしで苦手意識が強いのだけど、本作はまるでハリウッド映画のように娯楽性が高くて面白かった。奇数章と偶数章で2つの異なるプロットが交互に展開、そのどちらもサスペンフルで先が気になるという。奇数章のプロットは、警察がマフィアと思しき脅迫者を追いかけるミステリ小説的な楽しみがあるし、偶数章のプロットも、悪党の双子が非合法的な手段に訴えかけてくるうえ、サブプロットに悪魔騒ぎが盛り込まれていて読ませる。このようにエンタメ度の高いプロットのほか、地域性の強い細部や実験的な会話文の挿入など、非常に厚みのある内容になっていて、ただの娯楽小説では終わらないところが好ましい。この辺はさすが主流文学の書き手という感じがする。本作はバルガス=リョサノーベル文学賞受賞後初の長編だけど、ノーベル賞作家は受賞して名声を極めると、若い頃みたいな尖った小説は書かずに、こういう純粋に面白い小説を書く傾向にあると思う。正直、『緑の家』みたいな複雑怪奇な小説はもう読みたくないから、これはこれでありがたい。本作はハリウッドで映画化されてもおかしくないくらいの出来なので、娯楽性の高いプロットとペルーの土俗性を同時に味わいたい人にお勧めである。

読み終わってみると、親子の情というのが本作のテーマのような気がしてきた。フェリシトと息子のミゲルは実は血が繋がっておらず、終盤では親から子へ酷薄な宣告が言い渡される。日本だと家族は血の繋がりよりも心の繋がりが重要みたいな価値観があるけれど、この社会では血の繋がりがとても重要なのだ。とはいえ、フェリシトとミゲルについては、ある理由から心の繋がりさえないから救いようがないのだけど。さらに、イスマエルと双子の息子は血が繋がっているのに、親子の絆がまったくなく、あまつさえ反目し合っているのが何とも悲しい。本作は(1) と(2) 、どちらのプロットも親子関係が破綻しているところが共通していて、家族とは何なのだろうとちょっと虚しい気持ちになる。ただその一方、イスマエルに長年仕えてきたドン・リベリゴは、息子のフォンチートとしっかり絆を育んでおり、親子関係についてはこれだけが唯一の救いだった。

子育て中の親や、将来子供を生み育てようとしている人は、本作を読むとけっこう身につまされるかもしれない。