海外文学読書録

書評と感想

西川美和『蛇イチゴ』(2003/日)

蛇イチゴ

蛇イチゴ

  • 宮迫博之
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★★★★★

明智家では認知症の祖父(笑福亭松之助)を母・章子(大谷直子)が介護している。父・芳郎(平泉成)は会社から転職を勧められていた。長女・倫子(つみきみほ)は小学校の教師をしており、同僚の鎌田(手塚とおる)と交際している。そんななか、祖父が逝去する。葬儀には10年前に勘当された長男・周治(宮迫博之)が現れるのだった。周治は倫子の兄で昔から嘘つきの放蕩者だったが……。

「幸福な家族はどれも似通っているが、不幸な家族は不幸のあり方がそれぞれ異なっている」という有名な一節がある。ご存知『アンナ・カレーニナ』【Amazon】の書き出しだ。小津安二郎の描いた家族が幸福な家族だとすれば、本作が描いているのは不幸な家族である。ただし、不幸の要因は金銭問題といくぶんありきたりだ。父・芳郎は会社をクビになったうえに借金を重ねていたが、そのことを家族に隠していたのだ。葬儀の席に借金取りが押しかけ、衆目の知ることとなった。そこから急転直下、表面上は何とか取り繕っていた家族が揉めに揉めるのである。象徴的なのは鎌田が倫子と距離を置くようになるところで、鎌田は明智家に感じた安らぎが嘘だと知って失望する。2人は事実上の破局を迎えるのだった。芳郎のせいで章子も倫子も不幸のどん底に突き落とされている。一方、そんな状況どこ吹く風というのが長男の周治で、10年ぶりに帰ってきた彼は明智家に救いの手を差し伸べる。

本作の妙味は周治が何を考えているのか分からないところだ。口八丁で生きてきたせいか、とにかく胡散臭いのである。しかも、彼は明智家に来る前に香典泥棒をしている。どうやら常習犯らしい。後に倫子がそのことを知って不信を募らせるが、差し当たっては明智家にとって希望の光になっている。周治は一家の債務整理を手伝っており、破産しても財産を失わない方策を示している。両親はすっかり周治のことを信じていた。しかし、これがどうにも胡散臭い。何しろ彼は詐欺で食ってきた男だ。観客からすれば何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。それは倫子も同様だった。このまま周治のことを信用してすべてを任せていいのか。終盤で倫子はそれを試されることになる。

終盤に川が出てくる。向こう岸には周治がいて、こちら側には倫子がいる。周治は渡ってくるよう促すが、倫子はどうしても渡れない。言うまでもなくこの川は2人の心の溝を表している。倫子はその溝を越えることができなかった。彼女は堪えきれなくなってその場から逃げ出してしまう。兄を信用することができなかったのだ。実際、周治は観客の目から見ても捉えどころがない。信用していいのか分からないため、このシーンでは倫子の選択がベターのように思える。ところが、そう思わせておいてちょっと捻ったオチを持ってくるのだから食えない。家族関係の間合いをいくぶん文芸的な手法で表現している。

小津映画を見て安心するのは幸福な家族を描いているからで、そこには戦後復興期から高度経済成長期にかけての楽観的なムードが反映されている。小津映画に認知症の老人は出てこないし、家族の悩みもせいぜい娘の結婚問題くらいである。翻って日本のゼロ年代は停滞期だ。未来に希望はないし、みな今日を生きるのに精一杯である。だから本作のような映画が作られた。戦後と比べて日本の家族像も随分と変わった。現状を維持することも困難になった。本作を見てその現実を思い知らされる。

ジョセフ・コシンスキー『トップガン マーヴェリック』(2022/米)

★★★★

30年以上のキャリアを持つマーヴェリック(トム・クルーズ)は将官への昇進を拒み、現在は戦闘機のテストパイロットをしている。彼はトップガンの教官に任命されるのだった。海軍では3週間以内に非同盟国のウラン濃縮プラントを破壊する作戦が予定されており、マーヴェリックはそれに向けて生徒たちを訓練する。彼らの中にはグースの息子ルースター(マイルズ・テラー)がいた。ルースターはある事情からマーヴェリックのことを恨んでいる。

『トップガン』の続編。前作が1986年公開なので36年ぶりである。

やはり36年の間に蓄積された技術革新は大きく、前作よりも映像が圧倒的に良かった。特に空中戦において何が起こっているのか分かりやすくなっているところが目を引く。CGIやVFXによってあり得ないアングルでの撮影が可能になり、映像による説明能力が格段に向上しているのだ。デジタル処理された映像はそんなに不自然ではないし、細かいカット割りもまったく不愉快ではない。最先端のデジタル技術でアナログの壁をやすやすと乗り越えている。空中戦は前作よりもゴージャスになっていて好印象だった。

マーヴェリックは後進に道を譲る立場なのに、最前線で危険な作戦に従事しているのだから驚く。還暦になっても能天気な英雄譚を演じているのはトム・クルーズの人気ゆえだろう。トム・クルーズの見た目は確かに若い。実年齢より10歳ほど下に見える。白い歯が眩しいさわやかなイケオジだ。劇中で彼がビーチで半裸になってアメフトをするシーンがあるが、相変わらずマッチョな体を維持している。とても還暦の体とは思えない。そして、そういう若々しい見た目だからこそ、能天気な英雄譚を演じるのが許されている。年齢を考えたら体力も運動神経も衰えているはずだし、空中戦で若手エリートに勝つなんてことは到底不可能なはずだ。しかし、トム・クルーズなら不可能を可能にしてしまう。そういう説得力がある。年寄りがしゃしゃるなよと言いたくなる反面、彼ならギリギリ許せるかなと思う。

前作との大きな違いはミッションがあるところだろう。非同盟国のウラン濃縮プラントを破壊する。しかも、その難易度は高い。戦闘機のアクションもかなりアクロバティックだ。あんな勝手に領空侵犯したり他国の施設を破壊したりしていいのかと思うが(国際法に触れないのだろうか?)、そもそもアメリカは過去に違法なことを悪びれなくやってきた。相手国から見れば強大なならず者国家である。たとえるなら日本から見たロシアや中国なのだ。我々がアメリカのやっていることに違和感を覚えないのは、日本がアメリカの傘下にあるからである。日米同盟の絆は深い。そういう意味で「こちら側」の映画という感じだった。

印象に残っているシーンは、酒場でマーヴェリックが客に酒を奢らされるシーン。酒場には若い兵士が集まっていて無礼講である。海軍大佐のマーヴェリックでさえここではただのおじさんだった。彼は若い兵士たちから気軽に声をかけられている。酒場は一種のアジールで、階級や年齢による上下関係は一切ない。こういうところが自由の国だと感心した。

古賀豪『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023/日)

★★★★

昭和31年。日本の政財界のトップに君臨していた龍賀一族の当主が死去する。龍賀一族は製薬会社を経営しており、帝国血液銀行と取引があった。帝国血液銀行に勤める水木(木内秀信)が葬儀の行われる哭倉村に派遣される。そこで謎の男・ゲゲ郎(関俊彦)と出会う。

原作は水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』【Amazon】。

国家による搾取構造を戦争と絡めて表現しているところが良かった。太平洋戦争では国民の多くが国家のために犠牲になった。兵卒は上官から玉砕を命じられ、半ば死ぬことを目的とした無茶な作戦に従事させられた。そして、そのような搾取構造は戦後になっても続いている。戦後政財界のトップに上った連中は戦時中の権力者たちであり、彼らは国民の血税をチューチュー吸って肥え太っている。その構図を哭倉村で露骨に再現しているところが本作の肝だろう(血液に注目である)。黒幕の動機がまた狂っていて、彼が一族や村人、幽霊族などから搾取しているのは国家のためなのだ。自分のエゴと国家の利益が重なっている。少なくとも彼はそう自負している。戦争で猛威を振るった国家主義が戦後まで続いているという意味で本作はホラーだ。戦時も平時も関係なく国民は国家のために犠牲になることを強いられているのだから。終戦から70年経った現在、ロシアはウクライナに侵攻し、イスラエルはパレスチナを蹂躙している。東アジア情勢も中国や北朝鮮など油断できない状況だ。そういった外交的な危機がある一方、内政面では円安と重税で国民は苦しんでいる。経済成長が終わった後の日本は青息吐息の状態にあった。バブル崩壊、失われた30年、少子高齢化。誤った政策の代償を例によって国民が払わされている。国民の上に国家が存在する以上、このような搾取構造は未来永劫変わらない。戦後の人たちが夢見たバラ色の未来はとうとう来なかった。そのことを思うと悲しくなる。

横溝正史みたいな封建的な田舎と水木しげるが生み出した妖怪は相性がいいようで、迷信が迷信で終わらない幻想的な世界観に惹かれるものがあった。横溝正史は曲がりなりにも近代合理主義への信頼があるが、水木しげるはそれに懐疑的だ。そもそも太平洋戦争の原因が日本の近代化にあるのだから、それに疑問を抱くのも当然だろう。妖怪とは近代的な価値観では捉えられない超越的なものを表象している。そういう意味で批評的な存在だ。妖怪は近代合理主義を撹乱する。近代化がもたらした国家主義の歪みを炙り出す。搾取構造の淵源を探るツールとして極めて有効だった。

黒幕が日本の未来のためと謳うとき、念頭にあるのは経済競争に勝つことである。確かに日本は高度経済成長を遂げて世界有数の経済大国になった。2010年に中国に追い抜かれるまでは世界2位だったし、2023年にドイツに追い抜かれるまでは世界3位だった。しかし、今や日本経済は頭打ちである。伸びしろがなくなり、後は下がっていく一方だ。経済競争に勝つことを成功の指標とするのもそろそろ限界が来ている。我々は新たに違った価値観を見つけて幸せの尺度を変えなければならない。それが撤退戦に向けた生存戦略である。

トニー・スコット『トップガン』(1986/米)

トップガン (字幕版)

トップガン (字幕版)

  • トム・クルーズ
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★★★

F-14のパイロット・マーヴェリック(トム・クルーズ)は、腕は立つものの無謀な操縦で上官に目をつけられていた。彼はインド洋上で国籍不明のミグと空中戦になり、相手を見事退却させる。その腕を見込まれてエリートを育成するトップガンに派遣された。マーヴェリックは教官のチャーリー(ケリー・マクギリス)に一目惚れする。

金のかかったプログラムピクチャーみたいだった。戦闘機による空中戦はそれなりにゴージャスであるものの、物語は型にはまっていて陳腐である。とはいえ、今ほどPCに毒されていないところは面白い。メインキャストに有色人種はいないし、ヒロインは今どき珍しいブロンド美人である。当時はこれで許されたのだ。現代人からすると、ヒロインがトロフィーワイフであるところが目を引く。すなわち、彼女は主人公の男性性を証明するために用意された添え物に過ぎない。片方に男がいたらもう片方に女がいて、2人は恋に落ちる。ハリウッド映画はどんなジャンルでもヘテロセクシュアルの恋愛をねじ込まないと気が済まないのだ。本作では相棒の事故死による苦悩が描かれるが、しかしそれは主人公が一皮剥けるための通過儀礼に過ぎず、基本的には能天気な英雄譚である。捻りのない脚本でインスタントな快楽を提供する。経済性に特化しているところはまるでプログラムピクチャーのようだ。80年代がどういう時代だったのか、本作である程度察することができる。

空中戦は実機を使っているだけあってそれなりにゴージャスだが、カット割りが細か過ぎて何が起きているのかいまいち分からない。とはいえ、実際の戦闘も相当分かりづらいはずで、この分かりづらさがリアルと言えばリアルなのだろう。言うまでもなく戦闘機はものすごいスピードで飛ぶ。敵味方が入り乱れるとどういう状況なのか把握しづらい。本作はその緊張感を再現したかったのではないか。そもそも飛んでいる戦闘機をカメラに収めるのも大変だが、本作は戦闘機をほとんど画面の中央で捉えていて絵になっている。どうやって撮影したのか不思議でならない。捉えがたい対象を極めて自然に捉えている。本作のいいところは戦闘機を格好良く映したところだった。

当時はアフガニスタン紛争の真っ最中でソ連との関係は険悪だったはずなのに、劇中に具体的な国名を出さなかったのはすごい判断だった。もちろん、ミグはソ連製の戦闘機である。しかし、この機体を採用している国は多い。東側諸国のみならず、第三世界諸国でも使われている。我々はソ連を真っ先に連想するが、しかし、劇中ではそんなこと一切明言していないのだ。これは政治的な配慮なのだろうか。確かに具体的な国名を出すと余計な思惑がまとわりついてしまう。娯楽映画がプロパガンダ映画に堕してしまう。具体的な国名を出さなかったのはいい判断だった。

軍人たちがビーチバレーをするシーンがある。何人かが半裸になっていたが、トム・クルーズを含め俳優陣が軒並みマッチョで壮観だった。役に合わせてちゃんと体を鍛えているのだから偉い。みんな本物の軍人と遜色なくて感心した。

エメラルド・フェネル『Saltburn』(2023/英=米)

Saltburn

Saltburn

  • バリー・キオガン
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★★★

2006年。労働者階級のオリヴァー(バリー・コーガン)が奨学金を得てオックスフォード大学に入学する。ところが、彼は学内で浮いていた。そんなある日、オリヴァーは貴族階級の同級生フィリックス(ジェイコブ・エロルディ)と出会う。オリヴァーは夏休みにフィリックスの実家ソルトバーンに滞在するのだった。

パトリシア・ハイスミスの小説『太陽がいっぱい』【Amazon】みたいな映画だった。日本ではアラン・ドロン主演の映画版のほうが有名だろう。だが、監督はおそらく原作のほうを参考にしている。というのも、原作のほうが本作のモチーフである階級差、ホモセクシャル、同一化願望を露骨に出しているから。もちろん、サスペンスであるところも共通している。本作は舞台をマナーハウスに移したリメイクのようだった。

本作の面白いところはオリヴァーの真意がギリギリまで分からないところだ。最初は大学に馴染めない陰キャだと思っていたら、突然真顔でフィリックスの母親(ロザムンド・パイク)を美しいと褒め称えるのである。実は多重人格でこのとき人格が変わったのかと疑ったほどだ。その反面、執事のダンカン(ポール・リス)には舐められているし、フィリックスの従兄弟(アーチー・マデクウィ)にも軽んじられている。オリヴァーの人物像はどうにも掴みどころがない。ひ弱な労働者階級かと思いきや、たまに度し難い図々しさを発揮するのだから。極めつけは虚言癖が発覚するところで、両親に関する嘘がフィリックスにバレたシーンは決定的だった。オリヴァーは何のために嘘をついたのか。また、何のためにフィリックスとその家族に取り入ったのか。実はそこに至るまでにオリヴァーはある異常行動を取っており、ホモセクシャルな愛が原因であることを示唆している。ところが話はそう単純でもなく、屋敷に滞在する口実がなくなってからも強引に滞在しようとしていた。なぜオリヴァーはここまで図々しく振る舞うのか。彼の真意はギリギリまで明かされない。そこが不気味でサスペンスを醸成している。

途中までは面白かったものの、種明かしがあまりにくだらなくてげんなりした。動機については物語を転がす口実だから文句はないが、種明かしの方法が陳腐なのだ。すなわち、昏睡状態の患者に向けて真意を語りかけているのである。種明かし自体は観客への説明として必要だから仕方がないにしても、その方法はもっとスマートにしてほしかった。これでは安手のサスペンスドラマである。やはり探偵役がいないと説明が不自然になってしまうわけで、本格ミステリの形式は合理的だったのだと痛感した。

面白かったシーン。朝食の席でオリヴァーが半熟の目玉焼きを頼んだら、執事が生っぽい目玉焼きを持ってきた。こんなものとても食べられたものではない。オリヴァーはその目玉焼きを突っ返している。ここは執事の敵意が明確に表れたシーンだが、彼の仕草がいかにもイギリス人で面白い。また、フィリックスの従兄弟がオリヴァーにカラオケを歌わせるシーンがある。その歌詞がオリヴァーを揶揄するような代物で面白かった。やはり嫌味な行動をさせたらイギリス人の右に出るものはない。その悪意は京都人よりも露骨である。英国紳士にまつわるディテールが本作の見所だろう。これはこれで一つの文化なので尊重したい。