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明智家では認知症の祖父(笑福亭松之助)を母・章子(大谷直子)が介護している。父・芳郎(平泉成)は会社から転職を勧められていた。長女・倫子(つみきみほ)は小学校の教師をしており、同僚の鎌田(手塚とおる)と交際している。そんななか、祖父が逝去する。葬儀には10年前に勘当された長男・周治(宮迫博之)が現れるのだった。周治は倫子の兄で昔から嘘つきの放蕩者だったが……。
「幸福な家族はどれも似通っているが、不幸な家族は不幸のあり方がそれぞれ異なっている」という有名な一節がある。ご存知『アンナ・カレーニナ』【Amazon】の書き出しだ。小津安二郎の描いた家族が幸福な家族だとすれば、本作が描いているのは不幸な家族である。ただし、不幸の要因は金銭問題といくぶんありきたりだ。父・芳郎は会社をクビになったうえに借金を重ねていたが、そのことを家族に隠していたのだ。葬儀の席に借金取りが押しかけ、衆目の知ることとなった。そこから急転直下、表面上は何とか取り繕っていた家族が揉めに揉めるのである。象徴的なのは鎌田が倫子と距離を置くようになるところで、鎌田は明智家に感じた安らぎが嘘だと知って失望する。2人は事実上の破局を迎えるのだった。芳郎のせいで章子も倫子も不幸のどん底に突き落とされている。一方、そんな状況どこ吹く風というのが長男の周治で、10年ぶりに帰ってきた彼は明智家に救いの手を差し伸べる。
本作の妙味は周治が何を考えているのか分からないところだ。口八丁で生きてきたせいか、とにかく胡散臭いのである。しかも、彼は明智家に来る前に香典泥棒をしている。どうやら常習犯らしい。後に倫子がそのことを知って不信を募らせるが、差し当たっては明智家にとって希望の光になっている。周治は一家の債務整理を手伝っており、破産しても財産を失わない方策を示している。両親はすっかり周治のことを信じていた。しかし、これがどうにも胡散臭い。何しろ彼は詐欺で食ってきた男だ。観客からすれば何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。それは倫子も同様だった。このまま周治のことを信用してすべてを任せていいのか。終盤で倫子はそれを試されることになる。
終盤に川が出てくる。向こう岸には周治がいて、こちら側には倫子がいる。周治は渡ってくるよう促すが、倫子はどうしても渡れない。言うまでもなくこの川は2人の心の溝を表している。倫子はその溝を越えることができなかった。彼女は堪えきれなくなってその場から逃げ出してしまう。兄を信用することができなかったのだ。実際、周治は観客の目から見ても捉えどころがない。信用していいのか分からないため、このシーンでは倫子の選択がベターのように思える。ところが、そう思わせておいてちょっと捻ったオチを持ってくるのだから食えない。家族関係の間合いをいくぶん文芸的な手法で表現している。
小津映画を見て安心するのは幸福な家族を描いているからで、そこには戦後復興期から高度経済成長期にかけての楽観的なムードが反映されている。小津映画に認知症の老人は出てこないし、家族の悩みもせいぜい娘の結婚問題くらいである。翻って日本のゼロ年代は停滞期だ。未来に希望はないし、みな今日を生きるのに精一杯である。だから本作のような映画が作られた。戦後と比べて日本の家族像も随分と変わった。現状を維持することも困難になった。本作を見てその現実を思い知らされる。