海外文学読書録

書評と感想

竹中優介『希望と絶望』(2022/日)

希望と絶望

希望と絶望

  • 日向坂46
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★★★

日向坂46のドキュメンタリー。2019年12月に東京ドーム公演が発表されたが、新型コロナウイルス感染症の流行によって暗礁に乗り上げる。また、体調不良によってメンバーが活動休止する。色々あって2022年3月に東京ドーム公演を実現させる。

『3年目のデビュー』の続編。

映画というよりはテレビのドキュメンタリーみたいで萎えた。映像も編集もテレビっぽいのである。しかし、コロナ禍に翻弄されたアイドルグループの内情が知れたのは興味深い。思えば、当時は世間が自粛ムードだった。マスクをせずに外出しようものなら容赦なくバッシングされた。施設でクラスターが発生したらニュースになっていた時期である。当然、外食産業や遊興施設など客商売は軒並み干上がっていた。アイドルグループも無観客ライブを余儀なくされた。当時は自由を制限されて誰もがストレスを抱えていたのだ。そういう異常な時期を2時間の尺で記録したのは評価できる。本作はコロナ禍の歴史資料として後世の人たちに参照されることだろう。ドキュメンタリーとしての価値は高い。

メンバーは年齢のわりに意識が高く、ファンのためにパフォーマンスすることを自明のものとしている。門外漢としてはそこが不気味に見える。たかだか人間がキラキラした偶像を演じるなんて健全ではない。素直に集金のためと言ってくれたほうがこちらとしてもなんぼか楽になる。そもそも現代日本に瀰漫する推し活というのが僕は気に入らない。

推し活。本来だったら自分が頑張るべきなのに、その頑張りを「推し」に代行させて自分は応援する側に回っている。そして、「推し」が頑張っている姿を見て勝手に勇気を貰っている。客は「推し」から頑張りを搾取しているのだ(代わりに客は金を搾取されている)。要はキラキラ輝いている人を見て栄光浴しているのである。これって何かに似ていると思ったら「ニッポンスゴイ」系のテレビ番組だ。本当にすごいのはその文化を支えている上澄みの人たちなのに、そうでない一般人が彼らのお相伴に預かって自分もすごいと錯覚してしまう。大谷翔平を生んだニッポンスゴイ! だから自分もスゴイ! そういう精神が健全とはとても思えない。推し活産業とは弱者を対象とした依存ビジネスである。つまり、心の弱い人たちを「推し」に依存させて金銭を巻き上げる。構造としてはギャンブルや宗教に近い。なので推し活している連中を見ているとたまらなく嫌になる。

アイドルもステージ上ではキラキラ輝いているが、所詮は組織内の末端労働者に過ぎない。曲はスタッフが作るし、振り付けもスタッフが考える。誰がセンターになるかを決めるのもスタッフだ。アイドル本人が自主的に何かを決めることはほとんどない。スタッフに指示されたことをただ忠実にこなしている。スタッフが管理職だとすれば、アイドルは平社員なのだ。ステージ上ではキラキラ輝いているアイドルたち。いざ舞台裏を覗いてみると夢も希望もなかった。そういう意味で本作は絶望を記録した映画と言える。

小津安二郎『風の中の牝雞』(1948/日)

風の中の牝雞

★★★

東京の下町。雨宮時子(田中絹代)は幼い息子と2人で一軒家に間借りしている。夫・修一(佐野周二)はまだ戦争から帰ってこない。時子は着物をすべて売り払うほど困窮していた。ある日、息子が熱を出して入院する。時子は入院費用を工面するのため売春するのだった。その後、修一が復員してくる。

戦後の復興と夫婦の再建を重ねたドラマ。戦争も過ちなら売春も過ちであるが、全部忘れて乗り越えていこう、というのが物語の骨子だ。序盤からたびたび挿入されるのが円柱形の巨大建築物で、これは戦後の復興を象徴している*1。この建築物が夫婦のプロットに合流するところが本作の肝だろう。東京は空襲によって焼け野原になった。一方、夫婦は妻の売春によって信頼関係が壊れた。それでも前を向いてやり直すことができる。やはり小津安二郎の映画はメッセージ性が強い。娯楽映画のツボを押さえている。

現代人が見ると売春をスティグマのように扱っているところに違和感がある。しかし、当時はまだ性が解放されていなかった。欧米において性の革命が起きたのが1960年代である。当然、1940年代の日本はまだまだ保守的だった。売春はいかなる理由があっても罪なのである。面白いのは時子が階段から転げ落ちることで罪が精算されるところで、売春という罪に対してきっちり罰を与えている。現代人としては、そこまでしないと許されないのか、とドン引きした。

また、当時の女性は男性に上手く調教されていたようで、夫に突き飛ばされて階段から転げ落ちた時子が、それでもなお夫に取りすがって謝罪するのだから驚く。ここは普通、夫のほうが謝罪すべきではないか。たかだか夫婦の揉め事で暴力は許されない。むしろ、この暴力が罪の精算になっているところに歪みを感じる。確かに当時は今よりも男尊女卑の時代だった。今と違って女性に人権がなかった。しかし、そういう時代性を考慮したとしてもこの仕打ちは行き過ぎのように思える。小津の保守的な面が剥き出しになっていた。

本作を見て気づいたのは服装が象徴する階層性だ。ブルジョワが着物を着ているのに対し、庶民は洋服を着ている。なぜこういう差があるのかというと、着物は高価だからである。現に困窮した時子は着物をすべて売り払っている。当時の庶民は万事がこうだったはずで、この時代に着物を着ている女性は売らなくても生活が成り立っていたことを意味する。だからブルジョワの象徴になっているのだ。不覚にも本作を見るまで気づかなかった。戦後の日本でわざわざ着物を着ているのはどういうことか、と訝しんでいた。ところが、実はただの顕示的消費なのである*2。ブルジョワの俗物ぶりを目の当たりにして目眩がした。

本作を見ると現代の東京はごちゃごちゃし過ぎだと思う。当時は人も建物も少なく、今よりも殺風景でのどかだった。円柱形の巨大建築物の側には、2階建てのボロい木造住宅が点在している。住環境としてはこれくらいの密度が適切なのかもしれない。今一度東京を焼け野原にする必要があるのではないか。地方創生が叫ばれる昨今、東京への一極集中をどうにかしなければならない。

*1:2024年4月28日追記。『小津安二郎大全』【Amazon】によると、この巨大建築物はガスタンクらしい。

*2:ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』【Amazon】を参照のこと。

小津安二郎『長屋紳士録』(1947/日)

長屋紳士録

長屋紳士録

  • 飯田蝶子
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★★★

荒物屋を営むおたね(飯田蝶子)は未亡人。子供もなく一人で暮らしている。そんな彼女に戦災孤児と思しき少年・幸平(青木放屁)が押しつけられた。おたねは事あるごとに幸平に悪態をつき、彼を追い出そうとする。ところが、ある出来事を機に情が湧くのだった。

昔のサイレント映画にありがちな人情ものだが(チャップリンを彷彿とさせる)、ちょっと社会派に接近してる感じがある。終盤の説教臭いところが玉に瑕だろうか。小津安二郎は意外と分かりやすいメッセージを入れてくるから油断できない。年長者は年少者に気を配るべきだ、というのが小津の一貫した思想なのだろう。当時は老害なんて言葉はなかったはずだが、小津は確実に老害の存在を認知している。年長者のエゴに待ったをかけるところが彼の持ち味のようだ。

大人たちが孤児に冷淡なところがすごかった。みんな厄介者扱いである。特におたねは半端なくて幸平への当たりが強い。序盤は放り出そうと躍起になっている。身寄りのない子供を放り出したら野垂れ死にするのではないかと心配になるが、当の大人たちはそんなこと微塵も思ってない。一人で勝手に生きていくだろうと高を括っている。当時は終戦から2年しか経っておらず、食料も配給に頼っていた。大人たちは自分のことで精一杯で子供に情けをかけられなかったのだ。しかし、そうは言ってもおたねの当たりの強さは異常である。「子供嫌い」を自称しても余りあるほどの攻撃性が見て取れる。江戸っ子は義理人情に篤いと言うが、現代人のほうがよっぽど人情家だ。本作を見ていると子供に人権がなくてびっくりする。

カメラはローアングルで、場面転換の際は風景のショットで繋いでいる(余計な視覚効果を用いてない)。この手法は既に確立していたようだ。また、本作は戦後を生きる庶民を題材にしている。後にブルジョワ趣味に走るところはルキノ・ヴィスコンティっぽい。ヴィスコンティは己のルーツに立ち返ったと考えられるが、小津の場合はどういう心境の変化があったのか気になるところだ。

後に老け役として活躍する笠智衆が年相応のおじさんを演じている。最初見たときは誰だか分からなかった。声を聞いてようやく笠と判別できたほどである。彼は訛りがあるので分かりやすい。笠は本作で見事な歌唱を披露していた。不器用そうに見えてなかなか芸達者なのがこの人である。ともあれ、本作における笠の風貌はショッキングだった。

登場人物の口跡が落語を彷彿とさせる。江戸っ子だからそうなっているのだろうか。主演の飯田蝶子はサイレントからトーキーに移る際、演技の参考にするため落語を研究したという。確かに飯田の口跡も落語だ。現代の俳優とは明らかに違う。古典映画を見るとはこういうことかと感動した。

印象に残っているシーンは、おたねが浜辺に幸平を置き去りにしたシーン。幸平の注意を海に向けて自身はすたこら逃げている。ところが、すぐに気づかれて追いつかれるのだった。このシーンは動きがコミカルでサイレント喜劇を連想させる。小津のルーツを垣間見たような気がした。

齋藤武市『口笛が流れる港町』(1960/日)

★★

宮崎。流しのギター弾き・滝伸次(小林旭)が殺し屋の太刀岡(宍戸錠)と出会う。当地では鉱山主の相良(木浦佑三)がやくざの的場(山内明)から鉱山の権利証を狙われていた。そんななか、相良の妹・杏子(浅丘ルリ子)が海外留学から帰ってくる。的場は杏子に惚れていたが杏子にその気はなかった。やがて的場が相良への締めつけを厳しくする。

渡り鳥シリーズ第2弾。

やはりこのシリーズの小林旭は宍戸錠に食われてるような気がする。2人はライバルであり後にバディにもなるが、小林のほうが宍戸より格上というのが納得いかない。小林は博打や暴力で2度も宍戸に勝利するのだ。それまで斜に構えていた宍戸が敗北を認めて下手に出るところは違和感がある。宍戸のニヒルで底が知れないキャラクターのほうが魅力的で、彼に比べると小林はあまりキャラが立ってない。見ているほうとしては気取りに気取った宍戸の方に肩入れしてしまう。

例によってヒロインは浅丘ルリ子だが、浅丘が小林に惚れる流れが理解できない。好きになるまでのプロセスが省略されているのだ。てっきり小高雄二と恋仲になると思っていたので、小林に惚れていると分かったときは意外だった。小高も小林に負けないイケメンだし、何より小林が登場する前から浅丘に惚れていた。これでは今流行りのBSS(僕が先に好きだったのに)である。本作は小林と宍戸に焦点が当たっているため浅丘の影は薄い。ヒロインの存在は不可欠だから無理やり浅丘を出した感じがある。最後に小林が当地を立ち去ったのが救いだった。

小林と宍戸がキャバレーでやっていた博打はおそらくヤッツィーだろう。最初にチップを賭け、5つのサイコロをダイスカップで振って役を作る。役の大きさで勝ち負けを決めて勝者がチップを総取りする。1954年にカナダ人が考案し、1956年に商品化されたようだ。それが1960年の日本で行われている。当時としては最先端の遊びだったのだろう。こういうモダンな光景を入れてくるところがいかにも日活らしかった。

冒頭のシーンはもはやテンプレの域だが、それでも掴みは上々だった。荒野の山道で馬に乗る小林。通りの岩場で座り込んでいる宍戸。2人は和やかに言葉を交わした後、拳銃を撃ち合って剣呑な挨拶をする。まるで犬のじゃれ合いだ。このように男性性を競って互いの腕を認め合うところが男の映画という感じで好ましかった。このシーンを見たらヒロインはいらないと思う。浅丘の影が薄くなったのも必然だった。

小林がギターで弾き語りをして場をもたせるところはいかにもアイドル映画だった。当時はスター俳優が劇中で歌を披露し、それをレコード会社が円盤にして大衆に売っていたのだ。こういうのを見たら最近のジャニタレドラマ(SMILE-UP.ドラマ?)も迂闊に否定できない。やっていることは当時とほとんど変わらないのだから。すなわち、最初に俳優ありきの人気者企画である。ジャニタレドラマも半世紀後にはレトロ枠として好事家に愛でられていることだろう。時代は変われど芸能界のシステムはそうそう変わらないようだ。

ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014/米=独)

★★★

中欧の国ズブロフカ共和国。1932年、移民の少年ゼロ(トニー・レヴォロリ)がグランド・ブダペスト・ホテルのボーイとして働く。彼はコンシェルジュのグスタヴ(レイフ・ファインズ)の従者になるのだった。グスタヴには懇意にしていた老女マダム・D(ティルダ・スウィントン)がいたが、彼女は突然亡くってしまう。遺産として高価な絵画を受け取る予定だったが、遺族はそれが気に入らない。グスタヴは殺人の濡れ衣を着せられてしまう。

おもちゃ箱みたいな世界観は魅力的だったが、終わってみれば小洒落た小品といった感じ。良くも悪くも現代の映画で、個人的に現代の映画は映像が肌に合わないのだった。デジタル技術によって構成された映像美はまやかしの映像美で、そこには常に嘘臭さが付きまとう。本作は敢えてその嘘臭さを強調しているのである。なぜそうしているのかというと、グランド・ブダペスト・ホテルが在りし日の幻として設定されているからだ。ゼロの物語は遠い過去の出来事である。かつて栄華を誇ったグランド・ブダペスト・ホテルも今や見る影もない。そういった追憶の意識が映像の嘘臭さに繋がっている。この辺は好き好きだろうが、僕は好きではない。現代の映画に映像美を求めることほど愚かなことはないと痛感した。

物語はどこかで見たようなファンタスティックなおとぎ話で、アメリカのトールテールっぽい雰囲気がある。見ていて21世紀のアメリカ文学を連想したほどだ。具体的に何かに似ているわけではないが、作品を貫くマインドがそれっぽい。映画にしてはかなり饒舌である。モノローグもセリフも映像も過剰さで満ち溢れているのだ。このような過剰な語りが本作の魅力になっていることは間違いない。監督は本当は小説を書きたかったのではないか、と疑うほど饒舌である。そして、その語りは悲劇を喜劇に作り変える。物語はファシスト政権が台頭して人死が出て殺人の濡れ衣を着せられるというものだが、総じてあまり緊迫感がない。終始軽やかに進んでいく。だからこそ最後の転調にほろりとくるわけだが、それも含めてデジタル技術による手工業的な小品に収まっている。目の前にあるのは徹底的に作り込まれたテーマパーク。そこが物足りないと言えば物足りない。

作中に出てくるファシスト政権はおそらくナチス・ドイツがモデルだが、本作は1930年代のおいしい部分だけ頂いたような感じである。戦争への足音が聞こえてくる時代。グランド・ブダペスト・ホテルがある中欧もきな臭くなってきた。過去の追憶を描くにあたってその背景だけ欲しかったのだろう。アジア系の戦争難民はいてもユダヤ人はいない。従ってユダヤ人への迫害も存在しない。そうやって歴史の都合のいいところだけ切り取ったのは賛否両論ありそうだが、特に問題視されてないのでこれはこれでありなのだろう。あくまで架空の国、架空のヨーロッパである。こういうところが言い訳じみていていくぶんもやもやするものがあった。

本作はディズニー映画がCGでやったことを実写でやったような映画である。おもちゃ箱みたいな世界観は確かに魅力的だった。