海外文学読書録

書評と感想

鈴木清順『野獣の青春』(1963/日)

★★★

流れ者のジョー(宍戸錠)がすったもんだの挙げ句、暴力団の野本興業に就職する。ところが、ジョーは敵対する三光組にも自分を売り込むのだった。野本興業は野本幸夫(小林昭二)が、三光組は小野寺信介(信欣三)が率いている。折しも竹下刑事が愛人に殺され、家には未亡人の久美子(渡辺美佐子)が取り残されていた。ジョーは葬儀の場に向かい……。

原作は大藪春彦人狩り』【Amazon】。

随所にケレン味のある演出が見られるうえ、思ったよりも筋書きがよく練られている。けれども、アクションがいまいち地味で満足感はそこそこだった。序盤でごつい散弾銃が出てきたから派手なドンパチを期待したのである。意外にもジョーは血を流し傷を負うキャラクターで、劇中では『血の収穫』【Amazon*1のオプみたいなことをしている。すなわち、2つの暴力団を対立させて同士討ちさせようという役回りだ。その過程で綱渡り的なことしていて、自らもけっこうな暴力に晒されている。ところが、その鬱憤を晴らすようなドンパチには参加せず、自慢の散弾銃も結局は使わなかったのだった。序盤で見せびらかしたのは何だったのか……。この辺はやや肩透かしを食ったかもしれない。

演出面で印象的だったのは序盤に出てきたクラブのシーン。表の騒音と裏の無音を視点の切り替えによって使い分けていて、視覚と聴覚でもって対称性の妙を味わった。表はクラブだからガヤガヤしている。裏はそれを監視する防音室だから無音になっている。そういう二重構造的な仕組みである。また、粗相をしたジョーがボーイたちに連れ去られていくとき、部屋が暗くなってストリッパーが踊りだすのも粋だった。カラー映像の上手い使い方だと思う。他にも、暴力団の事務所が映画館のスクリーンの裏側だったり、屋外で激しく黄砂が舞っていたり、何とも形容し難いヴィジュアルが目を引く。この監督はどういう発想で映像を作っているのだろう、と不思議に思った。

三光組のボスがダイナマイトを積んだ車で野本興業の事務所に特攻するシーンはあまりに滅茶苦茶で笑ってしまった。それと、ラストで母親パンパンネタを再帰的に使うところも意外性があっていい。思えば、その前で明かされた殺人の真相もなかなかのサプライズで、ちゃんとミステリをしていることに驚いた。原作が大藪春彦だからてっきり脳筋ハードボイルドだと思い込んでいたのだ。そこはいい意味で予想を裏切られた。

鈴木清順の演出は本作から花開いたとされている。以降の作品も追っていきたい。

*1:個人的には『赤い収穫』【Amazon】というタイトルのほうがしっくりくる。若い頃にこちらを読んだので。

エミール・クストリッツァ『アンダーグラウンド』(1995/仏=独=ハンガリー=ユーゴスラビア=ブルガリア)

アンダーグラウンド (字幕版)

アンダーグラウンド (字幕版)

  • ミキ・マノイロヴィッチ
Amazon

★★★★

1941年4月。ベオグラードがナチスによって爆撃される。パルチザンのマルコ(ミキ・マノイロヴィッチ)は、電気工のクロ(ラザル・リストフスキー)らと地下室に避難するのだった。マルコは仲間たちに武器の密造をさせる。マルコとクロは女優のナタリア(ミリャナ・ヤコヴィッチ)をナチス将校から救うも、色々あってクロが負傷してしまう。クロは地下室で療養することに。やがて戦争が終結。マルコは地下室の住人に「まだ戦争は続いている」と嘘をつき、彼らを幽閉したまま武器を作らせる。

20世紀文学を映画でやったような感じ。パルチザンのマルコは人を食った風の香具師であり、物語はマジックリアリズムを彷彿とさせる突拍子もない展開を見せる。さらに、半世紀に及ぶ壮大なスケールで国家や個人を捉えていて、大きな物語と小さな物語を接続させている。喜劇的かつ狂騒的な雰囲気も20世紀文学の王道だ。こういう作品っておそらく『ブリキの太鼓』【Amazon】を先祖としているのだろう。『ブリキの太鼓』は1959年の小説である。まさか原作なしの映画で典型的な20世紀文学を見ることになるとは思わなかった。

マルコとクロは親友であるものの油断ならない関係で、ナタリアを巡ってはいつ何が起こるか分からない緊張状態にある。男同士の友情も女が絡むと簡単に崩壊してしまう、そういう危険性を孕んでいるのだ。実際、マルコはクロを含めた仲間たちを自らのエゴで15年も地下に幽閉している。その間、自分はナタリアと結婚し、さらにチトー政権では英雄扱いされていた。幽閉された連中は何をやっているのかというと、ナチスとの戦争が続いていると信じてひたすら武器を製造している。傍から見ると酷い状況だが、マルコは上手く連中を騙していた。地下では何も知らない住人たちが派手にどんちゃん騒ぎをしている。地上と地下を行き来するのはマルコとナタリアのみ。マルコは何食わぬ顔で地下から富と栄光を吸い上げている。本作はこういった欺瞞が喜劇的色彩で描かれていて、いかにも20世紀文学っぽい様相を呈している。

物語は三章構成になっていて、第一章は第二次世界大戦、第二章は冷戦(チトー政権期)、第三章はユーゴスラビア内戦を背景にしている。こうやって巨視的な視点で見ると、皮肉にも第二次世界大戦での結果が現代において逆転しているのが分かって興味深い。敗戦国だったドイツは復興を遂げて経済大国になっているのに、戦勝国だったユーゴスラビアは内戦によって国家が消滅している。東西に分裂していたドイツは統合を果たしているのに、ユーゴスラビアは複数の国家に分かれてしまった。ドイツとユーゴスラビアの対称的な歩みはまさに歴史の皮肉である。負け組が勝ち組へ。そして、勝ち組が負け組へ。国家も個人も何が起こるか分からない。

ラストがなかなか振るっていて、あの幻影はボタンのかけ違いさえなければみんなハッピーになったことを示唆しているのだろう。そのかけ違いを起こした原因は戦争であり、そこに個人の欲望が上手い具合にはまってしまった。社会的な過ちと個人的な過ちが重なって取り返しのつかない悲劇を引き起こしている。本作はあり得なかった結末をやけくそ気味な狂騒で締めくくるところが最高で、これぞ20世紀文学だと思う。

鈴木清順『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』(1963/日)

★★★

深夜の立川基地近辺。暴力団の武器取引の現場を謎の組織が急襲した。ところが、そのメンバーの一人が逃げ遅れて逮捕されてしまう。ニュースを知った私立探偵・田島(宍戸錠)は警察署に行き、警部(金子信雄)におとり捜査の申し出をする。田島は謎の組織に入り込むも、そこのボス・畑野(信欣三)と騙し合いを演じることに。その後、田島は畑野の愛人・千秋(笹森礼子)に目をつけて……。

原作は大藪春彦探偵事務所23』【Amazon】。

主演の宍戸錠は後のハードボイルド映画に比べると洒脱で、この頃の演技のほうが魅力的だ。あと、ヒロインは笹森礼子なのだが、正直、踊り子を演じた星ナオミのほうが美人で輝いていた。役柄のせいとはいえ、笹森礼子は何か暗い。

田島と畑野の騙し合いを軸にしたストーリーで、面白さとしては可もなく不可もなしだった。けれども、そこへいくつも見せ場を挿入してくるところはさすが娯楽映画である。本作を観ると、映画においてストーリーとは見せ場を作るための導線に過ぎないことが分かる。こういう職人芸は嫌いではない。

サリーのステージに田島が上がって一緒にミュージカルをやるシーンがいい。サリーが客席にいた田島を歌で糾弾するのに対し、田島は正体をバラされたくないから自分もステージに上がって歌で誤魔化す。その際、一緒にダンスもするのだが、これがまたイケオジらしからぬチャーミングぶりで思わず頬が緩んだ。おっさんが可愛く見えるのは貴重で、このシーンはガンアクションよりもよっぽどいい。本作で一番の見せ場だと思う。

数でゴリ押しするところも本作の魅力だ。たとえば序盤、警察署の前にやくざが50人くらい詰め寄っているところが可笑しかった。これってたぶん当時ですらあり得ない状況だろう。でも、そういうあり得ない状況だからこそ見ていて可笑しいわけで、画面に映された非日常が一種の「祭り」のような錯覚を引き起こす。しかも、この状況をテレビが生中継しているのだからお祭り感も半端ない。非日常こそが最大の娯楽であることを示している。

畑野の組織は暴力団の上前を撥ねているだけだから、当初は取り締まる必要もないだろうと思った。要は、悪を持って悪を制すである。ところが、よく考えるとこの組織も暴力団から奪い取った武器をどこかに横流ししている。カタギから見れば暴力団と大差ないわけだ。それが証拠に田島が内部に入り込んでみたら、ボスや構成員がもろに半社っぽいのである。田島と畑野が騙し合いを繰り広げつつ、最終的には悪と悪の大規模な同士討ちにまで持っていく。一連の流れは爽快で、やくざが死ぬことほどすかっとするものはないと実感した。

この時代の炎はCGじゃないので炎上シーンは緊張感がある。「火の取扱いにはご用心」と心の中で呟いてしまう。

エドマンド・グールディング『グランド・ホテル』(1932/米)

★★★★

ベルリンのグランド・ホテルは一流ホテルとして名高かった。落ち目のダンサー・グルシンスカヤ(グレタ・ガルボ)、経営危機にある会社社長プライシング(ウォーレス・ビアリー)、彼に雇われた秘書フレムヘン(ジョーン・クロフォード)、借金を返すべく泥棒をしているガイゲルン男爵(ジョン・バリモア)、プライシングの会社の経理係にして余命幾ばくもないクリンゲライン(ライオネル・バリモア)。5人の客が様々な形で交わっていく。

原作はヴィッキイ・バウムの同名小説。

同一の場所を舞台にした群像劇である。この時代にしてはプロットがよく出来ているうえ、俳優もそれぞれ違った調子の演技をしていてキャラが立っていた。グレタ・ガルボジョーン・クロフォードを同一のフレームに入れなかったのは大人の事情らしいけれど、結果的にはこれがプロットの妙味を強調していたと思う。直接顔を合わせていないからこそ、片方からもう片方への影響が一本の線としてくっきり映るのだ。また、恰幅のいいウォーレス・ビアリーと貧相なライオネル・バリモアの対称関係も絶妙で、2人が諍いを起こす場面はヴィジュアル的にインパクトがある。そして、唯一全員と関わっているのがジョン・バリモアで、彼がこのドラマのキーパーソンになっている。何度か窃盗に及ぶもいまいち悪に振り切れない、そんな心優しき泥棒を好演していた。

冒頭で「グランド・ホテル。多くの人々がここを訪れ、何事もなく去っていく」と紹介されるのだけど、ちゃっかり殺人事件が起きているのには笑ってしまう。一旦は混乱するものの、ホテルを出ていくときにはみんな何事もなかったように去っていく。この終わり方がとても良くて、それまでの悲しみを見事に吹き飛ばしていた。浮き浮きしてホテルを出たグルシンスカヤはこの後真実を知って悲嘆に暮れるのだろうけど、この時点では浮き浮きしているので見ているほうも「新たな旅立ち」という印象を受ける。また、事件を経て仲良く旅立っていくカップルは完璧にハッピーで後味がいい。「グランド・ホテル。多くの人々がここを訪れ、何事もなく去っていく」。終わってみれば確かにそんな感じの映画だった。

医者に余命を宣告されたクリンゲラインが、「死を知って初めて人生が分かるのです」と言って大胆な振る舞いをする。死ぬ覚悟があるからこそ強面の雇用主に楯突くことができるし、捨て鉢のようなギャンブルもできるのだ。人生の一回性を意識することは重要で、クリンゲラインの言動には生きることの本質が表れている。人生は一度しかないから他人に媚びてもしょうがない。金と時間は自分のやりたいことに使ったほうが有意義だ。そういう考え方もあるだろう。人生のグランドデザインを練るにはとにかく死を意識するしかない。僕もメメント・モリを念頭に置きながら生活したいと思う。

デヴィッド・リンチ『イレイザーヘッド』(1977/米)

★★★★

フィラデルフィアの工場地帯。印刷工のヘンリー(ジャック・ナンス)が、恋人メアリー(シャーロット・スチュアート)からの伝言を受ける。メアリーによると、彼女の両親がヘンリーを食事に招待したいという。早速訪問したヘンリーは、食事の席でメアリーの出産を告げられるのだった。ヘンリーはメアリーの両親から娘との結婚を迫られる。メアリーが産んだ赤ん坊はグロテスクな容貌をしており……。

いやー、これはすごい。幻想的な映像と不穏な雰囲気が充満していて見応えがあった。物語としては育児ノイローゼからの子殺しを骨子としているのだけど、それを表現する手段がぶっ飛んでいて何とも言えない映画に仕上がっている。

序盤の日常的なシークエンスからして既に重苦しい緊張感が漂っているのがいい。工場地帯のごちゃごちゃした風景、そして、環境音なのか現代音楽なのか判別がつかない奇妙なBGM。何かが起きそうな予感はぷんぷんするものの、何が起きるのかは予想もつかない。そういうサスペンスフルな宙吊り状態が画面を支配していて、これはただものではないと身構えさせる。

メアリーの家で出されたチキンが明らかにチキンじゃないのには笑った。ナイフで切ったら変な体液を流して四肢を動かしている。メアリーの父親がヘンリーにこれを切らせようとするなんて頭おかしい。また、メアリーの母親が「娘と肉体関係があったの?」とヘンリーに詰め寄りつつ、その勢いで首筋にキスをするのも狂っている。メアリーの両親は常人とは異なる行動原理を持っていて、その有り様はもはやホラーだ。まるでヘンリーの感じるプレッシャーをリアリズムとは別の位相で映し出したかのようである。

ホラー的な要素を一気に加速させたのがその後に出てくる赤ん坊だ。これがまたエイリアンかと思うほどの異形で、明らかに人間の子供ではない。異界からもたらされた何かである。思うに、『ベルセルク』【Amazon】でキャスカが産んだ子供は本作が元ネタなのだろう。赤ん坊については、ヘンリーがその肉体に巻かれた包帯を切って中身を晒すシーンがハイライトで、低予算なのによくこんな小道具を作ったものだと感心する。どうやって動かしているのか謎だった。

終盤ではヘンリーの首がもげて代わりに赤ん坊(エイリアン)の首が生えてくる。このシーンから察するに、あの赤ん坊は本当にヘンリーの子供だったのだろう。一連のぶっ飛んだ映像は、育児ノイローゼが生んだ幻影と言えなくもない。いずれにせよ、赤ん坊はヘンリーの似姿だったゆえに、ヘンリーはその存在を抹消せざるを得なかった。本作は子殺しという異常事態を軸にしたからこそ、暗く幻想的な表現手法がはまっている。