海外文学読書録

書評と感想

サマセット・モーム『アシェンデン―英国秘密情報部員の手記』(1928)

★★★★

連作短編集。「R大佐」、「家宅捜索」、「ミス・キング」、「毛無しのメキシコ人」、「黒髪の美人」、「ギリシア人」、「パリ行き」、「踊り子ジューリア・ラッツァーリ」、「スパイ・グスターフ」、「売国奴」、「舞台裏」、「大使閣下」、「丁か半か」、「シベリア鉄道」、「恋とロシア文学」、「ハリントン氏の洗濯物」の16編。

「きみがこの仕事にとりかかる前に、ぜひ心得ておいてもらいたいことが一つある。忘れないでおいてくれたまえ。もしきみが首尾よくやってくれても、きみは感謝の言葉ひとつもらえないし、また面倒な事態が起こっても、助けは望めない――と、それでよろしいかな?」

「願ったりです」

「それじゃ、ごきげんよう」(pp.11-12)

ちくま文庫Amazon】の河野一郎訳で読んだ。引用もそこから。

英国秘密情報部員のアシェンデンを主人公にした連作。第一次世界大戦期を舞台にしている。僕にとってスパイ小説といったら冷戦期というイメージなので、本作は時代設定からして新鮮だった。内容は手に汗握る冒険というよりは、情趣のある人間模様が読みどころだろう。たまに出てくる機知に富んだ洞察がスパイスになっている。

以下、各短編について。

「R大佐」。大戦が勃発、作家のアシェンデンがR大佐によってスパイにリクルートされる。「小説のネタになるから」と言われて危険な仕事を引き受けてしまうのは、やはり作家の業なのだろうか。それとも、事態の深刻さを分かってないとか? 冷戦期のスパイ小説を読む限り、スパイは敵に見つかったら悲惨な目に遭わされるからね。

「家宅捜索」。アシェンデンがジュネーブのホテルに戻ってくると、2人の警官が待ち受けていた。スイスは中立国であるがゆえに各国のスパイ活動が盛んで、スパイ、革命家、扇動者などが主要都市のホテルに巣食っているという。警察は彼らに対して断固たる態度をとるわけだ。そんな事情があるとは知らなかったので新鮮だった。

「ミス・キング」。エジプトのお姫様方の家庭教師をしている英国人のミス・キング。当初はアシェンデンに対して冷たい態度だったが、今際の際になって彼に伝えたいことがあるとして呼びつける。この話で面白いのは、オーストリア人のスパイだったり、エジプト独立を企む殿下だったり、そういうイギリスの敵たちとアシェンデンが平然と顔を合わせているところ。敵同士、中立地で社交をするのもスパイの仕事なわけだ。

「毛無しのメキシコ人」。アシェンデンが毛無しのメキシコ人とナポリへ行くことになる。目的は敵の持っている文書を手に入れるため。当時のイタリアは中立を保っていて、連合国側は味方にしたがっていたからゴタゴタは避けたい。と、そういう国際関係が制約になっているところが本作の醍醐味だろう。それにしても、毛無しのメキシコ人はキャラが立ちまくりだった。陽気で饒舌な男だけど、言動の端々から人殺しのプロであることが示唆されている。

「黒髪の美人」。毛無しのメキシコ人の昔語り。彼は黒髪の美人に一目惚れして彼女を口説く。当初はつれない態度だったものの、やがて相手の好意を勝ち取ることに。ところが、彼女は大統領のスパイだった。たとえ女であっても、敵と見たら匕首で喉を掻っ切るのがメキシコ人の流儀。ところで、本作は期せずして探偵小説論みたいな話があって面白かった。動機のない通り魔的殺人では事件の解決は困難だという。これは僕も常々思っていたことだった。

ギリシア人」。毛無しのメキシコ人によると、ターゲットのギリシア人は書類を身に着けていなかったという。アシェンデンは彼と一緒に部屋に入って荷物を調べる。余裕綽々のメキシコ人とビクビクしてるアシェンデンの対比がいい。そして、何より本作はオチが衝撃的だった。ラスト一文は「おいおい、マジかよ」って感じである。なかなかのブラックユーモア。

「パリ行き」。R大佐から連絡を受けてパリに来たアシェンデン。そこでインド人活動家の情報を聞き、彼と関わりのある女を護送することになる。このインド人活動家が元弁護士だったので、これはガンジーがモデルではないかと思ったけど、件の活動家は暴力革命を目指しているのでどうやら違うみたい。

「踊り子ジューリア・ラッツァーリ」。アシェンデンがラッツァーリにインド人活動家宛の手紙を書かせる。安全だからトノンに来てくれ、と。スパイ稼業の厳しさというか、冷酷さというか、そういう非情な部分が前面に出ていた短編だった。ラッツァーリからすれば恋人を殺す手紙になるのだけど、自分の身の安全もあるから書かなければならない。これはなかなかきつい状況だ。しかし、ラストにそれをひっくり返すようなセリフがあって、一筋縄ではいかない女だと苦笑いした。

「スパイ・グスターフ」。バーゼルを根城にする腕利きのスパイ・グスターフ。アシェンデンがR大佐の命令で彼の細君に会いに行く。報告書がすべてでっちあげっていうの実際にあってもおかしくなさそう。でも、すぐにバレるんじゃないかなあ。よく分からんけど。

売国奴」。ルツェルンにやってきたアシェンデン。彼はそこのホテルに逗留しているイギリス人ケイパーと接触する。ドイツ人の妻を持つケイパーは、ドイツ秘密情報機関のスパイをしていた。アシェンデンは彼をこちら側に寝返らせようとする。ケイパーはケイパーで腹に一物あって、最後は飛んで火に入る夏の虫だった。アシェンデンもケイパーもお互い正体を明かさず、こうやって物事は進んでいくんだなって感じ。夫に対して強い影響力を持つケイパー夫人がなかなかいいキャラをしている。

「舞台裏」。X市(ある重要な交戦国の首都)に派遣されたアシェンデンが、イギリス大使にアメリカ大使の不満を伝える。この短編はアメリカ人が戯画的に描かれていて、ヤンキーってのは昔からこういうイメージだったのかと妙に感心したのだった。イギリス大使が貴族、アメリカ大使が庶民というのも両国の違いを表している。

「大使閣下」。大使の後任が高級娼婦と結婚するということで、その地位を剥奪されることになった。大使がそれを庇うように昔の恋物語を語る。これはイイ話だった。結婚と恋愛は別ものというか、恋愛には地位も格式もなくて、ただ好きになった者同士が愛を育む。これが結婚になると、釣り合いがどうだとか、体裁がどうだとか、色々複雑な要素が絡んできてしまう。だから大衆の間で純愛もののドラマが流行るわけだ。ある種のファンタジーとして。そして、本作はオチも良かった。最後のセリフは気が利いている。

「丁か半か」。ヘルバルツスという男がオーストリアの軍需工場の爆破を計画していた。ただし、それを実行すると彼の同胞であるフランス系ポーランド人を多数殺傷することになる。大使とのやりとりから急に現実に引き戻されて、アシェンデンも嘆息する。タイトルはそういう意味だったのかという感じ。

シベリア鉄道」。アシェンデンがアメリカ人のハリントン氏とシベリア鉄道で旅をする。これは紙幅のほとんどがハリントン氏の素描に割かれていて、これぞザ・アメリカンという人物像を描き出していた。イギリス人とアメリカ人ってどうしてこんなに違ってしまったのだろう。

「恋とロシア文学」。アシェンデンとロシア女との恋。女はロシア文学に精通したインテリゲンツィアで、彼女に不釣り合いな夫がいた。そういえば、第一次世界大戦の途中まではまだ帝政ロシアだった。恋愛にはお互いに乗り越えられない「相違」というのがあって、本作ではそれが炒り卵に象徴されている。大食いはロシアの国民性らしいので、今度ロシア文学を読むとき心に留めておこう。

「ハリントン氏の洗濯物」。革命によってロシア政府が転覆したというのに、ハリントン氏は自分の洗濯物に執着している。そして、この悲劇的なラストはちょっと意外だった。

エミール・ゾラ『居酒屋』(1877)

★★★

跛の洗濯女ジェルヴェーズは、情夫である帽子屋ランチエとの間に2人の子供をもうけていた。ところが、彼女はランチエに捨てられてしまう。その後、ブリキ職人のクーポ-に口説かれて2人は結婚。ジェルヴェーズは懸命に働いて金を貯め、紆余曲折ありながらも洗濯屋を開業する。結婚から9年後、姿を消していたランチエが現れ、夫婦と共同生活を送ることになる。

「あたしはね、高望みする女じゃないの。それほど欲ばりじゃないの……。あたしの願いっていえば、地道に働くってこと、三度のパンを欠かさぬこと、寝るためのこざっぱりした住居を持つこと、つまり寝床が一つ、テーブルが一つ、椅子が二つ、それだけあればいいの、それ以上はいらない……。そうそう! それから子供たちを育てて、できればいい人間にしてやりたい……。もう一つ願いがあるわ。こんど世帯を持つことがあったら、打たれないこと。いやよ。打たれるって、あたし、嫌い……。これだけ、ほんとにこれだけなの……」(pp.74-75)

19世紀自然主義文学の代表作。噂に違わず情景描写が多くて読むのに骨が折れた。本作は芸術作品としてよりも、同時代の生活を活写した記録文学としての価値のほうが大きい。物の値段がいくらかというのがきっちり書いてあって、たとえば絹の小さな半外套は13フラン、毛織のドレスは10フランすると具体的に記されている。かと思えば、洗濯場や工場での労働の様子が詳しく描写されているし、ジェルヴェーズの誕生日にみんなで鵞鳥の焼肉を食べる場面では、料理に関する記述が目白押しになっている。全体的にディテールが克明に書き込まれているため、現代文学に比べると煩雑な読書を強いられるけど、しかしそれがかえって現代人に昔の風景を伝えていて、これはこれで貴重な作品と言えるだろう。第二帝政期のフランスを知るための必読文献という感じだ。個人的にこういう小説は趣味じゃないけれど、読んでいてそれなりに好奇心を刺激されたのは確かで、時間をあけて他の小説も読んでみたいと思った。

一人の人間が破滅していくところが19世紀の「リアル」なのだろう。女が稼ぐようになると男はたいてい駄目になる。この図式はいつの時代も変わらないのだと思った。夫のクーポ-は酒浸りになってろくに働かなくなるし、再会したランチエはジェルヴェーズに臆面もなくタカってくるし、周りの男がクズすぎて地獄である。ジェルヴェーズは今風に言えば「だめんずうぉーかー」というやつかもしれない。自分を捨てた情夫のランチエがダメ男なら、後に結婚したクーポ-もダメ男。ただ、クーポ-に関しては最初は誠実そうな男だったので、ジェルヴェーズが適切に躾けていれば零落することもなかっただろう。ジェルヴェーズが悲劇に見舞われたのって、大局的に見れば貧困が原因だけれども、一方でもし彼女が真面目な男と結婚していればこんな死に様を晒すこともなかったので、女にとって男選びは重要と言えそうだ。下層階級は働かないと生きていけないから、働き者であることは最低条件。そのうえで暴力的かどうかを見極める必要がある。この時代で生きていくのは難易度が高い。

「よう! もっとこっちへ来な。ちゃんとおとしまえはつけてやるぜ! いいかい、パリのあたしたちを小ばかにすると承知しないよ……。こんなズベ公なんか、どうなろうとあたしの知ったことか! もしこいつが殴りかかってきたのだったら、見事ペチコートをひん捲ってやったろうさ。いい見世物だったろうにねえ。いったいあたしがなにをしたってのさ、言えるものなら、言ってみな。さあ、淫売、いったいおまえになにをしたってんだい?」(p.46)

ある女が洗濯場でジェルヴェーズにパリ風の啖呵を切っていて、そういえばこの光景は『金瓶梅』でも見たと懐かしくなった。昔から女というのは洋の東西を問わず口が達者で、往来でこういう口喧嘩を頻繁にしていたのだろう。本作ではこの後取っ組み合いの喧嘩を始めていて、庶民を描いた作品は刺激的だと思った。

オクテイヴィア・E・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚』(1979)

★★★

1976年6月9日。26歳の誕生日を迎えた黒人女性のデイナは、引っ越したばかりの家から突然、河へワープする。そこで溺れていた白人の少年ルーファスを助け、また元の場所に戻る。デイナがワープした場所は奴隷制度下のアメリカ南部だった。さらに、ルーファスはデイナの高祖父であることが判明。以降、デイナはルーファスが死の恐怖を感じるたびに召喚される。

私は奴隷制に関する本を、小説やら、ノン・フィクションやら読みあさった。この問題にはわずかにしか関連していないものでも、家にあるものは全部読んだ。『風と共に去りぬ』まで、部分的にしろ読んだ。でもこの小説の、優しく情愛ゆたかな奴隷制度下の幸せな黒ん坊の図には我慢できなかった。(p.155)

20世紀のアメリカ人が南北戦争前のメリーランド州にタイムスリップし、そこで悲惨な生活を体験する。タイムスリップしたデイナは黒人だから、問答無用で黒ん坊と呼ばれ、基本的には奴隷のような扱いを受けるというわけ。社会全体が自分を敵視する状況は異常というほかなく、アメリカの奴隷制はなんて恐ろしいのだと思った。現代人からすれば、白人が黒人を支配する、その正当性がまったく分からないのだけど、それゆえに社会というものの不気味さが感じられる。社会が容認すれば何をやってもいい。黒人を家畜のように扱っても、ユダヤ人を強制収容所で虐殺しても。作中ではナチス南北戦争前の白人の類似性が示唆されていて、西洋の歴史が汚辱に塗れていることを再確認できる。本当にろくでもないよ、西洋人は。

デイナはルーファスを何度も助けたおかげで、彼から好意的に扱ってもらえるのだけど、しかしその好意は破壊的で、デイナに対してしばしば酷い仕打ちをする。ルーファスはデイナに側にいてほしい。そのためには嘘をついたり、過酷な労働を課したりすることも辞さない。好意的であるがゆえに自分のものにしたいと思っている。このルーファスの子供っぽさは、彼特有の性格というよりも、支配者であることに慣れすぎたのが原因であり、やはり人間にとって環境は重要なのだろう。他人を支配するのが当たり前の社会では、相手の気持ちを考えず、ただ支配することだけに心を砕く。結局のところ、我々の内面にある「倫理」や「道徳」は後からインストールされたものなのだ。思いやりなど本来的には備わっていないのである。教育がいかに重要であるかがよく分かる。

奴隷制度下のアメリカでは、教育のある黒人が嫌われている。その理由は、主人である白人自身に教育がないからであり、さらには奴隷に自由を吹き込むかもしれないから。奴隷は逃亡できないよう、文字を学ぶことが禁止されているのだ。彼らが本を読むなんて夢のまた夢である。現代でも読書をしない人がたくさんいるけれども、それって自由から最も遠ざかることではないか。たとえば、僕がなぜ読書をするのかと言えば、第一は好奇心を満たすため、第二は社会の奴隷にならないようにするためだ。社会が押し付けてくる「あるべき姿」から自由になるため、そのために書物を通して様々な価値観に触れている。社会というのは自発的な奴隷を作るために、とにかく大衆を洗脳したがるものだ。義務教育だったりテレビだったり、子供の頃から従順な家畜を育てようと躍起になっている。周りに左右されない自分だけの「軸」。それを身につけるには本を読むしかない。

追記。本書は長らく絶版だったが、2021年に河出書房新社によって復刊された。

 

マリー・ンディアイ『ロジー・カルプ』(2001)

★★★

妊娠中のロジー・カルプが、6歳の子供ティティーを連れてカリブ海に浮かぶグアドループにやってくる。彼女はフランス本土での生活に限界を感じ、事業で成功している兄ラザールを頼ることにしたのだった。空港で待っていると、見知らぬ黒人の男が迎えにくる。やがて物語は彼女の過去へ……。

ジー・カルプという名の若い女が、アントニーの平穏で裕福さを隠した小さな通りを、手入れの行き届いた生け垣に沿って歩いていた。ロジーは、片手を柵の網目と葉の茂みに走らせながらマユミの木の生け垣に沿って歩いているロジー・カルプという名のこの若い女だった。自分がロジー・カルプであることを彼女は知っていた。いま穏やかな足取りで、アントニーの閑静な住宅街のよく刈り込まれた生け垣に沿って歩いているのは、ロジーでもロジー・カルプでもある彼女なのだ。(pp.145-146)

これはなかなか奇妙な小説で、登場人物のほとんどがまともじゃないところが印象的だった。ひとことで言えば、リアルな世界を微妙に歪ませたような感じ。旧来的なリアリズム小説がアナログ写真だとすると、本作はデジタル写真といったところで、現代文学は人物の心の襞にまで注意を払って解像度をあげる反面、様々なフィルターをかけて全体像をぼかしている。本作の登場人物はそういう胡乱なフィルターがかかっていて、結果的には奇怪な人物が跋扈するワンダーランド的な小説になっていた。もちろん、フランスではこれがリアルだという反論があるかもしれない。みんながみんな自己中心的で、他人を収奪することに躊躇いがなく、場合によっては殺人まで犯す、そんな人間で溢れているのかもしれない。ただ、今まで読んできたフランス文学にはここまで違和感をおぼえなかったので、やはりこれはまともじゃないのだと推測できる。

とりわけ気になるのが親子関係のドライさだ。ロジーもラザールも親が敷いたレールから外れてしまうのだけど、そこを他人事のように冷たく突き放されてしまう。かと思えば、ラザールが事業を始めようとグアドループに移住するとき、両親もちゃっかりついていったりする。その際、ロジーだけはのけものに。さらに、ロジーはロジーで、具合の悪い息子を放置して瀕死にさせるのだった。これを読むと、家族っていったい何なのかと思う。フィクションでよく見る円満な関係は実はファンタジーで、現実は本作ほどではないにせよ、どこか歪なのではないか。親は親のエゴで子供を産み、子供は子供で親から利益を引き出そうとする。無償の愛なんていうのは嘘っぱち。親子も兄弟もそれぞれ他の家族を収奪の対象と見做している。

これを現代日本にまで敷衍すると、Twitterでよく見かける毒親問題に及ぶのではなかろうか。というのも、Twitterでは過去に虐待を受けた人たちが、親への恨み節をちょくちょくツイートしている。たとえば、子離れできない母親の過干渉だったり、習い事を過剰にやらせる教育虐待だったり、子供の自尊心を奪う罵詈雑言だったり。そういうのを受けて育った人たちが一定数存在している。これらは結局のところ親のエゴが強すぎるから起きているのであり、本人に自覚はないにせよ、子供が収奪の対象になっているわけだ。やはり無償の愛なんていうのは嘘っぱち。現実は現実で地獄なのである。そう考えると、本作は意外とリアルなのかもしれない。

フェルディナント・フォン・シーラッハ『罪悪』(2010)

★★★★

連作短編集。「ふるさと祭り」、「遺伝子」、「イルミナティ」、「子どもたち」、「解剖学」、「間男」、「アタッシュケース」、「欲求」、「雪」、「鍵」、「寂しさ」、「司法当局」、「精算」、「家族」、「秘密」の15編。

「人を殺したことはあるか?」男はアトリスとフランクにたずねた。

フランクは首を横に振った。

チェチェン人はポテトチップスと同じだ」ロシア人はいった。

「えっ?」フランクはわけがわからなかった。

「ポテトチップスだよ。チェチェン人は、袋入りのポテトチップスと同じなんだ」

「よくわかんないんだけど」フランクはいった。

「奴らを殺しだすと、やめられなくなるんだ。全員殺すまでな。全員を殺すしかねえ。ひとり残らずだ」ロシア人は笑った。そして突然、真顔になって、指の欠けている自分の手を見つめた。(pp.129-130)

『犯罪』と同様、弁護士を語り手にした犯罪実録風の連作だけど、淡々とした叙述がまるでハードボイルド小説みたいで、静かな迫力をたたえている。この文体はちょっと癖になるかもしれない。

以下、各短編について。

「ふるさと祭り」。夏祭りの最中、17歳の娘が楽団員たちにレイプされる。被疑者は8人いて、そのうちの誰か1人が事件を通報していた。弁護士とは因果な商売で、明らかに犯罪者と分かっていても、そして裁かれるべきだと分かっていても、そちら側の利益に尽くすしかない。軍隊では初めて人を殺したときに「童貞を失った」と表現するけれど、新人弁護士である「私」はこの事件で童貞を失った。もう純潔ではないのだ。

「遺伝子」。カップルが過剰防衛で人を殺すも証拠不十分で釈放、その後結婚してまっとうな社会生活を送る。ところが、科学の進歩によって事件が暴かれるのだった。2人の決断には驚いたけれど、それ以上にラスト一文が意表を突いていてなかなかインパクトがあった。そういう理由で自宅を避けたのか、みたいな。

イルミナティ」。私立の寄宿学校に入学したヘンリーが、ある罪悪を犯したことで生徒たちに首を吊られることに……。こういう秘密結社の儀式はいかにもヨーロッパという感じでけっこう好きだったりする。寄宿学校も同様。当初はヘンリーが殺されるのかと思ったら、そこはちょっと捻ってあった。ヨーロッパの歴史と文化に根ざした文芸風の短編。

「子どもたち」。小学校の女教師と結婚した男が、ある日突然逮捕される。容疑は24件の児童虐待で、被害者は女教師の生徒だった。終盤のどんでん返しはわりとありがちだけど、しかしまあ、けっこうショッキングだったのは確か。振り返ってみると、何でこの受難を避けられなかったのかと思う。本作を読んで足利事件を思い出した。

「解剖学」。男が女を拉致して解剖しようとするが……。運命の一撃ってやつかな、これは。弁護士の「私」が意外な理由でひょっこり顔を出すところがまたいい。

「間男」。社会的地位の高い中年夫婦の性的逸脱。そこから夫が男を灰皿で殴りつけて瀕死の重傷を負わせる。こんなことがあっても夫婦関係が崩れないのがすごいよなあ。性的逸脱をしたのは「中年の危機」のせいかと思ったけど、そんな単純なものでもないみたい。本作はドイツ刑法の解説もあってなかなかお得だった。

アタッシュケース」。婦警がポーランド人の車を検査すると、アタッシュケースのなかから死体の写真が出てきた。警察はポーランド人を勾留して事情を聞く。すごい奇妙な状況でぐいぐい引っ張られた。やっぱ謎がある物語は好奇心をそそられるね。ラストもけっこうなインパクト。思うに、高度に発達した犯罪小説はホラー小説と変わらないのかもしれない。

「欲求」。夫婦関係が冷めて万引きに手を染める妻。万引き依存症って日本でも少し前から話題になっていたけれど、同じことはドイツにもあるようだ。しかしまあ、家族に知られないまま元の鞘に収まるのって、本人にとってはいいことなのかな?

「雪」。麻薬密売の容疑で老人が逮捕される。黒幕が誰か自供するよう迫られるが、彼は黙秘をする。犯罪に手を染めるしかない社会の底辺を、温かく見つめるところが本作の魅力だろう。一方で、黒幕のハッサンは救いようがないのだけど。本作は著者らしい一風変わったクリスマスストーリーだった。

「鍵」。フランクとアトリスがロシア人から麻薬を買おうとするが、それがとんでもないトラブルに発展する。犯罪世界を舞台にした喜劇で面白かった。鍵を巡って二転三転するのだけど、これがまた理不尽極まりない。さらに、登場人物がやたらとキャラ立ちしていて笑える。ロシアの女って怖いなあ……。

「寂しさ」。14歳の少女が父親の友人に強姦されて妊娠、トイレで出産して赤ん坊を死なせてしまう。強姦による望まない妊娠はきつい。でも、こういうトラウマを抱えた人が、大人になってちゃんと子供を生み育てているところに救いがある。

「司法当局」。不具の中年男が人違いで逮捕される。「権利の上に眠る者は保護に値せず」という格言があるけれど、これって司法当局の怠慢じゃないかと思うんだよね。税金もらってるんだから自発的に動けよって感じ。

「精算」。夫のDVに10年間苦しめられてきた妻。ある日、夫が娘を自分の女にすると言い出した。妻は夫が寝ているときに彼を撲殺する。明らかに情状酌量の余地があるのだけど、法律上はそれが適用できない。じゃあどうするかと言ったときに、これを正当防衛にするのはアクロバティックだった。法律と人情の上手い妥協点。

「家族」。大学入学試験で好成績を修めたヴァラーだったが、まもなく父親が事故死する。彼は進学をやめて日本へ。とんとん拍子に出世して金持ちになる。父親違いの弟は犯罪者で、父親もナチス時代に強姦をしていた。当のヴァラーは若くして死んでしまう。こういうのを読むと、人生って何だろうなあって思う。

「秘密」。カルクマンと名乗る男が、自分は諜報機関に追われてると言ってきた。「私」は彼を精神病院に連れていく。オチがまるで落語みたいだった。掉尾を飾る短編がこんなんでいいのかと思ったけど、まあ、読後感がいいのでこれはこれでありかな。